「鉄勒」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''鉄勒'''(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè) 隋から唐代なかば頃まで中国人が用いたチュルク族に対する称呼。チュルク...」で置換)
(タグ: Replaced)
1行目: 1行目:
{{モンゴルの歴史}}
 
'''鉄勒'''([[漢音]]:てつろく、[[拼音]]:Tiĕlè)は、[[6世紀]]から[[7世紀]]にかけて、[[中央ユーラシア]]北部に分布した[[突厥]]以外の[[テュルク系]][[遊牧民]]の総称。この中から[[回鶻]]([[ウイグル]])が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている<ref>平凡社 1972,P3</ref>。
 
  
==構成部族==
+
'''鉄勒'''([[漢音]]:てつろく、[[拼音]]:Tiĕlè)
鉄勒の構成部族は最多と言われ、多くの部族がそれぞれ分散して遊牧生活を送っていた<ref>『[[北史]]』列伝第八十七、『[[隋書]]』列伝第四十九</ref>。
 
  
===部族===
+
隋から唐代なかば頃まで中国人が用いたチュルク族に対する称呼。チュルク T<img border="0" title="" src="http://media.japan.eb.com/bolj2/letter/a5/a53d_16.gif">rkの漢音訳。その領域はモンゴル一帯からカスピ海沿岸に及んだ。十数部族から成るが,有力なものが9つあり,したがって九姓鉄勒,鉄勒九姓と呼ばれた。しかし鉄勒それ自体に君長はなく,部族ごとに[[突厥]]に所属していた。突厥が東西に分裂すると,630年鉄勒の一部族[[薛延陀]] (せつえんだ) が唐軍と協力し東突厥を滅ぼしたが,まもなく唐軍と衝突して敗れ,以後鉄勒諸部は唐の間接統治を受けた。 682年東突厥が復興すると再びこれに所属したが,734年突厥のカガンが死ぬと,鉄勒の一部[[ウイグル]]が台頭し,突厥を破り鉄勒諸部を従え,それ以後鉄勒の名は消えた。 ([[トクズ・オグズ]] )
*独洛河([[モンゴル]][[トール川|土拉河]])の北地域…部族長は俟斤(イルキン:官名)と号し、2万の兵がいた。
 
**僕骨(僕固、ボクトゥ:Boqut)部…[[高車]]時代の護骨部
 
**同羅(トンラ:Toŋra)部
 
**韋紇(迴紇、回紇、ウイグル:Uyγur)部…高車時代の袁紇部。
 
**拔野古(拔曳固、バイルク:Bayïrqu)部
 
**覆羅部…高車時代の副伏羅部。
 
  
*[[ジュンガル盆地]]の南地域…2万の兵がいた。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
**契弊(契苾)部…高車時代の解批か。
 
**薄落職部…[[カルルク]]のブラク(Bulaq)部か。
 
**乙咥部…カルルクのチギル(Čigil)部か。
 
**蘇婆部
 
**那曷部
 
**烏護(烏讙)部…[[オグズ]](Oγuz)か。
 
**紇骨([[堅昆|キルギス]]:Qïrqïz)部
 
**也咥(Yädiz=Ädiz)部
 
**於尼護(於尼讙)部
 
 
 
*ジュンガル盆地の北地域…1万余りの兵がいた。
 
**[[薛延陀]]部
 
**咥勒児部
 
**十槃部
 
**達契部
 
 
 
*[[カザフステップ]]地域…3万の兵がいた。
 
**訶咥部
 
**曷截部
 
**撥忽部
 
**比干部
 
**具海部
 
**曷比悉部
 
**何嵯蘇部
 
**拔也末部
 
**謁達(渇達)部
 
 
 
*[[拂菻]]([[東ローマ帝国]]?)の東…2万近くの兵がいた。
 
**恩屈部
 
**阿蘭([[アラン人|アラン]])部
 
**北褥([[ペチェネグ]])部
 
**九離部
 
**伏嗢昏部
 
 
 
*北海([[バイカル湖]]?)の南の地域
 
**都波(都播、トゥバ:Tuba)部
 
 
 
===氏族===
 
*独洛河(モンゴルの上拉河)の北
 
**蒙陳氏
 
**吐如紇氏
 
**斯結(思結、シキトゥ:Sïqït)氏
 
**渾(クン:Qun)氏
 
**斛薛氏
 
 
 
*得嶷海([[カスピ海]])の東西地域…8千余りの兵がいた。
 
**蘇路羯氏
 
**三素咽(三索咽)氏
 
**蔑促氏
 
**薩忽(隆忽)氏
 
 
 
== 九姓鉄勒 ==
 
後に、これら多くの鉄勒部族の中から九つの有力部族が台頭した。これを[[唐]]では'''九姓鉄勒'''と呼び、[[突厥]]では'''トクズ・オグズ'''(Toquz-Oγuz:九つの部族)と呼んだ。しかし、どの部族をもって九姓とするのかは不明であり、以下の15部族がその候補である。(※太字は確定<ref>『旧唐書』列伝第百四十四上、『新唐書』列伝第一百四十上、列伝第一百四十二上</ref>)
 
 
 
*迴紇([[ウイグル]]:Uyγur)部
 
*'''僕骨'''(ボクトゥ:Boqut)部
 
*多覽葛(テレンギュトゥ:Täläŋüt)部
 
*'''拔野古'''(バイルク:Bayïrqu)部
 
*'''同羅'''(トンラ:Toŋra)部
 
*'''思結'''(シキトゥ:Sïqït)部
 
*'''渾'''(クン:Qun)部
 
*斛薛部
 
*奚結部
 
*阿跌(エディズ:Ädiz)部
 
*'''契苾'''部
 
*思結(シキトゥ:Sïqït)別部
 
*白霫部
 
*都播(トゥバ:Tuba)部
 
*骨利幹(クリカン:Qurïqan)部
 
 
 
また、[[回鶻#九姓回鶻|九姓回鶻]](ウイグルの氏族)や九姓胡([[昭武九姓]]の[[ソグド人]])と呼ばれるものがあるが、別物である。
 
 
 
== 歴史 ==
 
鉄勒の祖先は[[匈奴]]の後裔・別種といわれる<ref>『北史』(列伝第八十七 突厥鐵勒),『隋書』(列伝第四十九 北狄),『[[旧唐書]]』(列伝第一百四十九下 鐵勒)</ref>。その種族は最多で、西海([[アラル海]])の東から山や谷に拠って生活してきた。姓氏は各々別であるが、彼らを総称して“鉄勒”と謂った。それぞれに君長は無く、分散して東西両突厥に属した。
 
 
 
[[西魏]]の[[大統]]12年([[546年]])、鉄勒が[[柔然]]を討とうとしたので、土門(後の[[伊利可汗]])は[[突厥]]部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。
 
 
 
突厥の[[木汗可汗]](在位:[[553年]] - [[572年]])は即位するや、諸外国を次々に併合していき、柔然を滅ぼして中央ユーラシアに大帝国を築き上げた。この時に鉄勒諸部も突厥に併合された。
 
 
 
[[隋]]の[[開皇]]19年([[599年]])、[[楊堅|文帝]]は太平公の[[史万歳]]や晋王の楊広([[煬帝]])を派遣し、[[東突厥]]の[[啓民可汗]](在位:[[587年]] - [[609年]])を納めて突厥の[[達頭可汗|歩迦可汗]](在位:[[599年]] - [[601年]])を破ると、鉄勒は分散した。
 
 
 
[[仁寿 (隋)|仁寿]]元年([[601年]])、それまで啓民可汗に付属していた斛薛(こくせつ)氏などの諸部が叛いたので、文帝は[[楊素]]を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いさせて北征させた。
 
 
 
[[大業]]元年([[605年]])、[[西突厥]]の[[泥撅処羅可汗]](在位:[[603年]]頃 - [[612年]])は鉄勒諸部を撃ち、重税を課した。また、薛延陀などの諸部に謀反の疑いをかけ、その魁帥数百人を誅殺した。これにより鉄勒諸部は泥撅処羅可汗に叛き、契弊部の俟利発俟斤(イルテベル・イルキン:官名)の'''契弊歌楞'''(契苾哥楞)を立てて'''易勿真莫何可汗'''とし、貪汗山(現在の新疆トルファン北部の柏格多山)に割拠した。また、薛延陀部の俟斤の子である'''乙失鉢'''(イシュバル、也咥)を立てて小可汗とし、燕末山の北に割拠した。泥撅処羅可汗を破ると、易勿真莫何可汗は勢力を増していった。易勿真莫何可汗は衆心を得ていたので、隣国に憚られ、[[伊吾]],[[高昌]],[[焉耆]]の諸国はことごとくこれに附いた。
 
 
 
大業3年([[607年]])、鉄勒は隋に遣使を送って方物を貢納した。
 
 
 
西突厥で[[射匱可汗]](在位:[[612年]] - [[619年]]頃)が強盛となると、薛延陀,契弊(契苾)の2部は可汗号を棄ててこれに臣従した。その後も、迴紇(ウイグル:Uyγur)などの六部は鬱督軍山([[ウテュケン山]])に在って、東突厥の[[始畢可汗]](在位:[[609年]] - [[619年]])に属し、乙失鉢の所部は金山([[アルタイ山脈]])に在って、西突厥の[[統葉護可汗]](在位:[[619年]]頃 - [[628年]])に臣従した。
 
 
 
[[唐]]の[[貞観 (唐)|貞観]]元年([[627年]])、[[陰山山脈|陰山]]以北の薛延陀,迴紇,拔也古(バイルク:Bayïrqu)などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設(ユクク・シャド:官名)を敗走させた。東突厥の[[頡利可汗]](在位:[[620年]] - [[630年]])は小可汗の[[突利可汗]]を遣わして、これを討伐させたが、敗北して軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束した。
 
 
 
貞観2年([[628年]])、西突厥で統葉護可汗が殺されると、西突厥が大いに乱れたので、乙失鉢の孫の[[夷男]](イネル:Inäl)は、薛延陀部落7万余家を率いて東突厥に附いた。しかし、東突厥でも頡利可汗の政衰に遇い、夷男はその徒属を率い、東突厥に叛いて頡利可汗を攻め、これを大破した。ここにおいて頡利部諸姓の多くは頡利可汗に叛き、夷男に帰順して共に主に推戴しようとしたが、夷男はあえて即位しようとはしなかった。時に唐の[[太宗 (唐)|太宗]]は游撃将軍の[[喬師望]]を遣わし、夷男を拝して'''真珠毘伽可汗'''(インチュ・ビルゲ・カガン)とし、鼓纛を賜う。夷男はとても喜び、遣使を送って方物を貢納し、牙帳を大漠の北の鬱督軍山下に建てた。東は[[靺鞨]]に至り、西は西突厥に至り、南は沙磧と接し、北は倶倫水に至り、迴紇,拔野古(バイルク:Bayïrqu),阿跌(エディス:Ädis),同羅(トンラ:Toŋra),僕骨(ボクトゥ:Boqut),[[霫]]などの大部落は皆付属した。
 
 
 
貞観3年([[629年]])8月、夷男はその弟の統特勒(トン・テギン:官名)を遣わして唐に来朝。太宗は厚く撫接を加え、宝刀及び宝鞭を賜う。この頃より東突厥の権威は失墜し、次々と諸部が離反していった。
 
 
 
貞観4年([[630年]])、遂に頡利可汗が唐によって捕らえられ、東突厥が一旦滅亡すると、夷男はその部を率いて東の故国へ還り、牙帳(本拠地)を都尉鞬山(ウテュケン山)の北、独邏河の南に建てた。東は[[室韋]]に至り、西は金山(アルタイ山脈)に至り、南は突厥に至り、北は瀚海([[バイカル湖]])に臨み、古の匈奴の故地をまるまる我がものとし、20万の兵を擁し、その2人の子を立てて南北部とした。ここにおいて[[モンゴル高原]]の所有権は鉄勒の薛延陀部に移る。この年、西突厥で[[肆葉護可汗]](在位:[[628年]] - [[632年]])が[[莫賀咄可汗]](在位:[[628年]] - [[630年]])を倒して西突厥を統一すると、大発兵して鉄勒に侵攻してきた。薛延陀部の夷男はこれを迎撃し、逆に肆葉護可汗を破った。
 
 
 
貞観7年([[633年]])1月、薛延陀部は遣使を送って唐に来朝した。
 
 
 
貞観12年([[638年]])、夷男の2子は小可汗を拝命し、その勢力を分けることを欲した。一方で唐の朝廷が東突厥の[[阿史那思摩|李思摩]]を立てて可汗とし、その部衆を漠南の地に住まわせた。夷男は李思摩をいまわしく思うようになった。
 
 
 
貞観14年([[640年]])6月、薛延陀部は唐に遣使を送って求婚した。
 
 
 
貞観15年([[641年]])11月、夷男は子の大度設に同羅,僕骨,回紇,靺鞨,霫など20万の兵を率いさせて白道川に駐屯させ、善陽嶺に拠って李思摩の部を撃った。李思摩は唐に遣使を送って救援を請い、太宗は英国公の[[李勣]]、[[蒲州]][[刺史]]の[[薛万徹]]に歩騎数万を派遣した。12月、白道川を経由して青山に至ったところで、大度設と遭遇し、これを累月にまで追撃した。諾真水に至ると、大度設は振り切れないと知ると、10里にわたって兵を連ねた。薛延陀部は以前、沙鉢羅及び[[阿史那社爾]]らを撃ち、歩戦で勝ったことがあったので、その戦法を用いて突厥の兵を撃退した。薛延陀部は勝ちに乗ってこれを駆逐。李勣の兵は防戦し、薛延陀部は1万本もの矢を放ち、唐軍の馬を傷つけた。李勣は騎馬を歩兵に切り替え、長矛部隊を突入させて薛延陀部を潰滅させた。副総管の薛万徹は数千騎を率いて薛延陀部の馬指揮者を捕え、薛延陀部の馬を失わせた。これにより薛延陀部は大敗し、大度設は身一つで遁走した。夷男は東突厥(李思摩政権)と和親を乞い、遣使を送って謝罪した。
 
 
 
貞観16年([[642年]])、夷男は叔父の沙鉢羅泥熟俟斤を遣わして唐に請婚し、馬3千頭を献上した。太宗はこれを許可して[[新興公主]]を娶らせた。この頃、李思摩が数回兵を派遣して薛延陀部を侵掠したので、薛延陀部はふたたび突利失を遣わして李思摩を撃ち、定襄で抄掠して去った。
 
 
 
貞観17年([[643年]])閏月、夷男が兄の子である突利設(テリス・シャド Tölis-šad:官名)を唐に遣わし、馬5万、牛・駝1万、羊10万頭を献上し請婚してきたので、太宗はこれを許可した。
 
 
 
薛延陀部に帰順していた東突厥の[[車鼻可汗|阿史那斛勃]]が次第に勢力を増していったため、これを危惧した夷男は彼を殺そうと考えた。この事を察知した阿史那斛勃は旧地(金山の北)に逃げ帰り、その地で勝兵3万人を擁し、自ら[[車鼻可汗|乙注車鼻可汗]]と称した。西は葛邏禄([[カルルク]])族、北は結骨([[堅昆|キルギス]])部と接し、皆車鼻可汗に附いた。
 
 
 
貞観19年([[645年]])、夷男が[[卒去]]し、夷男の少子の肆葉護[[拔灼]]はその兄の突利失可汗(テリス・カガン:Tölis-qaγan)を襲って殺し自ら立ち、'''頡利倶利薛沙多弥可汗'''となる。拔灼は悪政を布いたため、民衆が附かなかった。さらに太宗が[[高句麗]]遠征([[唐の高句麗出兵]])中で不在の唐に侵入し、[[夏州]]を寇掠した。しかし、唐の将軍の執失思力に征討され、その衆数万が捕虜となり、拔灼は軽騎で遁去したが、迴紇部に殺されてしまう。
 
 
 
貞観20年([[646年]])、薛延陀部の余衆はまだ5~6万も存在したため、太宗は大軍を率いて薛延陀部討伐を行った。江夏王の[[李道宗]]や[[代州]][[都督]]の薛万徹らの活躍により、唐軍が大勝し、薛延陀部は西走した。薛延陀部は共に夷男の兄の子である[[咄摩支]]を'''伊特勿失可汗'''(イトミシュ・カガン)に推戴し、部落7万余を率いて西の故地へ帰った。しばらくして薛延陀部は可汗号を棄て、唐に遣使を送って鬱督軍(ウテュケン)山の北に住むことを請願した。諸部鉄勒はもともと薛延陀部に服属していたので、咄摩支が至ると、九姓の渠帥は恐れずにはいられなかった。朝議は磧北の患いとして恐れたので、ふたたび英国公の李勣に討撃させた。李勣は九姓鉄勒2万騎を率いて天山に至る。咄摩支は官軍が来るのを見て、恐れ驚き、[[蕭嗣業]]が迴紇中に在ることを聞くと、ついに請降した。蕭嗣業は咄摩支とともに京師に至ると、詔で右武衛将軍を授かり、田宅を賜わった。咄摩支は入国後、鉄勒酋帥がその部落に潜んでいることを知り、両端を持った。6月、太宗は兵部尚書・固安公の[[崔敦礼]]、特進・英国公の李勣を遣わして薛延陀部を鬱督軍山の北で撃破し、前後して5千余級を斬首し、男女3万余人を捕虜とした。8月、鉄勒の回紇部、拔野古部、同羅部、僕骨部、多覽葛(テレンギュトゥ:Täläŋüt)部、思結(シキトゥ:Sïqït)部、阿跌部、契苾部、跌結部、渾(クン:Qun)部、斛薛部など十一姓は各々遣使を送って朝貢した。
 
 
 
貞観21年([[647年]])、契苾、迴紇など十余部落は薛延陀部から離反し、唐に帰順した。太宗はその部落を選んで13の州府を置いた。迴紇部をもって[[瀚海都督府]]とし、僕骨部を[[金微都督府]]とし、多覽葛部を[[燕然都督府]]とし、拔野古部を[[幽陵都督府]]とし、同羅部を[[亀林都督府]]とし、思結部を[[盧山都督府]]とし、渾部を[[皋蘭州]]とし、斛薛部を[[高闕州]]とし、奚結部を[[雞鹿州]]とし、阿跌部を[[雞田州]]とし、契苾部を[[楡溪州]]とし、思結別部を[[蹛林州]]とし、白霫部を[[寘顔州]]とした。また、その酋長を拝して都督・刺史とし、[[燕然都護]]を置いてこれを統括させた。
 
 
 
貞観23年([[649年]])、太宗は右驍衛郎将の[[高侃]]を遣わして密かに鉄勒の迴紇部,僕骨部などの兵を招き寄せて車鼻可汗を襲撃させた。すると、車鼻可汗の酋長である葛邏禄(カルルク)部の泥孰闕俟利発(でいしゅくキョル・イルテベル:官名)や拔塞匐部,処木昆部の莫賀咄俟斤(バガテュル・イルキン:官名)らが車鼻可汗に背き、相次いで唐に投降してきた。
 
 
 
[[永徽]]元年([[560年]])、薛延陀の首領先逃逸者は帰国を請い、[[高宗 (唐)|高宗]]は更に[[溪弾州]]を置いた。
 
 
 
永徽3年([[652年]])、高宗は左武候大将軍の[[梁建方]]、右驍衛大将軍の[[契苾何力]]を派遣し、燕然都護所部の迴紇の兵5万騎を率いて 西突厥の[[阿史那賀魯]]を討たせ、5千級を斬首し、渠帥60余人を捕虜とした。
 
 
 
[[武則天|則天]]時([[690年]] - [[705年]])になると、東突厥(第二可汗国)が強盛となり、鉄勒諸部は漠北に在って次第に併合されていった。また、迴紇部,契苾部,思結部,渾部は[[甘州]],[[涼州]]の地に遷された。
 
 
 
[[天宝 (唐)|天宝]]3載 ([[744年]])、鉄勒の一部族である[[回鶻]](ウイグル)によって東突厥が滅ぼされる。この頃から史書に鉄勒の称は用いられなくなる。
 
 
 
==習俗==
 
鉄勒の習俗はだいたい突厥と同じであるが、突厥と異なる点はただ、男が結婚の儀式を済ますとすぐ妻の家に住み、出産を待ち、産まれた男女児に乳を飲ませてから自分の家に帰るということ。また、死者を埋葬するということ<ref>突厥は[[火葬]]する。</ref>だけである<ref>『隋書』列伝第四十九 北狄</ref>。
 
 
 
==歴代君主==
 
初めの頃は君主と呼べる者はおらず、部族長がいる程度であったが、[[大業]]元年([[605年]])、[[西突厥]]に叛いてからは自らの[[可汗]]を推戴するようになった。
 
 
 
#易勿真莫何可汗(契弊歌楞、契苾哥楞)([[605年]] – [[612年]]頃)…契弊部の俟利発・俟斤
 
#*小可汗乙失鉢(也咥)(605年 – 612年頃)…薛延陀部内の俟斤の子
 
#真珠毗伽可汗(夷男)([[628年]] – [[645年]])…乙失鉢の孫
 
#突利失可汗(645年殺)…夷男の子
 
#頡利倶利薛沙多弥可汗(拔灼)(645年殺)…夷男の末子
 
#伊特勿失可汗(咄摩支)([[646年]])…夷男の兄の子
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 参考資料 ==
 
*『[[周書]]』(列伝第四十二 異域下)
 
*『[[北史]]』(列伝第八十七 突厥鐵勒)
 
*『[[隋書]]』(列伝第四十九 北狄)
 
*『[[旧唐書]]』(本紀第二、本紀第三、列伝第一百四十九下 鐵勒、列伝第一百四十五 回紇)
 
*『[[新唐書]]』(列伝第一百四十下 突厥下、列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下)
 
*佐口透、山田信夫、[[護雅夫]]『騎馬民族史2-正史北狄伝』([[平凡社]]、[[1972年]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[オグズ]]
 
*[[回鶻]]
 
*[[カルルク]]
 
*[[匈奴]]
 
*[[高車]]
 
*[[柔然]]
 
*[[丁零]]
 
*[[テュルク]]
 
*[[テュルク諸語]]
 
*[[突厥]]
 
*[[東突厥]]
 
*[[西突厥]]
 
*[[遊牧民]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/reference/kyusei-kaikotsu.htm 九姓回鶻とToquz Oγuzとの関係を論ず]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:てつろく}}
 
{{DEFAULTSORT:てつろく}}

2018/12/31/ (月) 14:13時点における版

鉄勒漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)

隋から唐代なかば頃まで中国人が用いたチュルク族に対する称呼。チュルク T<img border="0" title="" src="a53d_16.gif">rkの漢音訳。その領域はモンゴル一帯からカスピ海沿岸に及んだ。十数部族から成るが,有力なものが9つあり,したがって九姓鉄勒,鉄勒九姓と呼ばれた。しかし鉄勒それ自体に君長はなく,部族ごとに突厥に所属していた。突厥が東西に分裂すると,630年鉄勒の一部族薛延陀 (せつえんだ) が唐軍と協力し東突厥を滅ぼしたが,まもなく唐軍と衝突して敗れ,以後鉄勒諸部は唐の間接統治を受けた。 682年東突厥が復興すると再びこれに所属したが,734年突厥のカガンが死ぬと,鉄勒の一部ウイグルが台頭し,突厥を破り鉄勒諸部を従え,それ以後鉄勒の名は消えた。 (トクズ・オグズ )



楽天市場検索: