「ヴェネツィア」の版間の差分

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|title=ヴェネツィアにおける宗教 (2012年)<ref>{{Cite web|url=http://www.catholic-hierarchy.org/diocese/dvene.html|title=Patriarchate of Venezia - Statistics|language=英語|accessdate=2016-08-11}}</ref>
 
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'''ヴェネツィア'''({{lang-it|'''Venezia'''}}{{IPA audio link|It-Venezia.ogg}}<ref>{{ipal|veˈnɛʦja}}</ref>)は、[[イタリア|イタリア共和国]]北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の[[基礎自治体]]([[コムーネ]])。[[ヴェネト州]]の[[州都]]、[[ヴェネツィア県]]の[[県都]]である。[[ヴ|ヴの表記]]により'''ベネチア'''と表記されることもある。
 
 
 
中世には[[ヴェネツィア共和国]]の[[首都]]として栄えた都市で、「[[アドリア海]]の[[女王]]」「[[水の都]]」{{要出典範囲|「アドリア海の[[真珠]]」|date=2018年5月}}などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でも'''ヴェニス'''、'''ベニス'''と呼ばれることもある。
 
 
 
== 名称 ==
 
古来は[[ラテン語]]で[[ウェネティ人]]の土地を意味し、ウェネティ人が住んでいたアドリア海の奥に拡がる土地を[[ウェネティア]] ({{lang|la|Venetia}}) と呼んだことから来ている。この綴りをそのままイタリアでの[[ラテン語]]の読み方に従うと、ヴェネツィア(ヴェネツャ)となる。[[英語]]でヴェニス ({{lang|en|Venice}})、[[フランス語]]でヴニーズ ({{lang|fr|Venise}})、[[ドイツ語]]でヴェネーディヒ ({{lang|de|Venedig}}) と呼ばれる。[[ヴェネト語|ヴェネツィア方言]]では、古語は {{lang|it|Venexia}}、現代語では {{lang|it|Venessia}}(まれに {{lang|it|Venezsia}})と表記され、ヴェネーシアとヴェネースィアの中間に近い音で発音される。
 
 
 
[[日本語]]の表記では、[[イタリア語]]から来たものでもヴェネーツィアを始めとして、ヴェネチア、ベネチア、ベネツィアなどもある。英語由来の日本語表記では、ヴェニス、ベニスなどと書かれることもある。
 
 
 
英語での形容詞形"Venetian"はヴィニーシャンとヴェニーシャンの中間に近い発音だが、これの日本語表記は「ヴェネチアン」または「ベネチアン」となることが多く、また、綴りは異なるがイタリア語の影響から「ヴェネ'''ツィ'''アン」と表記されることもしばしば。
 
 
 
== 地理 ==
 
=== 位置・広がり ===
 
都市としてのヴェネツィアは、[[ヴェネツィアの潟|ヴェネタ潟]]上の島(ヴェネツィア本島、5.17km²)に築かれている。
 
 
 
自治体(コムーネ)としてのヴェネツィア市({{lang|it|Comune di Venezia}})は、ヴェネタ潟の島々や、[[メストレ]]などの本土側も市域に含んでおり、面積は412.54 km² におよぶ。
 
 
 
市域に含まれる島として、本島のすぐ南には「[[サン・ジョルジョ・マッジョーレ|サン・ジョルジョ・マッジョーレ島]]」「[[ジュデッカ|ジュデッカ島]]」、さらに南に下ると映画『[[ベニスに死す (映画)|ベニスに死す]]』で有名な「[[リード・ディ・ヴェネツィア|リード島]]」がある。また、本島のすぐ北には、墓地となっている「[[サン・ミケーレ島]]」、さらに北には[[ヴェネツィアン・グラス]]で有名な「[[ムラーノ|ムラーノ島]]」、[[レース (手芸)|レース編み]]産業の地「[[ブラーノ|ブラーノ島]]」、そして、もっとも古い時代に栄えた「[[トルチェッロ|トルチェッロ島]]」がある。
 
 
 
[[File:Venedig-lagune.png|thumb|250px|none|[[ヴェネツィアの潟|ヴェネタ潟]]内の島々の位置関係]]
 
==== 隣接コムーネ ====
 
隣接するコムーネは以下の通り。
 
*[[カンパーニャ・ルーピア]]
 
*[[カヴァッリーノ=トレポルティ]]
 
*[[キオッジャ]]
 
*[[イェーゾロ]]
 
*[[マルコーン]]
 
*[[マルテッラーゴ]]
 
*[[ミーラ]]
 
*[[モリアーノ・ヴェーネト]] (TV)
 
*[[ムジーレ・ディ・ピアーヴェ]]
 
*[[クアルト・ダルティーノ]]
 
*[[スコルツェ]]
 
*[[スピネーア]]
 
  
=== ヴェネツィア市街 ===
+
'''ヴェネツィア'''({{lang-it|'''Venezia'''}}<ref>{{ipal|veˈnɛʦja}}</ref>)
  
都市としてのヴェネツィアは、[[アドリア海]]の最深部、[[ヴェネツィア湾]]にできた[[ラグーン|潟]]「'''[[ヴェネツィアの潟|ラグーナ]]'''({{lang|it|Laguna di Venezia}} または {{lang|it|Laguna Veneta}})」の上に築かれた、[[運河]]が縦横に走る水の都である。
+
[[イタリア]]北東部,[[アドリア海]]北西岸にあるベネト州の州都,港湾都市。ベネチア県の県都でもある。英語ではベニス Venice。ベネチア湾奥の潟湖の多数の島からなり,約 400の橋によってつながれる。市街地を二つに分ける大運河があり,そのほか 200あまりの運河が発達,「水の都」と呼ばれる。
  
ヴェネツィア本島は大きな[[魚]]のような形をしており、本島全体が小さな島々からできている。その真ん中を全長約3kmにおよぶ逆S字形の「'''[[カナル・グランデ]]'''({{lang|it|Canal Grande}}、'''大運河''')」がヴェネツィアの北西から南東へ、市街を2つに分けながら湾曲して流れる。鉄道路線と土手を走る車道が島々と本土を結び、ラグーナの外側の長い[[砂州]]や海岸の[[防波堤]]がこの町を海から守っている。150をこえる運河が177の島々を分け、運河には400におよぶ橋がかかる。また市街地と南端の[[ジュデッカ|ジュデッカ島]]の間には幅約400mのジュデッカ運河がある。
+
567年頃ロンバルディアからの避難民が湾のほとりに集落をつくったことに始まる。7世紀末に共和政総督 ([[ドージェ]] ) 下に統一。初めはビザンチン帝国の支配下にあったが,[[十字軍]]の活動の結果貿易の中心となり,1381年ジェノバを破り,14~15世紀にはベネチア共和国として繁栄の頂点に達した。しかし,[[オスマン帝国]]の攻勢の激化と周辺諸国との戦争,さらに[[大航海時代]]以後東西貿易の主要港としての地位を喪失したことなどにより衰退が始まり,18世紀末にはナポレオン1世が占領,1866年[[イタリア王国]]に併合された。最盛期には多くの芸術家が集まり,絵画では[[ベネチア派]]が興り,17世紀にはオペラなど[[バロック音楽]]の中心地となった。宝石,工芸品の製造,繊維工業が盛んで,ガラス工芸 ([[ベネチア・ガラス]] ) は特に有名。対岸のマルゲラ港付近のメストレ地区には化学,冶金,製鉄,機械製造,造船,石油化学などの近代工業が興り,公害が問題となっている。湿気と地盤沈下もまた問題化している。ローマ,フィレンツェと並ぶ観光地でビザンチン建築の代表[[サン・マルコ大聖堂]]などの名所が多い。 1987年世界遺産の文化遺産に登録された。
 
 
地上では、迷路のように狭くて曲がりくねった[[路地]]や通りに[[自動車]]は入れず、[[橋]]も歩行者専用である。何世紀もの間市内の輸送をになったのは、[[ゴンドラ (船)|ゴンドラ]] ({{lang|it|gondola}}) と呼ばれる手漕ぎ[[ボート]]であった。今は[[水上バス]]や[[フェリー]]が[[市民]]や貨物を運んでいるが、ゴンドラも[[観光]]に利用されている<ref name="浅井2001"/>。
 
 
 
ヴェネツィアは、6区を意味するセスティエーレ ({{lang|it|sestiere}}) から成り、ドルソドゥーロ ({{lang|it|Dorsoduro}})、サンタ・クローチェ ({{lang|it|Santa Croce}})、サン・ポーロ ({{lang|it|San Polo}})、サン・マルコ ({{lang|it|San Marco}})、カンナレージョ ({{lang|it|Cannaregio}})、カステッロ ({{lang|it|Castello}}) の6つの地区に分かれている。
 
 
 
[[干潟]]に建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込みそれを建物の土台とした。そのため、"''ヴェネツィアを逆さまにすると[[森林|森]]ができる''"(地中に丸太が乱立するがごとく大量に打ち込まれたため)、と言われている。
 
 
 
かつては海上に浮かぶ孤島であったが、[[オーストリア帝国]]治世下の[[1846年]]にイタリア本土との間に[[鉄道]]が敷かれ、後に自動車用道路の「[[リベルタ橋]]」も架けられ、イタリア本土との往来は容易である。ただし、ヴェネツィア本島内は自動車での移動は不可能であり、[[自転車]]の使用も禁止されている([[乳母車]]、[[車椅子]]は可。また、カンポ ({{lang|it|campo}}) と呼ばれる[[広場]]では子供用自転車の乗り回しは可。)ため、車はリベルタ橋を渡ってすぐの所にある「ローマ広場」の[[駐車場]]に置いて、島内を徒歩か船舶で移動することになる。
 
 
 
車が入れず、一方で運河が発達していることもあり、主な交通機関は必然的に船になる<ref name="浅井2001"/>。水上タクシー、水上バス、渡し船などが運河を用いて頻繁に運行されている(詳細は[[#交通|後述]])。なお[[ゴンドラ (船)|ゴンドラ]]と呼ばれる手漕ぎの舟がヴェネツィアでは有名だが、現在では一部の渡し船を除き観光用途で運航されている。
 
 
 
交通に運河を用いた水上交通が頻繁に用いられることから、運河に面した玄関を持つ建物も多い。また警察や消防、救急輸送も車に代わり、船舶を用いてその業務を行っている。
 
 
 
現代のヴェネツィアは、他地域への[[人口]]流出、[[水害]]や[[地盤沈下]]、[[大気]]や[[水]]の[[汚染]]、建造物の老朽化など多くの問題に直面している。1966年の大水害の後には、歴史的な町を守るための国際的な運動が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の主唱で組織された。
 
 
 
大潮、低気圧、そしてアドリア海の東南から吹く風「[[シロッコ]] ({{lang|it|scirocco}})」の3つの要因が重なると、「'''[[アックア・アルタ]]'''({{lang|it|acqua alta}}、高水の意)」と呼ばれる[[高潮]]がヴェネツィア湾で起こる。このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低い「[[サン・マルコ広場]]」は水没する(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保する)。過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の[[地下水]]のくみ上げが行われたことにより[[地盤沈下]]が起こり、アックア・アルタによる浸水の水位が1m以上になったこともある。建造物の沈下は、地下の帯水層の流出が原因とされるため、地下水使用の制限や[[アルプス山脈|アルプス]]からの水道の導入などで対処している。更に今後の[[地球温暖化]]によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されている。水没を防ぐために、アドリア海との間の3カ所に可動式の[[防潮堤]]を設ける「モーゼ計画 ({{lang|it|Progetto Mose}})」が提案され、工事も着手されているが、環境や[[ヴェネツィアの潟]](ラグーナ)に与える影響が懸念されるため、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もある。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア共和国の歴史}}
 
[[File:Venezianische Kolonien.png|thumb|300px|left|[[ヴェネツィア共和国]]の領土の変遷]]
 
ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そして[[アドリア海]]の波と風の力によって作られた湿地帯である。
 
 
 
古代、ヴェネツィア周辺の地域には[[ウェネティ人]]が住んでいた。伝説では、[[アクイレイア]]、[[パドヴァ]]などの北イタリアの都市の住民が、[[5世紀]]の[[ゲルマン人]]のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、[[452年]]にヴェネツィアの歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の[[トルチェッロ|トルチェッロ島]]である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。
 
 
 
彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元々[[東ローマ帝国]]の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。[[697年]]、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これが'''[[ヴェネツィア共和国]]'''の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、[[836年]]には[[イスラム]]の侵略を、[[900年]]には[[ハンガリー|マジャール]]の侵略を撃退した。[[10世紀]]後半からはイスラム諸国と[[商業]][[条約]]を結んだが、これは[[ムスリム]](イスラム教徒)と戦うよりも[[貿易]]をしようというヴェネツィア人の現実的な[[政策]]によるものである。
 
 
 
[[9世紀]]始め、[[フランク王国]]がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。[[810年]]に東ローマ帝国‐フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。
 
 
 
このころ、[[ヨーロッパ]]各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の[[守護聖人]]を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、[[福音書]]著者[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]]の遺骸が[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]にあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、[[828年]]、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。
 
 
 
[[10世紀]]後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。[[ジェノヴァ共和国]]などの同じイタリアの貿易都市とは違い、[[都市]]の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。
 
 
 
[[11世紀]]、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。
 
 
 
[[File:Campo de l'Arsenal.jpg|thumb|right|275px|[[アルセナーレ・ディ・ヴェネツィア|工廠]]正門ポルタ・マグナ]]
 
1104年に工廠([[アルセナーレ・ディ・ヴェネツィア|アルセナーレ]])が創られ軍船の修理を始めた。1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大16千人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があった。1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となった。1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続いた。1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就いている。
 
 
 
[[1204年]]、[[第4回十字軍]]とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都の[[コンスタンティノープル]]を攻略、援助への代償として[[クレタ島]]などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになった。東地中海から[[黒海]]にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ[[13世紀]]に、ヴェネツィアの[[マルコ・ポーロ]]が黒海北岸から中央アジアを経て[[元 (王朝)|元]]へ向かうことを容易にさせた。
 
 
 
富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになった。13〜[[14世紀]]には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづいた。[[1378年|1378]]〜[[1381年|81年]]の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半には[[キリスト教]]世界でも屈指の[[海軍]]力をもつ[[都市国家]]となった。
 
 
 
[[15世紀]]半ばの[[オスマン帝国]]の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。[[1538年]]における[[プレヴェザの海戦]]で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、[[大砲]]の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。また、[[1497年|1497]]〜[[1498年|98年]]にポルトガルの航海者[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[喜望峰]]をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象が[[アジア]]に移り、[[アメリカ大陸]]が発見され、時は[[大航海時代]]へ遷ること共に貿易の舞台はアドリア海から[[大西洋]]や[[太平洋]]に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。これに対してヴェネツィアは[[ガラス]]や[[レース (手芸)|レース]]などの[[工芸]]品を作ることで対処した。[[1508年]]、ヴェネツィアに対抗して[[神聖ローマ帝国]]、[[教皇]]、[[フランス]]、[[スペイン]]は[[カンブレー同盟戦争|同盟]]をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。[[1516年]]、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できなかった。
 
 
 
[[1797年]]、ヴェネツィア共和国は[[ナポレオン・ボナパルト]]に侵略され、ついに崩壊した。[[カンポ・フォルミオ条約]]により、ナポレオンはその領土を[[オーストリア]]に引き渡した。オーストリアは[[1805年]]にフランスが支配する[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]に譲ったが、[[1814年]]には奪回。オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアより[[トリエステ]]を重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。その翌年、ヴェネツィアと[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]は[[ロンバルド=ヴェネト王国]]をつくった。ヴェネツィア人はイタリアの政治家[[ダニエーレ・マニン]]の指導のもとで、[[1848年]]にオーストリア支配に対する反乱([[1848年革命]])をおこし、[[ヴェネト共和国]]を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。[[1866年]]に[[普墺戦争]]がはじまると、イタリア王国はこれを[[第三次イタリア統一戦争]]としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。
 
 
 
[[1987年]]、[[世界遺産]](文化遺産)に『[[ヴェネツィアとその潟]]』として登録された。
 
 
 
== ヴェネツィアの文化と芸術  ==
 
ヴェネツィアの現代生活を最もよく表現している画家は、彼に本当のビジョンを与えている。彼は有名な画家である[[アントニオ・ロッタ|アントニオ・ロッタ(イタリア語:Antonio Rotta; 1828-1903年)、画家[アントニーオ・ロッタ]はヨーロッパ各地で知られていた。]] 今日は世界各地の美術館で[[アントニオ・ロッタ]]と呼ばれ、ヴェネツィア美術アカデミ[[ヴェネツィア美術アカデミー]]([[イタリア語]]:Accademia Veneta)
 
 
 
== 交通 ==
 
 
 
; 水上バス
 
:[[ファイル:Rialto Bridge Grand Canal.jpg|thumb|[[リアルト橋]]付近の[[カナル・グランデ]]を走行する水上タクシーと水上バス]]
 
: 先述したとおり、島には車の乗り入れができないため、島内や島同士の連絡には[[水上バス]]([[ヴァポレット]]、{{Lang|it|vaporetto}})が専ら用いられている。島内の移動にはヴァポレットのほか徒歩、[[水上タクシー]](モトスカーフィ、{{Lang|it|motoscafi}})、さらに橋がかかっていない運河の両岸を行き来するため[[渡し船]](トラゲット、{{Lang|it|traghetto}})がしばしば用いられる<ref name="浅井2001"/>。
 
: ヴァポレットの運行を行っているのは[[ACTV]]社で、同社はそのほかに[[ローマ広場]]とマルコ・ポーロ空港など各地の間を結ぶ路線や、さらにはリード(リド)島、本土の[[メストレ]]地区における路線バスの運行も担っている。
 
: 水上バスはヴェニス島内の大運河を通るもののほか、外周を回るもの、ムラーノ島、ブラーノ島などへの路線など現在25路線あるが、普通路線はルートごとに1から82までの番号(欠番もあり)がつけられており、深夜便やフェリー、急行など特殊便にはアルファベットがつけられている。
 
: 2010年現在、観光客に対する乗船賃は島民や島で働く人たちに比べて4倍程度の料金設定で、距離に関わりなく1回6.5ユーロである。乗船場の売り場か、町中にあるタバッキと呼ばれるキオスクなどで乗船券を購入し、船着き場にある刻印器で刻印してから乗船する形になる。乗降船時に改札はないが、まれに船内で検札があり、乗船券を保有していなかったり、乗船券への刻印をしていなかった場合、39ユーロの罰金が科せられる。
 
: この切符の他、ICカードで12時間、24時間、36時間、48時間、72時間、1週間という、各々の有効期限内は乗り放題のとなるカードも発売されている。このカードを用いる場合、船着き場にある刻印器(バスの場合は、バス内にもある)で端末にかざしてから乗船する。2010年現在、24時間パスは18ユーロ、1週間パスは50ユーロで、空港やサンタ・ルチア駅などのACTVカウンターで購入できる。
 
 
 
; 陸上交通
 
: ヴェネツィアと本土の間を結ぶ自動車橋は全長が約4kmある[[リベルタ橋]]で、それに並行して鉄道の橋が架けられている。後者が先に開業した。
 
: ローマ広場には駐車場とバスターミナルが設けられており、自動車・バスで入島するものはここでヴァポレットへの乗り換えをすることになる。
 
; 鉄道
 
: ローマ広場から[[カナル・グランデ]]を挟んだ先には、ヴェネツィア本島における[[トレニタリア]]の[[ターミナル駅]]である[[ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅]]がある。2008年にはこの間に[[コスティトゥツィオーネ橋]]が架けられ、行き来が容易になった。サンタ・ルチーア駅には[[ユーロスター・イタリア]]や[[インターシティ]]に代表される[[ローマ]]・[[ミラノ]]などイタリアの各地へ向かう列車、さらには近隣の[[オーストリア]]・[[ドイツ]]・[[スイス]]などへ向かう国際列車が発着している。また[[ベルモンド (企業)|ベルモンド]]社が運行する企画列車の[[オリエント急行|ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス]] (VSOE) も、この駅を終着駅としている。ここは鉄道利用の場合の入島拠点であり、ローマ広場と同様に駅前へヴァポレットの乗り場が設けられている。
 
: 現在、メストレ地区を中心に[[ライトレール]]の整備工事が進んでおり、リベルタ橋を介してヴェネツイア本島にも乗り入れる予定がある。
 
: 本土側のメストレ地区には[[ヴェネツィア・メストレ駅]]がある。[[線路容量]]に限りがあることや折り返し時間の短縮を図るため、サンタ・ルチーア駅に立ち寄らずメストレ駅をヴェネツィアにおける発着駅としている列車も存在し、これらの列車を用いてヴェネツィアの本島に向かう場合は、同駅での乗り換えを必要とする。
 
: ローマ広場からマリッティマを経由して[[トロンケット|トロンケット島]]を結ぶ[[新交通システム]]として、[[ヴェネツィア・ピープル・ムーバー]]が運行されている。
 
; 航空
 
: ヴェネツィア本島の真北には国際空港である[[ヴェネツィア・テッセラ空港]](マルコ・ポーロ空港)があり、ヴェネツィアへの空の玄関口として機能している。空港から島へはACTV社の運行する路線バスやATVO社の運行するプルマンバス(ともにローマ広場へ乗り入れる)、さらにAlilaguna社の運行する水上バス(本島各地や[[ムラーノ島]]、[[リド島]]に発着)を用いてアクセスすることが可能である。
 
: また[[ライアンエアー]]など一部の[[格安航空会社]]は、ヴェネツィアから北に30kmほど進んだところにある[[トレヴィーゾ]]に設けられた[[トレヴィーゾ空港]]をヴェネツィアの玄関口と位置付けており、同空港からローマ広場までを直接結ぶシャトルバスが設定されている。
 
 
 
; 中長距離航路
 
: リベルタ橋で本島のローマ広場へ自動車で渡る直前にあるトロンケット島には、大型旅客船の入港が可能な港があり、世界各地からの[[クルーズ客船]]やアドリア海沿岸の複数都市とを結ぶ[[フェリー]]が発着している。
 
 
 
== 観光 ==
 
[[File:Piazza San Marco with the Basilica, by Canaletto, 1730. Fogg Art Museum, Cambridge.jpg|thumb|『[[サン・マルコ寺院|バシリカ]]のある[[サン・マルコ広場]]』[[カナレット]](1730年)]]
 
[[File:280610 Canal Grande.JPG|thumb|左から順に、[[鐘楼 (サンマルコ広場)|鐘楼]]、[[w:Zecca of Venice|造幣局]]、[[ドゥカーレ宮殿]]]]
 
[[ファイル:Venezia-punta della dogana.jpg|thumb|[[サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂]]]]
 
[[File:Illa de San Giorgio Maggiore (Venècia).JPG|thumb|[[サン・ジョルジョ・マッジョーレ]]]]
 
* [[カナル・グランデ]]
 
* [[ジュデッカ運河]]
 
* [[サン・マルコ広場]]
 
* [[ゲット (ヴェネツィア)|ゲット]]
 
* [[時計塔]]
 
* [[フェニーチェ劇場]]
 
 
 
=== 教会 ===
 
* [[サン・マルコ大聖堂]]
 
* [[サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア)|サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂]]
 
* [[聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂]]
 
* [[サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂]]
 
* [[サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂]]
 
* [[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂]]
 
* [[サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会 (ヴェネツィア)|サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会]]
 
* [[レデントーレ教会]]
 
* [[サン・ザッカリーア教会]]
 
 
 
=== 宮殿 ===
 
* [[カ・ドーロ]]
 
* [[カ・ダーリオ]]
 
* [[カ・ダ・モスト]]
 
* [[カ・フォスカリ]]([[ヴェネツィア大学]])
 
* [[カ・ペーザロ]]
 
* [[カ・レッツォーニコ]]
 
* [[パラッツォ・コルネール]]
 
* [[ドゥカーレ宮殿]](ドージェ宮)
 
* [[パラッツォ・ジュスティニアン]]
 
* [[パラッツォ・カヴァッリ=フランケッティ]]
 
* [[パラッツォ・ゼン]]
 
 
 
=== 橋 ===
 
* [[リアルト橋]]
 
* [[スカルツィ橋]]
 
* [[アッカデーミア橋]]
 
* [[リベルタ橋]]
 
* [[ため息橋]]
 
* [[プーニ橋]]
 
* [[パラディーゾ橋]]
 
* [[パーリア橋]]
 
* [[カラトラーヴァ橋]]
 
* [[グーリエ橋]]
 
* [[テッテ橋]]
 
 
 
=== 博物館・美術館 ===
 
* [[アカデミア美術館 (ヴェネツィア)|アカデミア美術館]]
 
* [[国際現代美術館 (ヴェネツィア)]]
 
* [[ムラーノ・ガラス美術館]]
 
* [[市立自然史博物館 (ヴェネツィア)|市立自然史博物館]]
 
* [[ペギー・グッゲンハイム・コレクション]]
 
* [[ヘブライ博物館]]
 
* [[東洋博物館]]
 
* [[ヴェネツィア海軍博物館]]
 
 
 
== 行政 ==
 
* 市長:ルイジ・ブルニャーロ(2015年選出)
 
* 気候区分:zona E, 2345 GR/G
 
 
 
== 文化 ==
 
[[File:Venice Carnival - Masked Lovers (2010).jpg|thumb|[[ヴェネツィア・カーニバル]]]]
 
* [[ヴェネツィア・カーニバル]]([[謝肉祭]]) - 毎年2月に開かれる。
 
* [[仮面舞踏会]] - ヴェネツィアが発祥。
 
* [[ヴェネツィアン・グラス]]
 
* [[FBCウニオーネ・ヴェネツィア]]
 
* 毎年5月に、「海との結婚」と呼ばれる祭りが開かれる。この海に町を築いた人々が、海と運命を共にすることを誓い、その証に海へ黄金の指輪を落とし、盛大に祝う。
 
 
 
== 人物 ==
 
* [[マルコ・ポーロ]]
 
* [[アンドレーア・ガブリエーリ]]
 
* [[ジョヴァンニ・ガブリエーリ]]
 
* [[アントニオ・ヴィヴァルディ]]
 
* [[ジャコモ・カサノヴァ]]
 
* [[ルイジ・ノーノ]]
 
* [[ジュゼッペ・シノーポリ]]
 
* [[ヴェネツィアのドージェ一覧]]
 
 
 
== 姉妹都市 ==
 
* {{Flagicon|BIH}} [[サラエヴォ]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
 
* {{Flagicon|EST}} [[タリン]] - [[エストニア]]
 
* {{Flagicon|CHN}} [[蘇州市|蘇州]] - [[中華人民共和国]]
 
* {{Flagicon|TUR}} [[イスタンブール]] - [[トルコ]]
 
* {{Flagicon|GER}} [[ニュルンベルク]] - [[ドイツ]]
 
* {{Flagicon|CHN}} [[青島市|青島]] - [[中華人民共和国]]
 
* {{Flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]] - [[ロシア]]
 
* {{Flagicon|GRE}} [[テッサロニキ]] - [[ギリシャ]]
 
* {{Flagicon|USA}} [[フォートローダーデール]] - [[アメリカ合衆国]]
 
 
 
== 世界にあるヴェネツィア ==
 
世界的にその名が知れ渡っているため、運河がはりめぐらされている[[水の都]]に対し「○○のヴェネツィア」と異名が付けられている。
 
 
 
* [[コルマール]] - 「[[アルザス地域圏|アルザス]]の小ヴェニス」
 
* [[ストックホルム]] - 「北欧のヴェネツィア」
 
* [[ブルッヘ]](ブルージュ)- 「北のヴェネツィア」
 
* [[サンクトペテルブルク]] - 「北のヴェネツィア」
 
* [[堺市|堺]] - 「東洋のヴェニス」
 
* [[小樽市|小樽]] - 「北洋のヴェネツィア」
 
* [[伊根の舟屋]] - 「日本のヴェネツィア」
 
* [[蘇州市|蘇州]] - 「東洋のヴェネツィア」
 
* [[淡水区|淡水]] - 「台湾のヴェネツィア」
 
* [[サンアントニオ]]、[[フォートローダーデール]] - 「アメリカのヴェニス」
 
 
 
また[[ベネズエラ]]の国名は、現地を訪れた[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]らが[[マラカイボ湖]]畔の[[先住民]]の[[水上生活者|水上村落]]をヴェネツィアに見立て、[[イタリア語]]で「小さなヴェネツィア」という意味の''"Venezuola"''と呼んだことに由来するとの説が通説である。
 
 
 
== ヴェネツィアを舞台とした作品 ==
 
{{See|ヴェネツィアを舞台とした作品一覧}}
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
<references/>
{{Reflist|refs=
 
<ref name="浅井2001">{{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv|pages=174-175}}</ref>
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ヴェネツィア共和国]]
 
* [[ドージェ]]
 
* [[ロンバルド=ヴェネト王国]]
 
* [[ヴェネト共和国]]
 
* [[イタリア社会共和国]]
 
* [[ゴンドラ (船)]]
 
* [[ヴェネツィア・ゲットー]]
 
* [[ヴェネツィア国際映画祭]]
 
* [[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]
 
* [[ヴェネツィア派]]
 
* [[世界遺産の一覧 (ヨーロッパ)]]
 
* [[ヴェネツィア憲章]] - 歴史的建造物の保存・修復に関わる憲章
 
* [[ヴェネチア (小惑星)]] - 町の名前が付いた[[小惑星]]
 
* [[オリエント急行]] - 「ヴェニス・シンプロン・オリエント急行」は、[[ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅]] - [[パリ]] - [[ロンドン]]を結ぶ。
 
* [[名古屋港イタリア村]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Venezia|Venice}}
 
; 公式
 
 
* [http://www.comune.venezia.it/flex/cm/pages/ServeBLOB.php/L/IT/IDPagina/1 ヴェネツィア市公式サイト] {{it icon}}{{en icon}}
 
* [http://www.comune.venezia.it/flex/cm/pages/ServeBLOB.php/L/IT/IDPagina/1 ヴェネツィア市公式サイト] {{it icon}}{{en icon}}
 
; 観光
 
 
* [http://thewotme.com/2012/09/venecia-cosas-que-no-debes-hacer-en-tu-visita/ ヴェネツィア観光でやってはいけないこと]{{es icon}}
 
* [http://thewotme.com/2012/09/venecia-cosas-que-no-debes-hacer-en-tu-visita/ ヴェネツィア観光でやってはいけないこと]{{es icon}}
 
* [http://www.turismovenezia.it/dynalay.asp?PAGINA=404 ヴェネツィア観光局] {{it icon}}{{en icon}}
 
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ヴェネツィアイタリア語: Venezia[1]

イタリア北東部,アドリア海北西岸にあるベネト州の州都,港湾都市。ベネチア県の県都でもある。英語ではベニス Venice。ベネチア湾奥の潟湖の多数の島からなり,約 400の橋によってつながれる。市街地を二つに分ける大運河があり,そのほか 200あまりの運河が発達,「水の都」と呼ばれる。

567年頃ロンバルディアからの避難民が湾のほとりに集落をつくったことに始まる。7世紀末に共和政総督 (ドージェ ) 下に統一。初めはビザンチン帝国の支配下にあったが,十字軍の活動の結果貿易の中心となり,1381年ジェノバを破り,14~15世紀にはベネチア共和国として繁栄の頂点に達した。しかし,オスマン帝国の攻勢の激化と周辺諸国との戦争,さらに大航海時代以後東西貿易の主要港としての地位を喪失したことなどにより衰退が始まり,18世紀末にはナポレオン1世が占領,1866年イタリア王国に併合された。最盛期には多くの芸術家が集まり,絵画ではベネチア派が興り,17世紀にはオペラなどバロック音楽の中心地となった。宝石,工芸品の製造,繊維工業が盛んで,ガラス工芸 (ベネチア・ガラス ) は特に有名。対岸のマルゲラ港付近のメストレ地区には化学,冶金,製鉄,機械製造,造船,石油化学などの近代工業が興り,公害が問題となっている。湿気と地盤沈下もまた問題化している。ローマ,フィレンツェと並ぶ観光地でビザンチン建築の代表サン・マルコ大聖堂などの名所が多い。 1987年世界遺産の文化遺産に登録された。

脚注

  1. /veˈnɛʦja/(IPA)

外部リンク




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