源俊頼
源 俊頼(みなもと の としより)は、平安時代後期の貴族・歌人。宇多源氏、大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。
経歴
10歳代より一時期修理大夫・橘俊綱の猶子となる。篳篥に優れ、始め堀河天皇近習の楽人として活動し、承暦2年(1078年)の『承暦内裏歌合』には楽人として参加している。
嘉保2年(1095年)に父・経信が大宰権帥に任ぜられたため、父と共に大宰府へ下向するが、承徳元年(1097年)経信の死去に伴い帰京する。その後は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加すると共に、『堀河院百首』を企画・推進した。天治元年(1124年)、白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集。藤原基俊と共に当時の歌壇の中心的存在であった。歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に201首入集。『金葉和歌集』(35首)・『千載和歌集』(52首)では最多入集歌人となっている。[1]
右近衛少将・左京権大夫などを歴任し、長治2年(1105年)に従四位上・木工頭に叙任、天仁3年(1110年)越前介を兼任。天永2年(1111年)以後散位。
逸話
摂政関白にまでなった法性寺殿こと藤原忠通の邸宅で歌会があった。歌を詠み上げる役目の講師が、俊頼の歌を詠もうとすると短冊に名前が書いていない。そこで講師が俊頼に目配せをし咳払いまでしたが、気づかないようなので密かに「お名前をお忘れでは」と言うと、俊頼は「そのままお詠みなさい」と言うので、歌を詠むと「卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤(しづ)が垣根もとしよりにけり」という。歌に俊頼(としより)の名がちゃんと読み込まれていたのである。講師の者はしきりにうなずいて感心し、藤原忠通もたいへん面白がったという。(『無名抄』)
和歌
- 小倉百人一首
- うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを(『千載和歌集』恋二・707)
- 百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)
- 山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(『金葉和歌集』春・50)
百人秀歌と小倉百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。
著書
- 家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)
- 歌学書『俊頼髄脳』
書家
歌人として高名で、能書家としての記録はない。しかし父の経信も子の俊恵もともに能書家であり、古筆中には俊頼の書として伝えられるものが多く、中でも有名なものは次のとおりである。
系譜
脚注
- ↑ 『勅撰作者部類』
参考文献
- 『日本と中国の書史』 - 社団法人 日本書作家協会発行 木村卜堂編著