ケーシー高峰

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ケーシー高峰
本名 門脇 貞男
ニックネーム ドクター
生年月日 (1934-02-25) 1934年2月25日(90歳)
出身地 日本の旗 日本山形県最上郡最上町
最終学歴 日本大学芸術学部
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ケーシー 高峰(ケーシー たかみね、1934年2月25日 - )は、日本タレント。本名、門脇 貞男(かどわき さだお)。 白衣姿で黒板ホワイトボードを用いる医事漫談の創始者にして、第一人者。愛称は「ドクター」。

来歴・芸風

山形県最上郡最上町出身。母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医であった。また、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家だった[1]。兄弟をはじめ、一族の多くが医師・歯科医師であるという[2][3]

山形県立新庄北高等学校卒業[4]後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられたが、教授と相容れなかった(本人曰く、風貌を理由にいじめを受けた)ことと、モダン・ジャズに耽溺して学業がおろそかになったことから、日本大学芸術学部に転部[5]。同級生には宍戸錠らがいる。

在学中から「坊られい」と名乗り、クラブのMCとして業界では知られた存在となった。「坊られい」という芸名は、ドメニコ・モドゥーニョのヒット曲『Nel blu, dipinto di blu』のサビの歌詞で英題でもある「Volare(ヴォラーレ)[6]」と、「ぼられた」に由来する。

1957年の日大卒業後、本格的に芸人を志し、漫才師大空ヒットに弟子入り[3][7](一部資料では、リーガル天才に師事したとしている[4][5][8])。コロムビア・トップ門下の大空はるか(後の青空はるお)と下ネタ専門の漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「かなた」を名乗った。コンビは南千住の「栗友亭」を拠点に[7]そこそこ売れたものの、東京漫才界の対立騒動に巻き込まれて解散。

1968年、「ケーシー高峰」に改名し、漫才時代同様のエロネタをかける漫談家に転身した[3]。名は自身が医師志望であった過去を活かし、医師が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』からとり、屋号の「高峰」は、ケーシーの少年時代、地元の最上町に映画『』の長期ロケでやって来て、一目惚れした女優の高峰秀子[9]の名字から名付けた(のちに天才・秀才門下の芸人がケーシー門下に移った際、自身の屋号「高峰」を名乗らせている)。ケーシーは「セニョリータ」「グラッチェ」など怪しげなラテン系単語と、軽妙洒脱な下ネタを駆使し、『大正テレビ寄席』のセミレギュラー出演などを通じて、お茶の間の爆発的人気を博した。1969年には演芸番組『おいろけ寄席』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))の司会に起用された[4]

このかたわら、1970年代末以降、ピンク映画でヤブ医者役(必ず性病科産婦人科)を演じるなど、コミックリリーフ担当の俳優として多くの作品に出演する。渋い脇役のこなせる性格俳優としても開眼し、『夢千代日記』(1981年NHK)でのシリアスな演技が高く評価されたほか、『木更津キャッツアイ』(2002年TBS)ではオカマヤクザという極めて難しい役柄を演じてみせた。

俳優業でノーマルな役柄を演じることが増えるにつれ、その鬱憤を晴らすがごとく高座には更に磨きがかかり、従来の都会的(バタ臭くカッコ付ける)なスタンダップ・コメディ路線から、丸出しの山形弁で恫喝まがいの客いじりをする[10]泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものとする。立川談志は「ドクターは凄(すげ)ぇ。ドクターに勝てるスタンダップ・コメディアンは、俺かビートたけしくらいだ」と、その芸のセンスを評価した[11]1990年頃、落語芸術協会に入会(のち脱退)。

2005年白板症舌癌)に罹患したが、完治させて復帰する。療養中にもかかわらず予定されていた独演会を敢行した際は、黒板を前に一言も喋らず舞台を務め上げ、身振り手振りと筆談だけで観客を魅了。「私のがんは……子宮がんです」「病床でも、いつ女を抱けるかなと考えていた」「顔は悪性です」 などとギャグを飛ばし、ゲストのおぼん・こぼんから「師匠は、喋らなくても笑いが取れる」と感服された[12][13]

80歳を超えた現在でも演芸番組の常連として活躍。芸風はやや変化しており「グラッチェ」などは使用しなくなった一方、客いじりを織り交ぜつつ、駄洒落や下ネタを織り交ぜた高座を展開している。

人物

  • 俳優北村総一朗とは長年の友人で、「ケーちゃん」「総ちゃん」と呼び合う仲である。東日本大震災発生直後には、いわき在住のケーシーを気遣う北村から「ケーちゃん、生きてる!? 生きてるの!?」との電話連絡があったという[14]
  • 昭和9年生まれだが「昭和九年会」には参加していない。
  • NHKラジオ第一『ザ・ケーシーSHOW』では、その長年の芸歴から多彩なゲストを呼び、縦横無尽なトークを展開した。番組構成力の評価も高い。

一門

兄弟弟子

  • 春日三球
  • 高峰和才・洋才(リーガル和才・洋才) - リーガル天才・秀才門下の弟子だったが、師匠の没後ケーシーが面倒を見ていた。2011年解散。
  • 高峰東天・愛天 - 田端グループ。東天は講釈師出身、愛天は元「高峰敬天・愛天」で、新宿OS支配人も兼ねた。

弟子

  • 高峰青天・幸天
  • 高峰欣二朗 - 山本譲二 専属司会者
  • 高峰てんじ - Wエースの谷エースの最初の相方
  • 高峰コダマ
など

出囃子

出演

映画

テレビドラマ

演芸・バラエティ番組

CM

レコード

シングル

  • そりゃあないぜセニョリータ / ゆうべの僕(1970年5月) - 作詞:斉木克巳、作曲:村井邦彦、編曲:川口真
  • いこうぜセニョール / 知らない海(1970年10月)
  • 太郎と花子(サラポニタン) / 愛子……(1971年6月)
  • 可哀想だぜ / 別れた女(1973年7月)
  • やっぱり山形 / お金が恐い(1986年12月) - A面はあき竹城と共演。
  • 恐怖のブルース / つかない夜のジンクス(1987年7月)

アルバム

  • 『これでキマリだ! ケーシーの替歌集』
    A1.ケーシーの夢は夜ひらく
    A2.ケーシーのズンドコ節
    A3.ケーシーの四つのお願い
    A4.ケーシーのいい湯だな(いいナオンだな)
    A5.そりゃあないぜセニョリータ
    A6.ケーシーのいいじゃないの幸せならば
    B1.ケーシーの新宿の女(東京のひと)
    B2.ケーシーの女のブルース(男のブルース)
    B3.いこうぜセニョール
    B4.ケーシーの番外地小唄
    B5.知らない海
    B6.ゆうべの僕

脚注

  1. ケーシー高峰さんが語る(3) 医事漫談の原点は母にあり 読売新聞「ヨミドクター」
  2. ケーシー高峰さんが語る(1) 長患いの腰痛、手術に踏み切る 読売新聞「ヨミドクター」
  3. 3.0 3.1 3.2 ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』156ページ
  4. 4.0 4.1 4.2 ケーシー高峰 小島プランニングオフィス
  5. 5.0 5.1 ケーシー高峰 一代限りの“お色気漫談”を見よ スポーツニッポン「スポニチ演芸館」、2008年2月15日
  6. のちにジプシー・キングスが同題でカバーし再ヒットした。
  7. 7.0 7.1 週刊アサヒ芸能』 2015年7月2日号「戦後70年特別ワイド オール直撃! 日本を大爆笑させた『昭和喜劇王』列伝」
  8. ケーシー高峰 コトバンク
  9. 画家・安野光雅氏「女優・高峰秀子の大ファンだったから……」 週刊朝日 2012年6月22日号
  10. 常連客がケーシーの特徴的な風貌をいじり、「夏みかん!」「ゆず!」などの掛け声で応酬するのが常。
  11. 立川談志 『談志百選』 講談社、2000年
  12. 2005年 サンケイスポーツ
  13. 「ベン・ケーシー」がブームだったでしょ、それからヒントを得て、親も喜ばせてやろうと白衣着て漫談やったんです”. 公益社団法人 横浜中法人会 (2016年1月). . 2018閲覧.
  14. ニッポン放送 『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』 2011年4月15日放送