学校法人関西学院

提供: miniwiki
移動先:案内検索
学校法人関西学院
KWANSEI GAKUIN
西宮上ヶ原キャンパス正門付近からの眺め:正面建物は国登録有形文化財の時計台
概要
校訓Mastery for Service
設立年1889年
分類私立
理事長宮原明
院長田淵結
学長村田治
所在地兵庫県西宮市上ヶ原1-1-155
構成
設置校と生徒数大学院 1,048
大学 23,498
高等部 1,071
中学部 717
初等部 544
幼稚園 227
聖和短期大学 327
千里国際中等部 233
千里国際高等部 276
千里国際大阪インターナショナルスクール 278

学校法人関西学院(がっこうほうじんかんせいがくいん、KWANSEI GAKUIN)は、兵庫県西宮市上ヶ原に本部を構える学校法人である。通称「関学」(商標登録番号3033847)。

11学部、13研究科からなる総合大学の関西学院大学をはじめ、聖和短期大学高等部中学部初等部幼稚園インターナショナル・スクールを備えた総合学園である。

創立は1889年9月28日で[1]、関西学院は西日本を代表する学校法人の一つである。

概略

学院の創立は1889年(明治22年)9月28日である[1]。米国の有力なプロテスタントキリスト教教団である南メソジスト監督教会から派遣された宣教師W. R. ランバス(W. R. Lambuth, MD 1854-1921)が、パルモア学院を母体として[2][3][4]神戸市郊外原田の森(現在の灘区王子公園)に小さな神学校と中学を開設したことに始まる。こうした歴史的経緯からも、関西学院では開校以来、キリスト教教育を重視するとともに、神学部を有する数少ない高等教育機関として、優秀なプロテスタント系指導者を多数輩出する重要な役割を担っている。

関西学院大学は、現在、神学部文学部社会学部法学部経済学部商学部、人間福祉学部、教育学部理工学部総合政策学部国際学部の11学部からなり、それぞれの学部がその歴史と伝統に応じた研究と教育に携わっている。詳細は関西学院大学を参照のこと。

また、関西学院には、高等部中学部が置かれている。これらの中高からは、大学までほぼ全入制で進学できるため、目先の受験勉強にとらわれない自律的な学習と文化・スポーツ活動が可能となっている。特筆すべき点としては、高等部の前身が新制での大学教養部相当の教育機関であったこと、中学部ではイギリスのパブリックスクールを範としたスパルタ教育が行なわれていることがあげられる。

さらに、関西学院は、2010年4月に学校法人千里国際学園と合併した。これにより、関西学院は千里国際学園の運営を引き継ぎ、千里国際学園中等部・高等部(中学校・高等学校)を「関西学院千里国際中等部・高等部」と改称し、大阪インターナショナルスクール(予科、初等科、中等科、高等科)を「関西学院大阪インターナショナルスクール」と改称した。

この他にも関西学院には初等部をはじめ、2009年に合併した学校法人聖和大学が母体の関西学院幼稚園、さらに関西学院聖和短期大学がそれぞれ置かれている。

関西学院は、現在、西宮上ヶ原キャンパス、西宮聖和キャンパス、大阪梅田キャンパス、東京丸の内キャンパス、神戸三田キャンパス、宝塚キャンパス、千里国際キャンパスに機能を分散させて、幼稚園から大学院までを運営している。これらのキャンパスのうち、大阪・梅田と東京・丸の内の両キャンパスは、高層ビルの数室を利用したものである。千里国際キャンパスは近代建築である。他の4キャンパスは、ほぼスパニッシュミッションスタイルで統一された美しい建物と広い敷地から成り立っている。

とりわけ西宮上ヶ原キャンパスには、国の登録有形文化財の時計台(旧図書館)を始め、著名な建築家であったウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品が多数残存し、また、約240種、約4万9千本に上る膨大な樹木(「樹木調査・数字で見る関学」関西学院通信ポプラ65号、2009年)が繁茂するなど、日本の大学というよりは、スタンフォード大学に代表される米国南東部の大学を思い起こさせる雰囲気があり、日本屈指の美しいキャンパスとして知られている。

基礎データ

ファイル:Nishinomiya uegahara1.jpg
学院本部棟(西宮上ヶ原キャンパス)

(2016年6月現在)

  • 本部 〒662-8501 兵庫県西宮市上ヶ原1番町1番155号
  • 創立:1889年(明治22年)
  • 理事長:宮原明
  • 院長:田淵結
  • 学長:村田治
  • 学生数は上記参照
  • スクールモットー:Mastery for Service(「奉仕のための練達」と訳すことが多い)

校歌

空の翼(作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰

風に思う空の翼

輝く自由 Mastery for Service

清明ここに道あり我が丘

関西 関西 関西 関西学院

ポプラは羽ばたくいざ響け我等

風 光 力 若きは力ぞ

いざ いざ いざ上ヶ原ふるえ

いざ いざ いざ いざ上ヶ原ふるえ

歴代院長

歴代理事長

財団法人 関西学院

月23日)

学校法人 関西学院

各部の特色

大学部

詳細は関西学院大学を参照のこと。

短期大学

1950年から1958年まで設置されていた短期大学は、関西学院短期大学を参照のこと。また、2009年4月、学校法人聖和大学の法人合併にともない、聖和大学短期大学部を聖和短期大学と改称して運営している。

高等部

詳細は関西学院高等部を参照のこと。スパルタ式の中学部とは違い、高等部は自由(放任)教育を旨としている。高校からの入学はかなりの難関だが、20名弱の例外を除いて、そのまま大学に進学する生徒が多い。授業内容は受験的な暗記ではなく、なぜそうなったかを考えさせる式のもの。高等部の前身が大学予科(新制での大学教養部に相当)[5]であったためか、第3学年度には大学レベルの授業が行なわれ、独・仏語、経済学、法学、心理学などが選択可能。論文も必修。英語教育にとくに熱心。クラブ活動では、旧制時代からの伝統で柔道、剣道、アメリカン・フットボール、ラグビー、テニス、サッカーなどが強い。野球は旧制時代に春夏一回ずつの優勝経験があるが、戦後は低迷時期が続いていた。近年はスポーツ推薦を実施、リトルリーグから多くの部員を集めた結果、1998年に63年ぶりのセンバツ出場を果たして以来、兵庫県内でも有力校の一つとなり、2009年には全国高等学校野球選手権大会の兵庫大会で優勝し、70年ぶりに甲子園出場を決めた。長く男子校であったが、初等部からの生徒が進級してきた2015年度から共学化された。

他にも学校法人千里国際学園の合併に伴い、2010年4月より大阪府箕面市の千里国際キャンパスに関西学院千里国際高等部を開設している。

中学部

詳細は関西学院中学部を参照のこと。阪神間の裕福な子弟の中学として知られている。また、かなりのスパルタ教育が行なわれている。入学してすぐのキャンプで行なわれるメチャビーと呼ばれる泥んこラグビーが有名。戦後初代中高部長だった矢内正一の方針により、イギリスのパブリックスクールに範をとったエリート教育を旨としている。そのため、文武両道が強調される。クラブ活動としては、タッチフットボール、ラグビー、テニス、サッカーが強豪として知られる。長く男子校であったが、初等部からの生徒が進級してきた2012年度から共学化された。

他にも学校法人千里国際学園の合併に伴い、2010年4月より大阪府箕面市の千里国際キャンパスに関西学院千里国際中等部を設置している。

インターナショナル・スクール

学校法人千里国際学園の合併に伴い、2010年4月より大阪府箕面市の千里国際キャンパスに関西学院大阪インターナショナルスクールを設置している。

初等部

詳細は関西学院初等部を参照のこと。 2008年4月開校。男女共学。卒業時には中学部への進学が可能である(中学部・高等部も初等部生の進級に伴い共学化)。英語教育を小学生から行っている。校舎は宝塚キャンパス(宝塚ファミリーランド跡)に建築された。

幼稚園

2009年4月、学校法人聖和大学の法人合併にともない、聖和大学附属聖和幼稚園を聖和幼稚園に改称(西宮聖和キャンパス)。2016年4月に関西学院幼稚園に改称。

スポーツ活動

アメリカンフットボール部の関西学院大学ファイターズは、34年連続リーグ優勝、リーグ戦145連勝、33年連続甲子園ボウル出場、5年連続甲子園ボウル優勝など、屈指の強豪として知られている。しかし、近年では、京都大学、立命館大学、関西大学などの実力が伯仲しつつあり、西日本では人気の高いカレッジスポーツとなっている。

他には、ラグビー部(2008年、2009年、関西大学リーグ2年連続優勝)、サッカー部(2009年、関西大学リーグ優勝)、硬式野球部((2012年秋、関西学生リーグ優勝)、チアリーディング部などが健闘している。

また、高等部のアメリカンフットボール、ラグビー、野球の各クラブも伝統があり、とくに野球部は春の選抜高校野球選手権で優勝1回、夏の全国高校野球選手権で優勝1回、準優勝1回の実績をもつ。

学院史

明治期

学院の100年を越える歴史は、1889年に、米国の南メソジスト監督教会から派遣された宣教師 W. R. ランバスが、パルモア学院を母体として[6][7]、神戸の原田の森に神学校を併設した小さな旧制中学(普通学部)を設立したことに始まる。[8]ちなみに、この南メソジスト教会という名称は、米国のメソジスト教会が南北戦争時代に、相分かれて戦ったときの名残りである。ランバスは中国の上海で生まれ、その後米国で神学と医学を修めた宣教師かつ医師であった。この時設立されたのが、英名をWest Japan Collegeといい、和名では関西学院である。法人名の関西を「かんさい」ではなく「かんせい」と読むのは、ミッション系の学園として、もともと仏教経典の音であった呉音(サイ)を嫌い、漢音(セイ)を用いたためであるという説がある[9]。ただし、明治期には特に若者の間で、新漢語など新しい概念の単語に使われるようになった漢音をあえて使う風潮があり(東京を「とうきょう」と読まず「トウケイ」と読むなど)、それに合わせただけという説を関西学院自身は採用している[1]

ランバスは関西学院の創立者であり、生みの親ではあった。ただ、彼は学院創立2年後の1891年には帰国しているので、育ての親とは言えないかもしれない。そして、この文字どおりの育ての親と言えるのが、のちの第4代院長として1910年にカナダ・メソジスト教会から赴任したC. J. L. ベーツ (Cornelius John Lighthall Bates、1877-1963) である。

大正~昭和前期

C. J. L. ベーツは、それまでの学院が米国南メソジスト教会単独での経営であったのに対し、カナダ・日本両メソジスト教会との3者共同経営に変わったのを受けて、カナダを代表する形で赴任した人である。前任者の米人ニュートンが南軍の元将校であり、スポーツをよくしない者が牧師になることを嫌ったというくらい勇猛な院長であったのに対し、ベーツは牧師一家の出であったこともあり、その誠実で柔和な人柄が長く慕われたようである。スクールモットーMastery for Serviceも彼の提唱による。関西学院での在職期間は30年以上にも及び、この間に上ヶ原移転、大学(専門部)の設置など、学院の骨格に当たる部分が作られており、まだ少年期にあった関学を青年期へと導いた人物といえる。

大戦期

太平洋戦争の勃発とともに、関西学院も時代の波にもまれていく。戦前は常時12人もいた外国人宣教師たちも、すべて帰国することになった。1941年には、関学の母体であった日本メソヂスト教会も政府の意向を受けて結成された日本基督教団に合流する。この時代、日本のキリスト者は他宗教者にも増して、国策に協力する姿勢が目立ったようである。戦後も随分と経ってから日本基督教団はこれを間違いであったとしたが、欧米でもキリスト教会は概ね右派であり、反戦的な立場をとることは非常にまれである。むしろ、米人たちが日本に蒔いた芥子の種は、教団としては正常に発育したというべきかもしれない。

戦後~昭和後期

戦争終結とともに、学院側の要請を受けて、再び米国・カナダから宣教師たちが再来日したが、彼らにはかなりの戸惑いがあったようである。それは、学院の実権がすでに第5代神崎驥一院長の手に握られており、外国人教師たちはその指示の下で教育に当たらねばならなかったからである。つまり、大戦という外因を契機にしながらも、関西学院がもはや子供ではなく、立派な青年に達していることを認めざるをえなかったのだ。

戦後の歴代院長の時代には、学院は商学部、社会学部、理学部と矢継ぎ早に新学部を開設し、文字どおりの総合大学へと成長していく。そして、学園紛争を挟んで、1975年に第11代院長に就任したのが久山康院長である。この時代は、一地方大学にすぎなかった関学が、全国的にも知名度を増していった時期でもある。社会背景的にはバブル経済前夜であり、豪華な新学生会館の建設など、他大学との設備面での競争も行なわれた。しかし一方で、レジャー志向の学生にターゲットを定めた路線は、内部出身者の多い教職員からは学問軽視として反発も強かった。

平成期

関西学院が創立100周年を一年後に控え、本来ならお祝いムード一色となるはずの1988年、学院は揺れに揺れた。ついに、久山院長体制に対する教職員の長年の不満が大学騒動として爆発したのである。この内紛については、新聞にもたびたび報道されたとおり[10]、神戸三田キャンパス用地の購入を進めていた理事会に対し、これを不要とする大学側が対立したものである。結果としては、翌1989年(平成元年)3月に院長と学長がそれぞれ退陣するという形になり、学院組織の改革が行なわれた。平成に入ってからは、阪神地方を襲った大震災など、なにかと暗い話題が多く、関西経済全体が活気を失い、明治時代に創立され、100周年を祝った関西学院も中年期を迎えつつあった。

阪神・淡路大震災の起きた1995年 、神戸三田キャンパスに総合政策学部を開設。2004年に法科大学院、2008年に関西学院初等部を兵庫県宝塚市に開設。2009年には学校法人聖和大学を法人合併して、聖和大学短期大学部を聖和短期大学に、聖和大学附属聖和幼稚園を聖和幼稚園に改称し、同時に関西学院大学教育学部および同教育学研究科を西宮聖和キャンパスに開設。これにより関西学院では、幼稚園から大学院までの一貫教育体制が整うことになった。また、2010年には、大学に国際学部を設置するとともに、学校法人千里国際学園を合併し、それは学校法人関西学院千里国際キャンパスとして生まれ変わった。

こうして、関西学院は、遅まきながらも改革に取り組む姿勢を鮮明にし、一時期の停滞期を脱しつつあると言えよう。関西学院が今後、1950年代後半から1980年代初めの輝かしい時代の再来(関西学院大学の「略歴」斜体部分を参照のこと) を迎えるかどうかが注目されるところである。

年表

関西学院大学に記載の内容は主要なものを除いて省略した。

  • 1880年 米国南メソジスト教会からW. R. ランバスが来日
  • 1889年9月28日 神戸市郊外原田村(現・神戸市灘区王子町)に関西学院設立[1](神学部、普通学部(中学))
  • 1894年 三日月の校章を制定
  • 1899年 日本初の男性合唱団、グリークラブ誕生
  • 1908年 専門学校令による関西学院神学校設立
  • 1912年 関西学院神学校を関西学院と改称。神学部と高等学部(文科・商科)を開設、第4代院長ベーツがスクール・モットー・Mastery for Service提唱
  • 1915年 普通学部を中学部に名称変更
  • 1929年 西宮上ヶ原キャンパスに移転[1](W. M. ヴォーリズによる設計・建築)
  • 1932年 大学令による関西学院大学を開設[1]専門学校文学部及び高等商業学部を専門部文学部及び高等商業学部に改組。大学予科を設置
  • 1933年 校歌『空の翼』を制定
  • 1934年 大学法文学部及び商経学部を開設
  • 1935年 専門部高等商業学部を関西学院高等商業学校に改組

ファイル:KGI1935.jpg

ランバス姉妹校

ランバス関係姉妹校 一覧(あいうえお順)[11]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 米山淳(2014年9月29日). “関西学院:125周年、卒業生ら祝う 歴史振り返り式典−−西宮上ケ原キャンパス”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  2. あなたを輝かせる学校(尾崎八郎、月刊神戸っ子 2012年4月号)
  3. 130年以上にわたって発展してきたランバスファミリー校 - 啓明学院
  4. パルモア学院 - キリスト教学校教育同盟
  5. 大学予科が新制高校になった例は、他に慶応義塾高等学校早稲田大学高等学院などがある。
  6. 130年以上にわたって発展してきたランバスファミリー校 - 啓明学院
  7. パルモア学院 - キリスト教学校教育同盟
  8. W・R・ランバスは、関西学院を作る前に神戸市中央区の兵庫県庁の近くにある神戸栄光教会の牧師となった。
  9. 街道をゆく25 閩のみち』(司馬遼太郎朝日新聞社 1985年刊)33頁
  10. 朝日新聞1988年11月18日朝刊2社に退陣報道、朝日新聞大阪版および神戸新聞1988年3月〜11月に一連の大学騒動報道
  11. ランバス姉妹校

関連文献

外部リンク

テンプレート:学校法人関西学院