紀元二千六百年記念行事

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ファイル:Place for 2600th Anniversary Celebration of the Japanese Empire.JPG
1940年(昭和15年)11月11日
紀元2600年記念式典会場

紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本ページでは記念行事に記念事業も加えて記述する。

概要

西暦1940年(昭和15年)が神武天皇即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王、副総裁:内閣総理大臣近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地神社である北京神社、南洋神社パラオ)、建国神廟満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された[1]。また、研究・教育機関では、神宮皇學館旧制専門学校から旧制大学に昇格した。

日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。

1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。

長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会ポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。

紀元二千六百年式典

内閣主催の「紀元二千六百年式典」が1940年(昭和15年)11月10日に、昭和天皇香淳皇后臨席の下、宮城外苑で挙行された。式典のために寝殿造の会場(光華殿[2])が設営された。式次第は下記の通り。

紀元二千六百年式典ノ勅語(昭和15年11月10日)

※漢字は常用漢字に改めた。

茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ

この模様は日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)によりラジオで実況中継された[3]が、天皇の勅語の箇所は放送が中断された。これは、ラジオの聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかがわからないため[4]不敬とされる状況が生じるのを避けるための措置であった。天皇の肉声が正式なプログラムとして初めてラジオで流れるのは、1945年(昭和20年)8月15日のポツダム宣言受諾を伝える玉音放送である。

ファイル:Celebrating Gagaku Music in Imperial 2600.JPG
紀元二千六百年記念奉祝会
1940年(昭和15年)11月11日

なお、翌日11日には同会場で式典同様、昭和天皇・香淳皇后臨席の下に奉祝会が行なわれ、高松宮宣仁親王(奉祝会総裁代理)とジョセフ・グルー(第13代駐日アメリカ合衆国大使)による奉祝詞奏上、奈良朝風の奉祝舞楽「悠久」の演舞、高松宮による聖寿万歳三唱などが行なわれた。参列者にはお祝いの食事(食饌)が用意されたが、日本酒のほかはパン果物など簡素なものにとどめられた。

また、紀元二千六百年祝典記念章が制定され(昭和15年7月27日勅令第488号「紀元二千六百年祝典記念章令」第1条)、紀元節又は紀元二千六百年式典に招かれた者(同第3条1号2号)及び式典の事務並びに要務に関与した者(同3号)に授与された(同第3条)。

紀元二千六百年祝典記念章

表面
裏面


その他記念行事・事業

ファイル:Tokubetu-Kankanshiki.jpg
紀元二千六百年特別観艦式

オリンピックと万博の同時開催計画

また、国威高揚の機会と、国力の対外的誇示の機会でもある国際的イベントもこの年に合わせて開催しようと日本政府により計画されていた。それは「オリンピック」や「万国博覧会」を日本に誘致し開催しようというもので、実際に大規模なイベントの開催が正式に決定していた。

だがこれらは、1937年(昭和12年)に始まった日中戦争支那事変)の長期化に伴い、五輪は中止、万博は延期されることになった[5]。しかし、東亜競技大会や東京の勝鬨橋のように、この一大イベントに合わせて開催された大会や造られた建造物もいくつか存在する。

神宮参拝の推奨

ファイル:San-kigen2600 carved in lantern.jpg
富士山頂、富士山本宮浅間大社奥宮の石燈籠に刻まれた讃紀元二千六百年歌。近衛文麿書。

当時は資源不足の統制下において軍事輸送を最優先する観点から、「贅沢は敵だ」・「遊楽旅行廃止」・「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、皇室に関係する神社の明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝は例外とされ、むしろ割引乗車券を販売するなど参拝を推奨していた。

国民は長く旅行を遠慮していたこともあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。また、伊勢神宮・橿原神宮を沿線にもっていた大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国鉄も同様に旅客輸送に努めた。

記念切手

逓信省(現在の日本郵政)は紀元二千六百年を記念する記念切手を発行している。紀元節の2月11日に2銭と10銭、式典が開催された11月10日に4銭と20銭の各額面の記念切手が発売された。いずれの図案も日本書紀に関する題材で、2銭は金鵄、4銭は高千穂、10銭は鮎と厳瓶(あゆといつべ)、20銭は橿原神宮である。また満州国も「日本紀元二千六百年紀念」の記念切手2種を発行している。

記念映画

DVD「続 戦時下のスクリーン 発掘された国策映画」に所収。 (販売元コニービデオ、2007年)

脚注

  1. 「神道、海を渡る」大阪朝日新聞昭和16年5月24日
  2. 光華殿は式典後の1946年(昭和21年)8月に小金井大緑地に移築され、その後、武蔵野郷土館となり、現在は江戸東京たてもの園ビジターセンターとなっている。
  3. 当時、日本には事実上の国営放送であるNHKラジオ第1放送しかなかった。民間放送が始まるのは敗戦後の1950年代(昭和25年-昭和34年)
  4. 当時は一般国民が天皇の声を聞くことさえ大変畏れ多いとされ、直立不動の姿勢を取らなければならなかった。
  5. 指南役 『幻の1940年計画 太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』 アスペクト、2009年

関連項目

外部リンク