綾部健太郎
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綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年9月6日 - 1972年3月24日)は日本の政治家、第53代衆議院議長(在任期間・1966年12月3日 - 1966年12月27日)。香川県出身(出生地及び選挙区は大分県)。正三位勲一等。
来歴・人物
戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(総裁・久原房之助)に与した。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属した。
終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄・西川貞一・依光好秋・高畠亀太郎・中井一夫・三善信房の6名のみである[1]。また綾部と同じく戦前政友会正統派に所属していた三土忠造は進歩党と連携し、進歩党が与党となった幣原内閣にも入閣したが、進歩党の結党自体には参加しなかった。
戦後、自由民主党において藤山派に所属し、総参謀格として重きをなす。元外相・重光葵の政界復帰のために自分の選挙地盤を譲って支援するなど、恬淡とした人柄で野党にも評価された。
作家の菊池寛とは旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)以来の親友。映画『末は博士か大臣か』(1963年大映/監督・島耕二、主演・フランキー堺)のモデルはこの2人とされる。
略歴
- 1890年9月6日:大分県杵築市にて出生。少年時代は香川県で過ごす。
- 1916年:京都帝国大学法学部卒業。山口銀行(三菱東京UFJ銀行の前身行の一つ)、信越電力などに勤務。
- 1932年:第18回衆議院議員総選挙に政友会公認で立候補し初当選。以後当選7回(戦前4回、戦後3回)。
- 1939年:平沼内閣厚生参与官。政友会の分裂に際し、久原房之助や鳩山一郎とともに正統派(久原派)に属する。
- 1945年:鈴木貫太郎内閣海軍政務次官。海軍省顧問をしていた藤山愛一郎と知り合う。終戦後、日本進歩党の結党に参加。
- 1946年:戦時中に大政翼賛会総務を務めるなどしていたため公職追放。追放期間中は東京急行電鉄取締役、東急文化会館社長などを務める。
- 1951年:公職追放解除。その後改進党大分県連幹事長として、同じく追放を解除された重光葵の政界復帰を支援する。
- 1958年:衆議院議員選挙に5回目の当選。中央政界に復帰。
- 1961年:裁判官弾劾裁判所裁判長。
- 1962年:第2次池田内閣運輸大臣。
- 1963年:新東京国際空港建設候補地の選定(富里空港案)に携わる(→成田空港問題)。第3次池田内閣においても運輸大臣を継続。
- 1966年:衆議院議長就任。共和製糖グループへの不正融資事件など、政界関連の不祥事が相次いでいた時期で(黒い霧事件)、国会運営に苦慮した。
- 1967年:中曽根派新人の佐藤文生初当選のあおりを受け、総選挙に落選[2]。日本鉄道建設公団総裁に就任。
- 1972年3月24日:81歳にて死亡。
脚注
- ↑ 中谷武世 著 『戦時議会史』 民族と政治社、1974年、536頁 - 537頁
- ↑ この時の選挙の模様はジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』に記録されている。
演じた俳優
議会 | ||
---|---|---|
先代: 山口喜久一郎 |
衆議院議長 第53代:1966年 |
次代: 石井光次郎 |
公職 | ||
先代: 斎藤昇 |
運輸大臣 第29・30代:1962年 - 1964年 |
次代: 松浦周太郎 |