「55年体制」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
'''55年体制'''(ごじゅうごねんたいせい)とは、[[日本]]において、[[与党]]第1党は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が占め政権を維持し、[[野党]]第1党は[[日本社会党]]が占めていた体制。[[1955年]](昭和30年)にこの構図が成立したためこう呼ばれる。
+
'''55年体制'''(ごじゅうごねんたいせい)
  
初出は、[[政治学者]]の[[升味準之輔]]が[[1964年]](昭和39年)に発表した論文「1955年の政治体制」(『思想』1964年4月号)である。
+
1955年に始まる,[[自由民主党]][[日本社会党]]の二大政党を中心とした[[政党政治]]運営の仕組み。左右に分裂していた日本社会党が 1955年に統一を果たすと,これに触発された保守陣営では,[[自由党]]と[[日本民主党]][[保守合同]]により自由民主党が誕生した。以後,55年体制は 38年間続いた。おもに以下の二つの要素によって定義される。(1) 保革対立 アメリカ合衆国を中心とする西側諸国との関係を重視し,日米安保体制([[日米安全保障条約]])の堅持,[[憲法改正]],伝統的価値を追求する保守勢力([[保守政党]])と,社会主義国([[社会主義]])との関係を重視し,日米安保体制に反対し,[[日本国憲法]]および近代的・民主的価値の擁護を掲げる革新勢力([[革新政党]])との対立の構図,(2) 1か2分の1政党制 当初[[政権交代]]の可能性を秘めた[[二大政党制]]が到来するかにみえたが,実際には 1993年まで続いた,[[衆議院]]議席の 3分の2弱を自由民主党が占めるという[[政党制]]。自由民主党政権は,1976年の[[ロッキード事件]],1980年代の[[リクルート事件]],1992年の[[東京佐川急便事件]]と金にまつわるスキャンダルに対処できず,1993年7月の[[衆議院議員総選挙]]で過半数割れし,日本社会党も惨敗した。一方,[[日本新党]][[新生党]][[新党さきがけ]]が得票数を伸ばし,翌 8月これら新党グループと日本社会党,[[民主社会党]][[公明党]][[細川連立内閣]]を樹立,ここに 55年体制は崩れた。
 
 
== 経過 ==
 
=== 体制成立の背景 ===
 
[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)による[[連合国軍占領下の日本|占領下の日本]]において、GHQ指令により[[無産政党]]([[日本社会党]][[日本共産党]]など)が合法化される一方、同時に[[保守政党]]が乱立する事態が発生した。[[1951年]](昭和26年)に日本社会党が、[[日本国との平和条約|講和条約]]と[[日米安全保障条約]](安保)に対する態度の違いから、[[社会党右派|右派社会党]]・[[社会党左派|左派社会党]]に分裂したが、保守政権による「[[逆コース]]」や[[改憲]]に対抗するために、「[[護憲]]と反安保」を掲げ、[[1955年]](昭和30年)に[[社会党再統一]]が行われた。この日本社会党の統一に危機感を覚えた[[財界]]からの要請で、それまで存在した[[日本民主党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]が[[保守合同]]して[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が誕生し、保守政党が第1政党となった。見かけは[[二大政党制|二大政党体制]]となったが、自民党の議席は2/3、社会党の議席は1/3 であったし、二大政党制の長所であるはずの[[政権交代]]円滑化に資することはなかった。自民党は「改憲・保守・安保護持」を、日本社会党は「護憲・[[革新]]・反安保」を、それぞれ標榜した。
 
 
 
[[1955年]](昭和30年)当時の世界情勢は[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]が主導する[[冷戦]]の真っただ中であり、55年体制も冷戦という国際社会に合わせた日本国内の政治構造(「国内冷戦」)であると指摘する意見がある。
 
 
 
=== 「一と二分の一」の確定 ===
 
自由民主党は[[押し付け憲法論]]を主張、[[自主憲法論|自主憲法制定]]を党是に定めた。[[第28回衆議院議員総選挙|1958年(昭和33年)の総選挙]]では互いに過半数にのぼる候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女[[普通選挙]]になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。その結果、定数467で自由民主党287議席(他、[[追加公認]]11)、日本社会党166議席(他、追加公認1)となり、二大政党の公認候補だけで全体の97%の議席を占めた。これは総選挙最高峰の記録である。しかし、議席数は追加公認を含めると、自由民主党が1議席を減らしただけの圧勝であり、日本社会党は7議席を増やしたものの、護憲に必要な3分の1の議席を確保したに留まった。
 
 
 
このように、二大政党制といっても[[国会 (日本)|国会]]の議席数では自由民主党と日本社会党の勢力比は2:1であった。そのため、「'''一と二分の一政党制'''」とも呼ばれる。この保守と革新の“2:1”の比率は、保守分裂のため社会党が第1党になった[[第23回衆議院議員総選挙|1947年(昭和22年)の総選挙]]の時点で既に現れていた。
 
 
 
55年体制は、自由民主党から日本社会党への[[政権交代]]が実現できない一方、保守政党は国会で[[日本国憲法第96条|憲法改正]]のための3分の2以上の議席を確保できなかったことから、政権交代と憲法改正のない体制とされる。
 
 
 
戦後暫くは、いわゆる諸派・[[ミニ政党]]がしばしば議席を獲得していた。しかし55年体制が久しくなると、[[参議院]]で一時的にミニ政党が進出した時期もあるが、[[衆議院]]で議席を獲得することほとんどなくなった。
 
 
 
=== 日本社会党の衰退 ===
 
[[1960年代]]に入ると国民に新憲法が定着し、自由民主党の議員も改憲にはこだわらない議員が主流となった。[[憲法調査会]](第1次)が終了したのもその流れであった。こうして、「[[保守本流]]」と呼ばれる議員たちを中心に、[[安全保障]]をアメリカに依存し、[[軍事費|国防費]]の分を経済政策に当てる軽武装路線を基盤とした政策が採られることになった。「護憲と反[[日米安全保障条約|安保]]」を掲げる日本社会党にとっては、対抗相手の陰が薄くなることにつながった。
 
 
 
国民も「安保」体制を受け入れ始めた1960年代にあって、日本社会党は[[イタリア共産党]]に端を発する[[構造改革]]論を導入し対応しようとしたが、議会政治より[[社会主義]]革命を優先する左派によって葬られた。その後は左派主導の下、「護憲と反安保」にこだわり続けることで支持基盤を失っていった。
 
 
 
その上、日本社会党は支持基盤を[[労働組合]]に絞るようになり、1960年代末以降、総選挙のたびに公認候補者を減らす消極策を取るようになった。こうして日本社会党は政権獲得の意欲を失い、選挙のたびごとに勢力を衰退させ「長期低落傾向」と呼ばれるようになる。さらに野党勢力はその後、社会党の分派が独立して[[民社党]]となり、[[公明党]]が結成され、[[日本共産党]]の伸張が起こり、一党で自由民主党に対抗出来る政党は皆無となった。こうして[[1975年]](昭和50年)に成立した構図は「'''75年体制'''」とも呼ばれる。
 
 
 
自由民主党の勢力はかげりを見せ始めたが、日本社会党も歩調を合わせるかのように議席を減らした。
 
 
 
=== 自由民主党の失墜と体制の崩壊 ===
 
自由民主党は議席数で漸減傾向を示しつつも第1党・政権与党の座は維持し続けたが、長期政権下で汚職が続発し、政治不信を招き始めた。さらに、[[自由民主党の派閥|派閥]]間の勢力均衡が[[田中角栄]]によって崩され、自由民主党自体が混乱していった。[[第37回衆議院議員総選挙|1983年(昭和58年)の総選挙]]では自民党が敗北し、[[新自由クラブ]]と[[連立政権]]を組むが、[[第38回衆議院議員総選挙|1986年(昭和61年)の総選挙]]で自民党が勝利し、再び自民党単独政権となり党勢は一時的に回復した。しかし、[[1989年]](平成元年)から[[1992年]](平成4年)にかけての世界規模での[[冷戦]]体制の崩壊と並行して、[[バブル景気|バブル崩壊]]とそれに伴う経済不振に、なおやまない政治不信が自由民主党の支持を低落させた。
 
 
 
日本社会党は[[土井ブーム]]などにより一時的に勢力を回復したが、やがて長期低落傾向に復する。自由民主党の失墜と、それに取って代わる実力を持たない日本社会党の不振は、体制への不満と無力感を著しく高め、[[無党派層]]、そして政治そのものへの無関心層の増大を生んだ。
 
 
 
さらには、[[1988年]](昭和63年)の[[リクルート事件]]や[[1992年]](平成4年)の[[東京佐川急便事件]]により、国民の政治不信が頂点に達する。これに対し[[海部内閣]][[宮沢内閣]]が政治改革関連法案を提出するが、いずれも最終的に廃案となった。そして宮沢内閣の政治改革関連法案の廃案に反発した自由民主党議員が大量に離党、[[羽田孜]]・[[小沢一郎]]らによる[[新生党]]や、[[武村正義]]らによる[[新党さきがけ]]が結党されるに至った。その結果、[[第40回衆議院議員総選挙|1993年(平成5年)の総選挙]]で自由民主党は大幅に過半数を割り込む結果となった。また、日本社会党も惨敗した。
 
 
 
それに対し、自由民主党離党者による新生党、新党さきがけ、[[細川護熙]]率いる[[日本新党]]が躍進し、「新党ブーム」を巻き起こした。総選挙前に連立協議をしていた新生党、日本社会党、[[公明党]]、[[民社党]]、[[社会民主連合]]は、日本新党の細川を[[内閣総理大臣|首相]]とすることで合意し、自由民主党との連携を模索していた日本新党、新党さきがけがこれを受諾し、[[1993年]](平成5年)[[8月9日]]に[[細川内閣]]が成立し、自由民主党は初めて野党に移行した。これをもって、38年間にわたって続いた55年体制は崩壊した。
 
 
 
ただし、55年体制の定義の差により、体制終了の時期には他に諸説もある。一般的には上記の細川政権が発足した1993年8月9日をもって崩壊とするが、自民党と社会党が連立して[[自社さ連立政権]]が発足した[[1994年]](平成6年)6月、[[衆議院]]第2党が社会党に代わり[[新進党]]となった1994年12月も挙げられることがある。いずれにせよこの時期(1993年 - 1994年)以降、戦後長らく続いてきた政治体制は大きく変わっていくことになる。
 
 
 
== 55年体制の評価 ==
 
*作家の[[塩野七生]]は、55年体制を[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の[[元老院 (ローマ)|元老院]]に例えて評価している<ref>塩野七生『痛快!ローマ学』 pp182-184、[[集英社]]、[[2002年]]。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[自公民路線]]
 
*[[社公民路線]]
 
*[[一党優位政党制]]
 
*[[包括政党]]
 
 
 
{{自由民主党 (日本)}}
 
{{社会民主党}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:こしゆうこねんたいせい}}
 
{{DEFAULTSORT:こしゆうこねんたいせい}}
 
[[Category:1955年の日本]]
 
[[Category:1955年の日本]]

2018/12/24/ (月) 18:08時点における最新版

55年体制(ごじゅうごねんたいせい)

1955年に始まる,自由民主党日本社会党の二大政党を中心とした政党政治運営の仕組み。左右に分裂していた日本社会党が 1955年に統一を果たすと,これに触発された保守陣営では,自由党日本民主党保守合同により自由民主党が誕生した。以後,55年体制は 38年間続いた。おもに以下の二つの要素によって定義される。(1) 保革対立 アメリカ合衆国を中心とする西側諸国との関係を重視し,日米安保体制(日米安全保障条約)の堅持,憲法改正,伝統的価値を追求する保守勢力(保守政党)と,社会主義国(社会主義)との関係を重視し,日米安保体制に反対し,日本国憲法および近代的・民主的価値の擁護を掲げる革新勢力(革新政党)との対立の構図,(2) 1か2分の1政党制 当初政権交代の可能性を秘めた二大政党制が到来するかにみえたが,実際には 1993年まで続いた,衆議院議席の 3分の2弱を自由民主党が占めるという政党制。自由民主党政権は,1976年のロッキード事件,1980年代のリクルート事件,1992年の東京佐川急便事件と金にまつわるスキャンダルに対処できず,1993年7月の衆議院議員総選挙で過半数割れし,日本社会党も惨敗した。一方,日本新党新生党新党さきがけが得票数を伸ばし,翌 8月これら新党グループと日本社会党,民主社会党公明党細川連立内閣を樹立,ここに 55年体制は崩れた。



楽天市場検索: