「突厥」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = 突厥
 
|日本語国名 = 突厥可汗国
 
|公式国名 = (Türük)[[File:Old Turkic letter UK.svg|15px]][[File:Old Turkic letter R2.svg|15px]][[File:Old Turkic letter U.svg|15px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|15px]]
 
|建国時期 = [[552年]]
 
|亡国時期 = [[582年]]
 
|先代1 = 丁零
 
|先旗1 = blank.png
 
|先代2 = 柔然
 
|先旗2 = blank.png
 
|先代3 = エフタル
 
|先旗3 = blank.png
 
|次代1 = 東突厥
 
|次旗1 = blank.png
 
|次代2 = 西突厥
 
|次旗2 = blank.png
 
|次代3 =
 
|次旗3 = blank.png
 
|次代4 =
 
|次旗4 = blank.png
 
|国旗画像 =
 
|国旗リンク =
 
|国旗説明 =
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 =
 
|国章リンク =
 
|国章説明 =
 
|国章幅 =
 
|位置画像 = GökturksAD551-572.png
 
|位置画像説明 = 6世紀、突厥の最大版図
 
|公用語 = [[ソグド語]]、[[古テュルク語]]([[テュルク諸語]]のひとつ)
 
|首都 = [[ウテュケン山]]
 
|元首等肩書    = [[可汗]]
 
|元首等年代始1 = [[552年]]
 
|元首等年代終1 = [[552年]]
 
|元首等氏名1 = [[伊利可汗]]
 
|元首等年代始2 = [[553年]]
 
|元首等年代終2 = [[572年]]
 
|元首等氏名2 = [[木汗可汗]]
 
|元首等年代始3 = [[587年]]
 
|元首等年代終3 = [[599年]]
 
|元首等氏名3 = [[都藍可汗]]
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 =  6000000
 
|人口測定時期1 =
 
|人口値1 =
 
|変遷1 = 建国
 
|変遷年月日1 = [[552年]]
 
|変遷2 = 東西分裂
 
|変遷年月日2 = [[582年]]
 
|変遷3 =
 
|変遷年月日3 =
 
|変遷4 =
 
|変遷年月日4 =
 
|変遷5=
 
|変遷年月日5 =
 
|通貨 =
 
}}
 
{{モンゴルの歴史}}
 
'''突厥'''(とっけつ、とっくつ<ref>[[宮崎市定]]は「とっくつ」と読むべきだと主張した。伝統的に「突厥」の「厥」はクツと読む。『大漢和辞典』は両音を載せる</ref>、[[拼音]]:Tūjué、[[古テュルク語]]:[[File:Old Turkic letter K.svg|10px]][[File:Old Turkic letter R2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter U.svg|10px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|10px]]【Türük】<ref>[[バイン・ツォクト碑文]](トニュクク碑文)</ref>、[[File:Old Turkic letter UK.svg|10px]][[File:Old Turkic letter R2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter U.svg|10px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|10px]]【Türük】<ref>[[ホショ・ツァイダム碑文]]</ref>、[[トルコ語]]:Göktürk【ギョクテュルク】)は、[[6世紀]]に[[中央ユーラシア]]に存在した[[テュルク系]][[遊牧国家]]。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族<ref>『突厥与回紇史』、『回紇史』参照</ref>で、[[柔然]]の隷属の下で[[アルタイ山脈]]の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した<ref>『突厥与回紇史』、『勅勒与柔然』参照</ref>が、[[552年]]に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。[[582年]]には内紛によって東西に分裂した。
 
  
== 名称 ==
+
'''突厥'''(とっけつ、とっくつ)
===原音===
 
中国史書の伝える“突厥”という語については、これまで“Türk(テュルク)”に[[モンゴル語]]複数語尾である-üd(-üt)が付いた形“Türküt(テュルキュト)”の漢字音写であるとする説<ref>[[ドイツ]]の[[ヨーゼフ・マルクァルト]](Josef Marquart)、[[フランス]]の[[ポール・ペリオ]](Paul Pelliot)の説。Pelliot,P;L'origine de T'ou-kiue,nom chinois des Turks,T'oung Pao,XVI,1915.</ref>が有力であった。しかし、近年になってから“突厥”という語は単純に“Türk”という音そのものを写した漢字であるという説<ref>[[エドウィン・プリーブランク]](E.G.Pulleyblank)の説。Pulleyblank,E.G.;The Chinese Name for the Turks,Journal of the American Oriental Society,85-2,1965.</ref>が支持されるようになってきた<ref>平凡社、1972</ref>。
 
  
===意味===
+
6世紀中頃から8世紀中頃まで,モンゴル,中央アジアを支配したチュルク族阿史那 (あしな) 氏の建てた遊牧国家。もとは[[柔然]]の支配下にあったが,阿史那氏に土門 ([[伊利可汗]] ) が出るに及んで強大となり,[[鉄勒]]諸部を従え柔然から独立した (552) 。第3代の木杆可汗 (もくかんかがん) にいたり柔然を滅ぼし,契丹,キルギスを破り,また西方では[[エフタル]]をも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか,多くの小カガンが分立していたが,583年西部を支配した西面可汗達頭 (たっとう) は大カガンから独立し,突厥は東西に分裂した。東突厥はしばらく強勢を誇ったが,その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け,630年唐に帰付して一時消滅し,西突厥も7世紀の末に内紛で滅んだ。東突厥は7世紀末に[[阿史那骨咄禄]] (あしなこっとつろく) が出て復興し,みずからイルテリシュ・カガンと称した。以後数代にわたってモンゴルを支配したが,内紛を生じ,744年鉄勒の一部[[ウイグル]]に滅ぼされた。
[[周書]]』異域伝,『[[隋書]]』北狄伝では、「彼らが住んでいた金山([[アルタイ山脈]])の形が[[兜|兜鍪]]の形に似ていたことから、彼らの言葉で“兜鍪”を意味する“突厥”を部族名とした。」とある。
 
  
また、“テュルク”という名称の意義については「強力な(もの)」とする説<ref>ミュラー(F.W.K.Müller)の説。</ref>が有力であるが、異論もある<ref>コノノフ(A.N.Kononov)の意見。Kononov,A.N;Opyt analiza termina Türk,Sovetskaya etnografiya,1947,No 1.</ref>。
 
  
==起源==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。
 
 
 
;『周書』
 
{{cquote|突厥人は[[匈奴]]の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は[[高昌]]国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹([[柔然]])に臣従した。彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。金山の形が兜鍪に似ており、俗に兜鍪を突厥と言うため、それを号とした。或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ<ref>このうちの一人は[[堅昆|契骨]](キルギス)となる。</ref>。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を[[寒露]]から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。訥都六には10人の妻がいて、全ての子は皆母方の一族の姓を名乗った、阿史那は愛妻の子である。訥都六設が死ぬと、10人の母は子の中から一人を選んで立てるべく、大樹の下に集り、木へ最も高く飛べた者を立てると誓った。阿史那の子は幼かったが最も高く跳んだので、諸子から長に推戴され、阿賢設と号した。 <ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>}}
 
 
 
;『隋書』
 
{{cquote|突厥の先祖は平涼の雑胡で<ref>他の史書と大きく異なり、おそらく錯誤</ref>、姓は阿史那氏。後魏([[北魏]])の[[太武帝]]が[[北涼|沮渠氏]]を滅ぼしたため、阿史那は五百家をもって茹茹(柔然)に走り、代々金山に住んで鉄工に従事した。その金山の形状が兜鍪のようであり、俗に兜鍪を突厥と呼ぶため、突厥を号とした。或いは云う、その先祖は西海の北に国があったが、隣国に滅ぼされ、老若男女尽く殺された。一児のみは殺すのに忍びず、足の筋と腕を切断して大沢の中に棄てた。一頭の牝狼がいて、毎日そこで肉を与え、この男児に食べさせたので、死なずに済んだ。その後、男児は狼と交わりを遂げ、狼は身篭った。隣国の人間は再び人に命じて男児を殺させると、その側に雌狼が居た。派遣された者は殺そうとしたが、雌狼は神によって、忽然として海東へ至り、山上に止まった。その山は高昌の西北に在り、下ると洞穴があった。雌狼が中に入ると、方200余里の草の茂る平坦地に出た。その後、雌狼は10の男子を生み、その中の一姓が阿史那氏で、最も賢く、君長となった、故に牙門には狼頭の飾りを設け、本源を忘れていないことを示す。<ref>『隋書』列伝第四十九 北狄</ref>}}
 
 
 
;学術的見解
 
突厥の起源は[[丁零|西丁零]]に遡ると考えられ、その原住地は[[イェニセイ川]]上流域にあったとされる。この地は[[鉄鉱石]]が豊富であり、のちに突厥が「鍛奴(鍛鉄奴隷)」と呼ばれるほど製鉄技術に優れていたことを裏付ける。彼等は[[匈奴]]支配時期に製鉄技術を学び、[[3世紀]]には鉄器の使用が普及していた。やがて阿史那氏の突厥部は南の[[アルタイ山脈]]を越え、[[トルファン]]西北の[[ボグダ山]],[[天山山脈]]に移り住むと、その鍛鉄技術をもって急速に発展し、テュルク系諸族の中での最強部族となった。<ref>楊 2008,p16,29</ref>
 
 
 
== 歴史 ==
 
''以下の記述は『[[周書]]』、『[[隋書]]』、『[[旧唐書]]』、『[[新唐書]]』によるもの。''
 
===勃興===
 
訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は[[伊利可汗|土門]]([[古テュルク語]]: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter Q.svg|10px]] [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter M.svg|10px]][[File:Old Turkic letter O.svg|10px]][[File:Old Turkic letter B1.svg|10px]] - {{lang|otk|Bumïn qaγan}} - ブミン・カガン)、次男は[[室點蜜]]([[古テュルク語]]: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old turkic letter Q.png|10px]] [[File:Old Turkic letter I.svg|10px]][[File:Old Turkic letter M.svg|10px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter S2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter I.svg|10px]] - {{lang|otk|Istemïi Qaγan}} - イステミ・カガン)といった。吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、[[西魏]]や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。
 
 
 
[[西魏]]の[[大統]]12年([[546年]])、北の[[鉄勒]]が柔然を攻撃してきたため、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。土門はこれに乗じて柔然に求婚した。しかし、柔然[[可汗]]の[[阿那瓌]](在位:[[520年]] - [[552年]])は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。大統17年([[551年]])6月、土門は西魏の[[長楽公主 (西魏)|長楽公主]]を娶って妻とした。この年、西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]が[[崩御]]したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。[[廃帝 (西魏)|廃帝]]元年([[552年]])1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那瓌の叔父である[[鄧叔子]]を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。
 
 
 
===最盛期===
 
[[画像:北周・北斉・陳・後梁.PNG|right|thumb|300px|北周・北斉・陳・後梁と突厥]]
 
伊利可汗が亡くなると、子の[[乙息記可汗]](在位:[[552年]] - [[553年]])が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である[[木汗可汗]](ムカン・カガン、在位:[[553年]] - [[572年]])が後を継いだ。木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗の鄧叔子は西魏に亡命した。木汗可汗はさらに西の嚈噠(挹怛、[[エフタル]])を破り、東の[[契丹]]を敗走させ、北の[[契骨]](キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海([[渤海 (海域)|渤海]]?)以西、西が西海([[アラル海]])に至り、南は沙漠([[ゴビ砂漠]])以北、北は北海([[バイカル湖]])に至る大帝国となった。次に木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を請願した。西魏の[[宇文泰]]はこれを許可し、鄧叔子を青門外で殺した。こうして完全に柔然を滅ぼした木汗可汗は、中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。初めは[[北周]]と[[北斉]]の両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、[[保定 (北周)|保定]]3年([[563年]])から4年([[564年]])にかけての北斉討伐に参加した。この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。
 
 
 
しかし、次の[[他鉢可汗]](在位:[[572年]] - [[581年]])の時代になると、[[577年]]に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。北周は何度か突厥と交渉し、[[大象 (北周)|大象]]2年([[580年]])になってようやく北斉の残党である[[高紹義]]を連行することに成功した。
 
 
 
===内戦と東西分裂===
 
{{main|{{仮リンク|突厥内戦|en|Göktürk civil war}}}}
 
 
 
[[581年]]、他鉢可汗が病死し、子の[[阿史那菴羅|菴羅]]が即位したが、木汗可汗の子の[[阿波可汗|大邏便]]が心服せず、制御できなかったので、大可汗位を爾伏可汗(ニワル・カガン)であった[[沙鉢略可汗|摂図]]に譲った。国人たちも「四可汗(乙息記可汗、木汗可汗、他鉢可汗、[[褥但可汗]])の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と号し、都斤山(鬱督軍山、[[ウテュケン山]])を都とした。摂図(以後は沙鉢略可汗)は大邏便が今まで官位をもったことがないということだったので、阿波可汗(アパ・カガン)という称号を与えた。2月、北周の[[静帝]]が[[楊堅]]に[[禅譲]]し、[[隋]]が建国されると、北斉の[[営州]][[刺史]]だった[[高保寧]]が北方民族と結託して反乱を起こしたので、沙鉢略可汗はこれと合流し、臨渝鎮を攻め落とした。その後も反乱軍は隋軍に勝利し、隋の北辺を侵した。
 
 
 
[[開皇]]2年([[582年]])冬、隋の[[楊堅|高祖文帝]]は河間王の[[楊弘 (河間王)|楊弘]]、[[上柱国]]の[[豆盧勣]],[[竇栄定]]、[[左僕射]]の[[高熲]]、[[右僕射]]の[[虞慶則]]を[[元帥]]とし、長城を出て反撃に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗,[[貪汗可汗]]らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の[[達頭可汗]](タルドゥ・カガン)のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが離反し、阿波可汗に附いた(これが[[西突厥]]となる)。
 
 
 
沙鉢略可汗は西の達頭可汗に悩まされ、東の契丹を畏れたので、隋に救援を求め、白道川内に移り住むことを許された。その後、沙鉢略可汗は晋王の[[煬帝|楊広]]より補給をもらい、これにより阿波可汗を攻撃して捕えることができた。
 
 
 
開皇7年([[587年]])1月、沙鉢略可汗は子を遣わして朝貢した。この年、沙鉢略可汗の牙帳が火事になったため、沙鉢略可汗は火傷を負った。その数ヵ月後、沙鉢略可汗は死去した。遺言により弟の[[葉護可汗|処羅侯]]が立つが、甥の[[都藍可汗|雍虞閭]]に譲ろうとして、両者譲り合いをした結果、結局遺言どおり、処羅侯が葉護可汗(ヤブグ・カガン)として即位し、雍虞閭は葉護(ヤブグ:大臣)となった。しかし、即位後まもなくの{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}で葉護可汗が流れ矢にあたって死去した。
 
 
 
国人たちは雍虞閭を立てて都藍可汗(在位:[[587年]] - [[599年]])とした。都藍可汗は早速遣使を送って隋に朝貢した。開皇12年([[592年]])[[大義公主]]は西突厥の[[泥利可汗]]と謀反を起こしたので、都藍可汗は大義公主を斬首した。一方、都藍可汗は達頭可汗と敵対し、たびたび征伐し合ったので、文帝はこれを和解させ、双方は兵を引いた。
 
 
 
===隋による離間策===
 
開皇17年([[597年]])、沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。開皇19年([[599年]])、隋は漢王の[[楊諒]]を元帥として都藍可汗を撃たせた。都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。突利可汗は[[長孫晟]]と隋に逃げ込んだ。6月、[[高熲]],[[楊素]]は達頭可汗を撃ち、これを大破した。文帝は突利可汗を拝して意利珍豆[[啓民可汗]](在位:[[587年]] - [[609年]])とし、[[義成公主]]を娶らせた。なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公の楊素,行軍総管の[[韓僧寿]],太平公の[[史万歳]],[[大将軍]]の[[姚辯]]の軍勢は都藍可汗を攻撃した。この年の12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗となって啓民可汗と対立した。しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。
 
 
 
[[仁寿 (隋)|仁寿]]元年([[601年]])、それまで啓民可汗に付属していた鉄勒の斛薛(こくせつ)部などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、[[吐谷渾]]に奔走した。
 
 
 
===東突厥===
 
[[File:東西突厥帝国.png|thumb|400px|7世紀初めの東西突厥可汗国。]]
 
{{main|東突厥}}
 
啓民可汗の代では毎年数回は隋に朝貢していたが、子の[[始畢可汗]](在位:[[609年]] - [[619年]])の代になると、隋朝の衰えに乗じて中国に侵入するようになり、朝貢を行わなくなった。大業13年([[617年]])5月、唐公の[[李淵]]より援軍の要請があったため、始畢可汗は2千騎の援軍を派遣して隋朝打倒に協力し、その翌年([[618年]])、隋が滅んで[[唐]]が建国された。初め、始畢可汗は唐に使者を送って入朝させたが、[[武徳]]2年([[619年]])になって[[梁師都]]や[[劉武周]]とともに中国侵入を謀った。しかし、始畢可汗はその年に亡くなってしまう。
 
 
 
[[頡利可汗]](在位:[[620年]] - [[630年]])の代になると、東突厥は頻繁に中国へ侵入し、略奪を行った。唐はそのたびに東突厥を撃退するが、その勢いがおさまらず手を焼いていた。しかし、[[貞観 (唐)|貞観]]元年([[627年]])の[[薛延陀]]部を始めとする[[鉄勒]]諸部が東突厥に叛いたことに始まって、東突厥に臣従していた諸民族が次々と離反すると、貞観3年([[629年]])、唐の[[太宗 (唐)|太宗]]は大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の[[突利可汗]](テリス・カガン)らを投降させる。その翌年(630年)には大可汗の頡利可汗が捕えられ、東突厥は一時滅んで唐の[[羈縻支配]]下に入る。
 
 
 
[[永淳]]元年([[682年]])、[[阿史那骨咄禄]]がイルティリシュ・カガン([[古テュルク語]]: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old turkic letter Q.png|10px]] [[File:Old Turkic letter S2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter R2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter L2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter I.svg|10px]] - {{lang|otk|İltiriš-qaγan}})と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那骨咄禄は[[武則天]]政権の唐にたびたび侵入・略奪を行い、中国を苦しめた。そんな中、唐朝は武則天の帝位簒奪によって一時的に滅ぼされ、周が建てられる([[690年]])。
 
 
 
阿史那骨咄禄が亡くなり、弟の[[阿史那默啜]](古テュルク語: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old turkic letter Q.png|10px]] [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter P.svg|10px]][[File:Old Turkic letter Q.svg|10px]] - {{lang|otk|Qapγan-qaγan}} - カプガン・カガン)の代になると、初めのうちは周朝に入朝したものの、次第に傲慢になり、遂には周朝を滅ぼして唐朝を復活させようと中国侵攻を謀った。これに対し武則天は唐の[[中宗 (唐)|廬陵王]]を皇太子とすることで、東突厥の中国侵攻を思いとどまらせた。その後の[[神龍 (唐)|神龍]]元年([[705年]])、武則天が廬陵王に譲位して唐は復活を果たす。晩年の阿史那默啜は西方攻略に忙殺され、鉄勒討伐中に戦死する。阿史那骨咄禄の子である默棘連は阿史那默啜の一族を殺して[[毘伽可汗]](古テュルク語: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old turkic letter Q.png|10px]] [[File:Old Turkic letter A.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter L2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter I.svg|10px]][[File:Old Turkic letter B2.svg|10px]] - {{lang|otk|Bilgä Qaγan}} - ビルゲ・カガン、在位:[[716年]] - [[734年]])となり、[[闕特勤]](古テュルク語: [[File:Old Turkic letter N2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter I.svg|10px]][[File:Old Turkic letter T2.svg|10px]] [[File:Old Turkic letter L2.svg|10px]][[File:Old Turkic letter U.svg|10px]][[File:Old Turkic letter K.svg|10px]] - {{lang|otk|Kül Tigin}} - キュル・テギン)や{{仮リンク|トニュクク|en|Tonyukuk|label=暾欲谷}}(古テュルク語: {{lang|otk|𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸}} - {{lang|otk|Tonyuquq}} - {{仮リンク|トニュクク|en|Tonyukuk}}、阿史徳元珍)とともに、安定した国づくりを行い、唐とも友好的な外交を行った。
 
 
 
毘伽可汗の死後は東突厥内部で争いが頻発し、短命な可汗が交代するようになる。そして、この衰えに乗じた[[回紇]](ウイグル),葛邏禄([[カルルク]]),{{仮リンク|拔悉蜜|en|Basmyl}}(バシュミル)の3部族によって東突厥の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。
 
 
 
===西突厥===
 
{{main|西突厥}}
 
西突厥は[[統葉護可汗]](在位:[[619年]]頃 - [[628年]])のもとで最盛期を築いた。[[619年]]、{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}。[[627年]]、{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}。統葉護可汗の死後内部分裂を繰り返し、2可汗並立の時代が続いた。太宗の崩御に乗じて[[阿史那賀魯]]が一時的に勢いを盛り返すが、[[高宗 (唐)|高宗]]の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕えられると、西突厥も唐の羈縻支配下に入る。
 
 
 
羈縻政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった[[阿史那弥射]],[[阿史那歩真]]の2人によって西突厥諸部が統括され、その両家が代々可汗位を襲名し、唐の反乱鎮圧などに参加した。
 
 
 
[[長寿 (武周)|長寿]]年間([[692年]] - [[694年]])に弥射家の興昔亡可汗が途絶え、[[741年]]頃には、歩真家である十姓可汗の[[阿史那キン|阿史那昕]]が{{仮リンク|突騎施|en|Turgesh}}(テュルギシュ)の[[莫賀達干 (突騎施)|莫賀達干]](バガ・タルカン)に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は'''黄姓'''と'''黒姓'''に分かれて互いに争うようになった。
 
 
 
[[大暦]]年間([[766年]] – [[779年]])の後は、葛邏禄(カルルク)族が盛んになり、黄姓と黒姓の突騎施二姓は葛邏禄に臣従し、その他は[[回鶻]](ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。
 
 
 
== 習俗・文化 ==
 
突厥は[[匈奴]]や[[柔然]]などと同様、[[遊牧民]]であるので、[[ゲル (家屋)|穹廬氈帳]]に住み、水草を追って移動し、[[牧畜]]と[[狩猟]]を生業とした。老人を賤しみ、壮健な者を貴び、戦で死ぬのを重きとし、病で死ぬのを恥とした。食事は肉を主食に酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、[[ワイン|葡萄酒]]は作らず[[馬乳酒]]を作って飲む。可汗は金銀の食器と黄金の家具を使用。また、今までの遊牧国家同様、婚姻において、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟の妻となる[[レビラト婚]]の形式をとる。刑法は、謀反を起こした場合、殺人及び姦人の婦、馬を盗んだ場合は皆死罪となる。葬儀は死者をまず帳に留めて、近親の男女と羊馬を殺して帳前に陳列し、これを祭り、弔問者は7回顔に傷をつけて血と涙を流した後、死者を馬具や副葬品と一緒に[[火葬]]する。毎年諸貴人を率いて先祖が生まれたとされる洞窟を祭り、五月中旬には川の畔に人を集めて、多くの羊馬を殺して天神を祭った。鬼神を敬い、巫覡を信じた。<ref>『周書』(列伝第四十二 異域伝下)、『隋書』(列伝第四十九 北狄)、『旧唐書』(列伝第一百四十四上 突厥上)、 『新唐書』(列伝一百四十上 突厥上、列伝一百四十下 突厥下)</ref>
 
 
 
突厥は、東は[[中国]]、西は[[東ローマ帝国]],[[サーサーン朝|ペルシャ]]と、[[中央アジア]]の[[シルクロード]]を利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた。
 
 
 
=== 文字・言語 ===
 
突厥は、[[東アジア]]において、[[漢民族]]以外で、日本の[[かな]]文字と同様に、比較的早い[[5世紀]]に独自の文字([[突厥文字]])を持った民族である。そのことは、[[1889年]]以後に、モンゴル高原で発見された数々の[[突厥碑文]]によって世に知られることとなった。しかし、初めのうち(第一可汗国期)の公用語は[[ソグド文字]]や[[ブラーフミー文字]]を使用していた<ref>『[[ブグト碑文]]』、『周書』異域伝下「其書字類胡,而不知年曆,唯以草青為記。」</ref>。
 
 
 
突厥(テュルク)の言語はその名の通り[[テュルク語]]を使用していたが、それは支配民族であるテュルク系の遊牧民のみで使用されており、可汗国全体の公用語としては[[ソグド語]]が使われていた。それは当時、[[ソグド人]]が[[シルクロード]]交易において優越的な立場にあり、[[中央アジア]]から中国に至るまでの地域でソグド語が広く使用されていたためである<ref>森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』</ref>。
 
 
 
===突厥碑文===
 
[[Image:Gok turk Epigraph Copy in Gazi University Ankara.jpg|thumb|『ビルゲ・カガン碑文』のレプリカ([[アンカラ]]の[[ガズィ大学]])。]]
 
{{main|突厥碑文}}
 
突厥は北方遊牧騎馬民族としては極めて早い段階で文字記録を残した。それが「ホルホン碑文」などに代表される'''突厥碑文'''である。初めは[[ソグド文字]]/[[ソグド語]]で記した碑文であったが、第二可汗国時代になって自分たちの文字([[突厥文字]])を用いて、自らの言語(テュルク語)を記すようになる。これによって当時のテュルク語による多くの民族名や地名を知ることができる<ref>護・岡田 1990,p118</ref>。
 
 
 
;突厥(第一可汗国)時代の碑文
 
*『[[ブグト碑文]]』…第4代の[[他鉢可汗]](タトパル・カガン、在位:572年 - 581年)の時代に建てられたもの。ソグド文字/ソグド語(裏面は[[ブラーフミー文字]]/[[サンスクリット語]])で記された。
 
 
 
;第二可汗国時代の碑文
 
*『[[オンギン碑文]]』…突厥文字/テュルク語で記された。
 
*『[[イフ・ホショト碑文]]』(キュリ・チョル碑文)…突厥文字/テュルク語で記された。
 
*『[[チョイレン銘文]]』…突厥文字/テュルク語で記された。
 
*『[[バイン・ツォクト碑文]]』({{仮リンク|トニュクク|en|Tonyukuk}}碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は[[漢字]]/[[漢語]])。
 
*『[[ホショ・ツァイダム碑文]]』([[ビルゲ・カガン]]碑文、[[闕特勤|キュル・テギン]]碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は漢字/漢語)。
 
 
 
===宗教===
 
歴代の[[遊牧国家]]同様、突厥も[[シャーマニズム]]を信仰していた。しかし、[[他鉢可汗]](タトパルカガン、在位:[[572年]] - [[581年]])の時代に彼が[[仏教]]に[[帰依]]したということが中国史書、突厥碑文の両方に記されている。
 
 
 
===経済===
 
戦争業と牧畜業を主として製鉄業や農業・手工業も行っており、突厥人は皆武芸を修練し戦争に参加したとある。多くの奴隷を抱える奴隷制社会でもあり、供給源は犯罪者・戦争捕虜・略奪による拉致などで、征服部族は奴隷的使役に就かされた。奴隷や隷属部族は農業や手工業のほか牧畜業や戦争にも使用されたが、苦役を課された隷属部族の反乱が絶えなかった。
 
 
 
=== 政治体制 ===
 
突厥の君主は柔然と同様に[[可汗]](カガン:Qaγan)といい、中国で言う[[皇帝]]にあたる。[[皇后]]にあたるのは可賀敦(カガトゥン:Qaγatun)という。また、親族が名乗る特勤(テギン:Tägin)があり、その下には以下の順の官職がある。
 
 
 
*葉護(ヤブグ:Yabγu)…可汗国の西部(タルドゥシュ:Tarduš)を統括する高官。阿史那氏の中から任命される。
 
*設(シャド:šad)…可汗国の東部(テリス:Tölis)を統括する高官。阿史那氏の中から任命される。東突厥の[[始畢可汗]]以降は小可汗の代わりとして機能した。
 
*啜(チュル:Čur)
 
*俟斤(イルキン:Erkin)…被支配部族の部族長(ベグ:bäg)に与えられる称号。
 
*吐屯(トゥドゥン:Tudun)…中央から派遣され、被支配諸族の監視・徴税をおこなう官職。<ref>護 1971年,p43</ref>
 
*阿波(アパ:apa)
 
*頡利発(俟利発、イルテベル:Ëltäbär)…被支配部族でも有力部族の部族長(ベグ:bäg)に与えられる称号。
 
*達干(タルカン:Tarqan)
 
*閻洪達
 
*梅緑(ブイルク:buïruq)…官職の一つ。ミュラーによれば「指揮官」の意。護雅夫は「命令する」を意味する動詞buyurの名詞形で「命令するもの」とした。
 
などおよそ28の官職がある。これらの官職は代々[[世襲]]によって受け継がれ、父兄が死ぬと子弟が後を継いだ。また、権限の範囲がはっきりとせず、定員も無かったとされる。
 
 
 
可汗廷([[首都]])は都斤山([[ウテュケン山]]:Ütükän yïš)に置かれ、牙帳は東側を入口とし、日の出を敬った。
 
 
 
<ref>護雅夫『古代トルコ民族史研究1』p225-438</ref>
 
 
 
===可汗(カガン)===
 
*大可汗…国家(イル:ël)の最高権力者であり、即位の際は国の有力者たちの協議によって、突厥の中心氏族である[[阿史那氏]]の中から選ばれる。基本は父子相続だが、[[木汗可汗]](在位:[[553年]] - [[572年]])以降、兄弟相続の傾向にあり、協議の決定は先代の遺言や、母親の尊卑に左右される。
 
 
 
*小可汗…大可汗によって選ばれ、基本的には東西に1人ずつ置かれる。
 
 
 
;即位
 
可汗が即位するとき、その近侍重臣らは新たに即位する者をフェルトで担ぎ、太陽のまわる方向に9回まわし、1回ごとに臣下が拝礼する。拝礼し終わると、新可汗を馬に乗せ、絹の布切れで気絶寸前まで首を絞める。ゆるめたら「おまえは何年可汗になっていれるか?」と問う。新可汗は意識が乱れていて年数を明確に考えることができない。臣下らはその答えた年数で可汗の在位年を計るのである<ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>。
 
 
 
== 歴代君主 ==
 
===突厥部===
 
#訥都六設(大児)…伊質泥師都の子
 
#阿賢設…訥都六設の子
 
#大葉護(吐務)…訥都六設の孫
 
#[[伊利可汗]](土門)…大葉護の長子
 
 
 
=== 突厥可汗国 ===
 
#[[伊利可汗]](イリグカガン、土門、ブミンカガン)([[552年]] - [[553年]])…柔然から独立し突厥可汗国を開く。
 
#[[乙息記可汗]](科羅、逸可汗) ([[553年]])…伊利可汗の子(『隋書』では弟)
 
#[[木汗可汗]](ムカンカガン、俟斤、燕都)([[553年]] - [[572年]])…乙息記可汗の弟。柔然を滅ぼし、中央アジアの[[エフタル]]を攻略して最盛期を築く。
 
#[[他鉢可汗]](タトパルカガン)([[572年]] - [[581年]])…木汗可汗の弟
 
#[[阿史那菴羅]]([[581年]])…他鉢可汗の子
 
#[[沙鉢略可汗]](イシュバラカガン、摂図)([[581年]] - [[587年]])…乙息記可汗の子
 
#*[[阿波可汗]](大邏便)([[581年]] - [[587年]])…木汗可汗の子
 
#[[葉護可汗]](ヤブグカガン、処羅侯)([[587年]])…摂図の弟
 
#[[都藍可汗|頡伽施多那都藍可汗]](雍虞閭)([[587年]] - [[599年]])…摂図の子
 
 
 
=== 東突厥 ===
 
#[[啓民可汗]](染干)([[587年]] - [[609年]])…沙鉢略可汗の子、都藍可汗の弟。
 
#[[始畢可汗]](咄吉世)([[609年]] - [[619年]])…啓民可汗の長男、隋に攻め入り朝貢を停止する。
 
#[[処羅可汗]](俟利弗設)([[619年]] - [[620年]])…啓民可汗の次男
 
#[[頡利可汗]](イリグカガン、咄苾)([[620年]] - [[630年]])…啓民可汗の三男、唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。
 
#*[[突利可汗]](テリシュカガン、什鉢苾)([[620年]] - [[631年]])…始畢可汗の子
 
 
 
;羈縻(きび)政策下
 
*乙弥泥孰俟利苾可汗([[阿史那思摩|思摩]])([[639年]] - [[644年]])…頡利可汗の族人
 
*[[車鼻可汗|乙注車鼻可汗]](斛勃)(? - [[650年]])…突厥別部
 
*[[阿史那泥孰匐]]([[679年]] - [[680年]])
 
*[[阿史那伏念]]([[680年]] - [[681年]])…頡利可汗の従兄の子
 
 
 
;突厥第二可汗国
 
#[[阿史那骨咄禄]](クトゥルグ、イルティリシュカガン)([[682年]] - [[690年]]頃)…頡利可汗の疏属、唐から独立して東突厥を再興させる。
 
#[[阿史那默啜]](カプガンカガン)([[690年]]頃 - [[716年]]殺)…骨咄禄の弟
 
#[[毘伽可汗]](ビルゲカガン、默棘連)([[716年]] - [[734年]]殺)…骨咄禄の子
 
#[[伊然可汗]](イネルカガン)([[734年]])…毘伽可汗の子
 
#[[登利可汗]](テングリカガン)(734年 - [[741年]]殺)…伊然可汗の弟
 
#[[骨咄葉護]](クトゥヤブグ)([[741年]] - [[742年]]殺)
 
#*[[頡跌伊施可汗]](イルティリシュカガン)([[742年]] - [[744年]]殺)…拔悉蜜部の長
 
#[[烏蘇米施可汗]](オズミシュカガン)([[742年]]頃 - [[744年]]殺)…判闕特勒の子
 
#[[白眉可汗]](鶻隴匐)(744年 - [[745年]]殺)…烏蘇米施可汗の弟
 
([[745年]]、[[回鶻|ウイグル]]によって[[東突厥]]滅ぶ)
 
 
 
=== 西面可汗 ===
 
#[[室點密可汗]](室点蜜、瑟帝米、イステミ、シルジブロス、ディザブロス)(562年 - [[576年]])…大葉護の子、伊利可汗の弟
 
#[[達頭可汗]](玷厥、歩迦可汗、タルドゥカガン)([[576年]] - [[603年]])…室点蜜の子
 
 
 
=== 西突厥 ===
 
#[[阿波可汗]](大邏便、アパカガン)([[581年]] - [[587年]])…木汗可汗の子
 
#[[泥利可汗]](ニリカガン)([[587年]]) …鞅素特勤の子、木汗可汗の孫
 
#[[曷薩那可汗|泥撅処羅可汗]](達漫、曷薩那可汗)([[587年]] - [[611年]])…泥利可汗の子
 
#[[射匱可汗]] ([[612年]]頃 - [[619年]])…達頭可汗の孫、泥撅処羅可汗の叔父
 
#[[統葉護可汗]] (トンヤブグカガン)([[619年]] - [[628年]])…射匱可汗の弟
 
#[[莫賀咄侯屈利俟毗可汗]] ([[628年]] - [[630年]])…統葉護可汗の伯父
 
#[[肆葉護可汗]](咥力特勤)([[628年]] - [[632年]])…統葉護可汗の子
 
#[[咄陸可汗]](泥孰莫賀設、大渡可汗、奚利邲、テュルクカガン)([[632年]] - [[634年]])…族人により擁立される
 
#[[沙鉢羅咥利失可汗]](同娥設、イシュバラティリシュカガン)([[634年]] - [[639年]])…咄陸可汗の弟
 
#*[[乙毗咄陸可汗]](欲谷設、イビルテュルクカガン)([[638年]] - [[653年]])
 
#[[乙屈利失乙毗可汗]](莫賀咄乙毗可汗)([[639年]] - [[640年]])…沙鉢羅咥利失可汗の子
 
#[[乙毗沙鉢羅葉護可汗]](薄布特勤、畢賀咄葉護、イビルイシュバラヤブグカガン)([[640年]] - [[641年]])…咥利失可汗の弟(伽那設)の子
 
#[[乙毗射匱可汗]]([[641年]] - [[651年]])…莫賀咄乙毗可汗の子
 
#沙鉢羅可汗([[阿史那賀魯]]、イシュバラカガン)([[651年]] - [[657年]])…曳歩利設射匱特勤の子
 
 
 
===羈縻(きび)政策下===
 
'''弥射家''' 弩失華部 昆陵都護府下
 
#興昔亡可汗([[阿史那弥射]])([[657年]] - [[662年]])…室點密可汗の五代の孫
 
#興昔亡可汗([[阿史那元慶]])([[685年]] - [[692年]]・693年)…弥射の子、左豹韜
 
#[[阿史那献]]([[657年]] - [[662年]])…元慶の子
 
 
 
'''歩真家''' 咄陸部 蒙池都護府下
 
#継往絶可汗([[阿史那歩真]])([[657年]] - 666年・667年)…弥射の族兄
 
#継往絶可汗([[阿史那斛瑟羅]]、唐に従属後は竭忠事主可汗)([[686年]] - [[690年]])…歩真の子
 
#十姓可汗([[阿史那懐道]])([[704年]] - ?)…斛瑟羅の子
 
#十姓可汗([[阿史那キン|阿史那昕]])([[740年]] - [[742年]])…懐道の子(阿史那氏断絶)
 
 
 
===突騎施の政権===
 
;酋長(部族長)、可汗
 
#[[烏質勒]](懐徳郡王)(? - [[706年]])…斛瑟羅の配下(莫賀達干)
 
#[[娑葛]](金河郡王、十四姓可汗、帰化可汗)(706年 - [[709年]]、可汗位:[[708年]] - 709年)…烏質勒の子
 
#[[蘇禄]](忠順可汗)(709年 - [[738年]]、可汗位:[[716年]] - 738年)…娑葛の配下
 
#*[[吐火仙]]可汗(骨啜)(可汗位:738年 - [[739年]])…蘇禄の子
 
#*[[爾微特勒]](可汗位:738年 - 739年)…黒姓可汗
 
#[[莫賀達干 (突騎施)|莫賀達干]](738年 - [[744年]]、可汗位:[[740年]] - 744年)
 
#伊里底蜜施骨咄禄毘伽(十姓可汗)(突騎施可汗:[[742年]] - ?、十姓可汗:744年 - ?)…黒姓出身
 
#移撥(十姓可汗)(可汗位:[[749年]] - ?)
 
#登里伊羅蜜施(可汗位:[[753年]] - ?)…黒姓可汗
 
#阿多裴羅(可汗位:? - ?)…黒姓可汗
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 参考資料 ==
 
*『[[周書]]』(列伝第四十二 異域伝下)
 
*『[[隋書]]』(帝紀第三、帝紀第四、列伝第四十九 北狄)
 
*『[[旧唐書]]』(本紀、列伝第一百四十四上 突厥上)
 
*『[[新唐書]]』(列伝一百四十上 突厥上、列伝一百四十下 突厥下)
 
*護雅夫『古代トルコ民族史研究1』(山川出版社、1971年)
 
*[[佐口透]]、[[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]、[[護雅夫]]『騎馬民族史2-正史北狄伝』([[平凡社]]、[[1972年]])
 
*[[内田吟風]]『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』([[同朋舎出版]]、[[1975年]]、ISBN 4810406261)
 
*[[護雅夫]]・[[岡田英弘]]『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』([[山川出版社]]、[[1990年]] ISBN 4634440407)
 
*[[森安孝夫]]『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』([[講談社]]、[[2007年]]、ISBN 9784062807050)
 
*林幹『突厥与回紇史』(内蒙古人民出版社、2007年、ISBN 9787204088904)
 
*楊聖敏『回紇史』(広西師範大学出版社、[[2008年]]、ISBN 9787563374519)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 10em;">
 
*[[ウイグル]]
 
*[[烏桓]]
 
*[[烏孫]]
 
*[[エフタル]]
 
*[[契丹]]
 
*[[匈奴]]
 
*[[月氏]]
 
*[[胡]]
 
*[[高車]]
 
*[[スキタイ]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 10em;">
 
*[[柔然]]
 
*[[西域]]
 
*[[西戎]]
 
*[[単于]]
 
*[[鮮卑]]
 
*[[中国の異民族]]
 
*[[丁零]]
 
*[[鉄勒]]
 
*[[テュルク系民族]]
 
*[[テュルク諸語]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 10em;">
 
*[[トメン|土門]]
 
*[[トルキスタン]]
 
*[[西突厥]]
 
*[[ハーン]]
 
*[[ハザール]]
 
*[[東突厥]]
 
*[[ブルガール]]
 
*[[フン族]]
 
*[[回鶻]]
 
*[[遊牧民]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
{{カザフスタン関連の項目}}
 
{{キルギス関連の項目}}
 
{{タジキスタン関連の項目}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:とつけつ}}
 
{{DEFAULTSORT:とつけつ}}

2018/12/31/ (月) 14:12時点における最新版

突厥(とっけつ、とっくつ)

6世紀中頃から8世紀中頃まで,モンゴル,中央アジアを支配したチュルク族阿史那 (あしな) 氏の建てた遊牧国家。もとは柔然の支配下にあったが,阿史那氏に土門 (伊利可汗 ) が出るに及んで強大となり,鉄勒諸部を従え柔然から独立した (552) 。第3代の木杆可汗 (もくかんかがん) にいたり柔然を滅ぼし,契丹,キルギスを破り,また西方ではエフタルをも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか,多くの小カガンが分立していたが,583年西部を支配した西面可汗達頭 (たっとう) は大カガンから独立し,突厥は東西に分裂した。東突厥はしばらく強勢を誇ったが,その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け,630年唐に帰付して一時消滅し,西突厥も7世紀の末に内紛で滅んだ。東突厥は7世紀末に阿史那骨咄禄 (あしなこっとつろく) が出て復興し,みずからイルテリシュ・カガンと称した。以後数代にわたってモンゴルを支配したが,内紛を生じ,744年鉄勒の一部ウイグルに滅ぼされた。




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