成田空港管制塔占拠事件

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成田空港管制塔占拠事件
場所 日本の旗 日本 千葉県成田市古込
座標
標的 新東京国際空港管制塔
日付 1978年昭和53年)3月26日
1978年3月25日夜 – 1978年3月26日夕方 (日本標準時)
概要 新東京国際空港の管制塔を占拠し、管制機器をバールで破壊した。
攻撃手段 空港にある地下排水溝を使い空港管理棟へ移動し、そして管制塔へと突入し占拠した。
攻撃側人数 22人
兵器 火炎瓶
武器 バール
死亡者 1人(第四インターの活動家)
負傷者 多数
行方不明者 0人
他の被害者 新東京国際空港公団
損害 新東京国際空港の管制機能が不能に陥り、1978年3月30日開港が不可能となった。
新東京国際空港の開港が1978年5月20日に遅れた。
犯人 15名
容疑 和多田粂夫、前田道彦、佐藤一郎、原勲など
動機 新東京国際空港の開設を阻止するため。
関与者 三里塚芝山連合空港反対同盟
第四インターナショナル
共産主義者同盟 (戦旗荒派)
共産主義労働者党
防御者 警察庁
警視庁三井脩警備局参事官)
千葉県警察
福岡県警察など
対処 活動家168人を逮捕
新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法の制定
謝罪 なし
賠償 4384万円(利息を含めて計1億300万円)を賠償金として法務省に支払った。
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成田空港管制塔占拠事件の現場

成田空港管制塔占拠事件(なりたくうこうかんせいとうせんきょじけん)[1]とは、1978年昭和53年)3月26日に発生した、空港反対派農民を支援する極左暴力集団が集団的実力闘争を行い、開港間近の新東京国際空港(現:成田国際空港)に乱入して管制塔の機器等の破壊活動を行った事件である。この事件により、新東京国際空港の開港が約2か月遅れ、同年5月20日となった。

事件の経緯

1976年福田赳夫内閣が成立。「内政の最重要課題として成田開港に取り組む」と表明し、1977年11月に開港予定日を1978年3月30日とした。

それに対して三里塚芝山連合空港反対同盟と支援グループは「開港絶対阻止」を掲げて、政府への対決姿勢を示した。支援グループのうちの新左翼党派である第四インター[2]は、「空港包囲・突入・占拠」による開港阻止の計画を固めるとともに「福田政府打倒」をスローガンに掲げ、「三里塚を闘う青年学生共闘」を結成。プロ青同[3]も「三里塚を闘う青年先鋒隊」、共産主義者同盟戦旗派(荒派)は「労共闘」を組織し、「1978年3月30日開港阻止」を企て、取り組みを強めていった。1977年5月6日の「岩山大鉄塔抜き打ち撤去」の抗議として空港旧第5ゲート周辺で空港反対派と機動隊が大規模に衝突した5月8日のいわゆる「5.8闘争[4]や、翌年2月の芝山町横堀(よこぼり)地区のB滑走路南端アプローチエリア予定地に航空妨害を目的に当時の金額で一億円をかけて建設した「横堀要塞」における篭城戦の前面に立っていく。

空港では内部への過激派侵入を防ぐため周囲を囲む高さ3mのネットフェンスと9カ所のゲートにより厳重に守られていたうえ、全国から動員した1万4千人の機動隊及び空港公団が配置した警備員による警備体制を敷かれた。第四インターの三里塚現地闘争団の指導的幹部の一人だった和多田粂夫は、機動隊の主力を空港敷地外の「要塞戦」などに分散させ、空港各所でのゲリラおよび大衆的な空港包囲・突入闘争と連動して地下排水溝から手薄になった空港敷地に潜入し、管理棟に附属する管制塔へと突入、これを占拠する作戦を立案する[5]。第四インターが立案したこの作戦に、共産主義者同盟戦旗派(荒派)共産主義労働者党は、呼びかけにこたえ、三派共同の行動として空港突入が準備された。この三派はヘルメットが共に赤色だったため、「赤ヘル三派」とも呼ばれた。

3月25日夜、「赤ヘル三派」から選抜された前田道彦を行動隊長とする22人編成[6]の行動隊は行動を開始し、ヘリコプター・監視塔からのサーチライトや機動隊の巡回や検問をかいくぐって敷地外のマンホールから空港内へ通ずる排水溝への侵入を図る。しかし、全員が入りきる前に機動隊に発見され、7人が排水溝に入れなかった[7]。警備側がマンホールの存在を知らなかったため、排水溝内は検められることはなく、排水溝侵入に成功した15人は空港内の地下で潜伏を続けた[8][9][10]

3月26日朝、行動隊長の前田は仲間らに「作戦決行」を告げる[8]。同午前9時半、成田空港開港にともない移転廃校となり解体が進められていた旧・芝山町立菱田小学校にて、「赤ヘル三派」や黄色いヘルメットの部落解放同盟の青年部隊約1000人等を中心とする「開港阻止決戦・空港包囲大行動 総決起集会」が4000人の参加で開催された(三里塚「廃港」要求宣言の会、三里塚闘争に連帯する会、三月開港阻止労働者現地行動調整委員会の三者共催)。同日正午から三里塚芝山連合空港反対同盟主催の集会が三里塚第一公園で予定されていたことから、「分裂集会」という批判も他の新左翼党派などから寄せられたが、反対同盟幹部(代表の戸村一作、行動隊長の熱田一、婦人行動隊長の長谷川たけ、同副隊長の小川むつ)や、部落解放同盟中央統制委員長の米田富などは批判を無視して、この「空港突入総決起集会」で発言する[11]。また、沖縄で石油備蓄基地=CTS建設反対運動を行っていた「金武湾を守る会」も登壇して連帯の挨拶を行った[11]

またこれとは別に、前日から再び「横堀要塞」に立て篭もって[12]、機動隊との攻防を開始する部隊もあった。

管制塔占拠

正午、菱田小学校跡地を出た「開港阻止決戦・空港包囲大行動 総決起集会」参加集団は3集団に別れる。「三里塚闘争に連帯する会」は横堀要塞近くの横堀街道を目指して北上し、「三月開港阻止労働者現地行動調整委員会」は第5ゲート方向(現・芝山千代田駅付近)に西進した。党派を中心とした部隊(第8ゲート部隊)は東側に10キロメートルほど迂回して横堀に配置されている機動隊を回避して後、西進して第8ゲート(現在の第2ターミナル駐車場付近)から空港への突入を目指すルートをとった[11]

「横堀要塞」周辺は千葉県警察機動隊など、反対同盟主催の決起集会会場となっている三里塚第一公園に近い空港西側は警視庁機動隊などが警備にあたり、管制塔周辺などの空港中枢部は、九州管区動員の福岡県警察などが警備にあたっていた。

午後1時前には横堀要塞近くで旧菱田小を北上したデモ隊が火炎瓶などで機動隊と衝突、同じ頃に、旧菱田小を西進した部隊によって空港東側の航空保安協会研修センターや空港第5ゲートなども攻撃された。

東峰十字路周辺では県道を封鎖するようにトラックを放置し、これに放火した。

直後に集会から出撃した部隊とは別働の陽動部隊(第9ゲート部隊)が、火炎瓶と廃油入りのドラム缶を積載したトラック2台に分乗し、パトカーを火炎瓶などで追い立てるかたちで空港の北から南下した。トラックはパトカーに乗っていた警官からの拳銃射撃を受けつつも、第9ゲート(現・第2ゲート付近)に逃げ込んだパトカーに続いて空港内へ突入した。活動家が荷台から火炎瓶を投げつつトラックは更に門扉を破壊して管制塔のある管理棟ビル敷地に突っ込んでいったが、搭載していたドラム缶から漏れていた油に引火し、炎上した荷台に乗っていた活動家が巻き込まれた[13]

第8ゲート部隊も同時刻に突入予定であったが、ヘリコプターの追尾をかわしながら10キロメートルを移動する中で遅れ、このタイミングには間に合わなかった[14]

一方、午後1時5分頃(予定では1時ちょうどに行動を開始するはずだったが、マンホールのふたを開けるのに手間取った)、地下の赤ヘル部隊が京成成田空港駅(この時点では開業前。現・東成田駅)近くのマンホールから空港内道路に這い出した。直後、付近にいた数人の制服警官が赤ヘル部隊を発見する。警官は「(空港構内から)出ろ!出ろ!」と、赤ヘル部隊に拳銃を向けて威嚇したものの、赤ヘル部隊は対峙を続け全員が這い出る時間を稼いだ。その間、警官の後方に9ゲートから突入したトラックへの対処に向かう機動隊の部隊が現れたが、赤ヘル部隊が声を上げずにその存在を警官に気づかせなかったため、警官は応援を呼ぶことができなかった。機動隊の1人が赤ヘル部隊を見咎めて戸惑うそぶりを見せたものの、部隊はそのまま走りさってしまった[14]

最後の1人がマンホールから出てきたところで前田が叫び、赤ヘル部隊は管制塔に向かって走りだした。ここで警官は赤ヘル部隊の意図に気づき、「止まれ、止まらんと撃つぞ」と叫びながら追いかけたが、発砲は1発もなかった。赤ヘル部隊は威嚇をしながら警官らの追跡を逃れ、管理棟敷地内に駆け込むと金網の扉を閉めてそこに火炎瓶を投げつけ、追いかけてくる警官を阻んだ[14]

同じ頃、管理棟玄関前は、第9ゲート部隊のトラックの炎上と消火作業・逮捕活動によって混乱していた。行動隊はその隙をついて、焼け焦げて横たわる第9ゲート部隊の活動家を横目に見ながら、消火活動の為にシャッターが開けられた玄関から管理棟へ侵入した。そこへ襲撃の様子を取材するために新聞記者が上から降りてきたためにエレベーターの扉が開いた。行動隊5人が殿となり管制塔1階で警官・機動隊と対峙して時間を稼ぐ中、残る10人が2回に分けてエレベーターに乗り込み、途中でエレベーターを乗り継いで上層階へ向かった後、管制室につながる階段にまでたどり着いた[14][15][16]。10人全員がエレベーターで上昇したのを見届けた殿の5人は、警察に制圧された[14]。この時、警官1人が火炎瓶で火傷を負っている。

管制塔15階へ登る階段の途中には施錠された鉄製の扉があり、行動隊はそこで阻まれた。更にその中で勤務していた航空管制官5人が椅子や机でバリケードを築いたため、行動隊は「開けろ」「卑怯者」と叫んだが扉をこじ開ける事が出来なかった[14][17]。階下から機動隊が登ってくると、行動隊は火炎瓶や手近にあった塗料が入ったバケツを下に向かって投げつけて防いだ[18]。管制室には火災の煙が充満し、消火栓を開いても水がほとんど出てこなかったため消し止めることができず、中に居た管制官は非常用ハッチで屋上への脱出を余儀なくされた[17]

午後1時20分、行動隊は14階マイクロ通信室の機器を破壊し、ベランダを占拠して赤旗を垂らすなどしたのち、そこから上に伸びるパラボラアンテナの鉄骨を見つけて6人がよじ登り、16階のテラスにたどり着いた。同じ頃、第8ゲート部隊が横堀要塞北側の松翁交差点で要塞包囲の千葉県警察機動隊と衝突した[14][17]

午後1時42分、管制室の窓ガラスをバールで破壊してそこから管制官と入れ替わるようにして室内に侵入した[14][17]。なお、機動隊員7人が行動隊よりも先にテラスにいたが、反対側にいたため14階と16階で入れ違いになってそのまま降りてしまい、侵入を防ぐことができなかった[17][15]。管制塔の占拠に成功した行動隊は管制室内のあらゆる管制用機器を破壊した。このため航空交通管制飛行計画を送る無線設備などが作動不能となり、開港予定日までには到底修復しえない状態となった[17]。更に、備え付けの電話から破壊行為をやめるよう懇願する空港関係者を揶揄ったり、管制室にあった書類を割れた窓から外にばら撒く、報道ヘリにVサインを見せつける、管制塔の窓に鎌と槌マークや党名・スローガンを描く、破壊した機材や机・冷蔵庫をバリケードとして階段通路に投げ込むなどした[14]

その間に管制官らは、管制塔上空に駆けつけた警視庁のヘリコプターから垂らしたハーネスで吊り上げられて管制塔屋上から脱出したが、行動隊は人質を捕る事を厳しく禁じられていたため、これを見逃した。なお、屋上に逃れた管制官らは、行動隊が登ってこられないよう、梯子を引き揚げたうえベルトでハッチを固定していた[17]

第9ゲート突入と管理棟ビル敷地内でのトラック炎上、続く行動隊の管制室占拠により、管理棟に隣接する新東京国際空港警察署内にあった警備本部が算を乱して避難してしまったうえ[9]、反対派が妨害電波に乗せてピンク・レディーの曲を流したために、警察無線が使えなくなり、警備側の指揮系統は極度の混乱に陥った。

午後1時40分頃、第8ゲート部隊も松翁交差点から機動隊宿舎の横を抜けてゲートまで到着した。機動隊との数度の衝突の後に、第8ゲート部隊は先頭に配置していたスクレイパーを装着した改造トラックでゲートを破壊・突破した。この部隊の本来の役割は管制塔占拠のための陽動であり、この時点で既に管制塔の占拠は成功していたが、指揮者からの「突入」の号令の下、第8ゲート部隊300人が空港の奥深くまで雪崩込んだ[9][14]。空港内の各所で火炎瓶が投げられ、これに対して機動隊の隊列に並んで空港署の制服警官が拳銃を構えて応戦する事態となり、脚に銃撃を受けた活動家もいる[14][15][19]

管理棟周辺での数十分の衝突ののち、反対派の大部隊の多くは第8ゲートから空港敷地外へ撤収した[14]。夕方になって、管制室の6人、14階の4人も逮捕された。管制室の行動隊員たちは、窓を割り催涙ガスを打ち込んで管制室に突入してきた機動隊員を前に、全員で腕組みをし、革命歌『インターナショナル』を合唱しながら逮捕された[14][20]。逮捕された行動隊は、午後3時45分に機動隊に囲まれて管理棟から連れ出され、待ち構えていた報道カメラに連行される姿を晒した[14][17]

最終的に逮捕者は、管制塔突入部隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」篭城部隊[21]、空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて計168人に及んだ。

第9ゲート部隊のトラックに乗っていた活動家の1人である山形大学生の新山幸男は、荷台炎上に巻き込まれて自らの服に引火して、大やけどを負ったまま逮捕されたが、同年6月13日に死亡する[22]

また、三里塚第一公園では正午から三里塚芝山連合空港反対同盟主催の集会が開催され、12,000人が結集していた[14]。2時過ぎには集会を打ち切り、集会参加者は機動隊などの規制を受けぬままデモ行進に出発する。反対同盟青年行動隊の一部が、この集会に参加していた中核派などの新左翼党派に空港に突入するよう要請したが聞き入れられず[14]、全体のデモ隊は空港の南北にわかれて空港フェンス沿いの枯れ草を放火しながら移動した。管制塔占拠の報を受けて興奮した一部は集会を抜け出して現地に向かい、空港内で機動隊と衝突して引き上げてきた部隊を出迎えた[14]

余波

内閣総理大臣福田赳夫はこの事態を「残念至極」と語り、3月28日の新東京国際空港関係閣僚会議3月30日開港の延期が正式決定された。運輸大臣福永健司が発表すると同時に、運輸省が新空港開港延期に関わるノータムを全世界の航空関係機関に発出した。

加藤武徳国家公安委員長は「残念の一言に尽きます」、川上紀一千葉県知事は「政治生命をかけていたのに…」、運輸省航空局長は「こんなショックなことは長い役人史上ありません」と、それぞれ悲痛な思いを語った[23]

事件によって、空港建設で調達した負債による利息だけで1日4000万円を負担していた空港公団だけでなく、航空関係の事業者や空港周辺に展開するホテル群は多大な被害を被ることとなった。空港公団の用地交渉に応じて移転に際して離農した元農民らも第二の働き口として空港ターミナルビルテナントとして入居した店舗の営業や警備業等の空港関連事業に転職した者が多く、成田空港開港の延期にその出鼻をくじかれた形となった。成田空港転業対策協議会事務局長は「やっぱり5月開港に持ち越されるんですか。1日過ごす度、ノド元をグッグッと締め付けられる思いなのに」とコメントしている[24]

日本国政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を制定したほか、国会においても「新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法」(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)が議員立法により成立した。

日本社会党多賀谷真稔書記長は「成田空港の管制塔に過激派が不法侵入したことは遺憾である。しかしその責任は、住民の納得が得られないにもかかわらず、開港を強行しようとする政府側にある」と述べた[23]

闘争初期に反対同盟と対立して絶縁関係となっている日本共産党は、「ニセ『左翼』集散の暴力的妄動を、わが党は強く糾弾する。これはニセ『左翼』暴力集団泳がせ政策をとり、彼らに甘い態度をとってきた当局者の対応と決して無関係ではない」との書記局次長談話を発表し[23]、「団結小屋の全面撤去と"トロツキスト暴力集団"の徹底取締り」を要求した。共産党の機関紙『しんぶん赤旗』では、推理小説家小林久三が「ほとんど、なすがままに暴力集団の侵入を許した警察の動きはなんだったのか」と思わせぶりなコメントを寄せた。

三里塚闘争から追放されていた革マル派[25]は「福田を追い落とすために仕組まれた自民党内部の抗争を反映した警察の不作為の作為による陰謀事件」と機関紙『解放』で論評した。

当時革マル派との「内ゲバ戦争」を優先して、「集団戦」ではなく主に空港施設へのゲリラを戦術にしていた中核派は、この管制塔占拠を当初は称賛するが、1980年代に入り三里塚闘争の方針をめぐって第四インターとの対立を深めると「"管制塔占拠"は機動隊に追われ逃げ込んだ先にたまたま管理棟があっただけの偶然の産物」と一転して否定的な評価を下すようになる。

事件当日は開港直前の施設[26]を取材するために来ていた多数のマスコミが現場におり、襲撃の様子は全世界に発信された。フランスの『フィガロ』紙は「空港反対の"戦争"」と報じ、イギリスの『ガーディアン』紙は「世界で最も血塗られたエアポート。こんな飛行場の開港を見届けたいと思っているのは福田内閣だけではないだろうか」と日本の事態を揶揄した[23]。トロツキストに否定的な立場のソ連国営放送も、反対派と機動隊の衝突フィルムを放映して「日本の全進歩勢力はナリタ空港建設に反対している」と配信した[23]。また、当時レバノンPLOキャンプを取材していたジャーナリストの広河隆一は、「管制塔占拠」の報を聞いたパレスチナのゲリラ戦士たちが、歓喜の声とともに空に祝砲を撃ったことを目撃している。もっともPLO日本事務所は1978年4月に「ナリタで起こっていることとパレスチナの問題はなんらの関連も共通点もない」とする声明を発表した。

事件のその後

5月20日の「出直し開港」の日にも、「滑走路人民占拠」をスローガンにした「赤ヘル三派」を中心に空港周辺の各所で空港反対派が機動隊と衝突したが侵入を阻止され、成田空港は開港した。反対同盟は「100日戦闘宣言」を発し、開港後もアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やして黒煙を上げるなどして、しばし航空ダイヤを乱す妨害活動を行った。

管制塔を占拠した15人と計画立案した和多田、共産同戦旗派の首謀者と認定された佐藤一郎は起訴され、全体計画の首謀者に認定された、和多田と行動隊リーダーの前田が航空危険罪などで10年以上の懲役刑をはじめ、全員が懲役の実刑判決を受け、刑務所で服役した後、刑期満了で全員が出所した。被告の1人である原勲は、1982年(昭和57年)4月に、拘禁反応からくるノイローゼの発作によって、釈放された数日後に自殺した。

また、1995年平成7年)に確定した空港公団(当時)による損害賠償請求に対して、元被告側は、確定判決を無視して支払いを拒否し続け、損害賠償請求額4384万円に対して利息が5916万円と、計1億300万円にまで膨らんでいった。時効直前の2005年(平成17年)より、給与差し押さえなどの形で強制執行が開始されると、元被告たちは再び結集し、支援者たちと7月から「1億円カンパ運動」を開始。インターネットウェブサイトを主な媒体にして、かつての活動家世代を中心に、11月までに延べ2千人から1億300万円のカンパ(ただし内訳は、カンパの半分強は16人を含めて関わった諸組織が呼びかけて集約したもの)を集め、11月11日法務省で完済した[27]

その他

  • 1968年昭和43年)2月26日に、成田市新東京国際空港公団分室の前で三派全学連と機動隊が衝突した際、玄関の前が騒然となっている中を三里塚芝山連合空港反対同盟の農民2人が「小便、小便」と言いながら警備員の制止を振り切って裏口から公団分室に侵入して、空港設計図を盗み取っていた。図面に記載されていた記号やローマ字をある大学の専門家に解読してもらい空港に通じる大排水溝・小排水溝を察知した2人は、「百姓が自分の育った土地が埋められていくのを、今生の別れだと思って見てんのに何が悪い」などととぼけて公団職員や警備員をかわしながら建設現場に通い詰めて図面通りに排水溝工事が進められているか確認し、管理棟・管制塔に続く地下道の存在を把握した[28]。農民がこの事を明かしたときに「管制塔占拠」のアイデアが生まれた。
  • 管制塔占拠事件の前日である、3月25日に行われた警察の作戦会議において、叩き上げのノンキャリアである中村安雄千葉県警察本部長は、現場のプロフェッショナルの判断として、新東京国際空港管制塔の主力警備を主張したが、警察庁警備局のキャリア官僚たちは『団結小屋の警備』を頑なに主張して譲歩しなかった。結局、中村本部長が「それは本庁のご命令でしょうか」と言って、口を閉ざしたという。その結果、警察は過激派の陽動作戦に引っ掛かった形で「横堀要塞」に精鋭部隊を割き、その穴を埋める形で、新東京国際空港空港敷地内の警備を、主に地方から召集された警察部隊が担うこととなり、そのことが過激派の空港敷地内への侵入を許し、管制塔の機器を破壊される要因の一つとなってしまった[29]
  • 管理棟1階で殿となった行動隊を逮捕する際火炎瓶の火で加療約14日間を要する火傷等を負ったが、判決では被告の火炎瓶投擲によるものと判断されたのに対し、被告は「床に置いた火炎瓶に警官が足を引っ掛けて炎上させた結果」「警官に丸太のようなもので突かれたことにより誤って落とした火炎瓶が炎上したところに当該警官が転倒して火傷を負った。(当該警官は)ドジとしか言いようがない」等と主張している[30]。なお『大義の春』にもその炎上の瞬間が記録されているが、火炎瓶自体が映っていないため、どちらの主張が正しいか確認できない。同シーンは映画『三里塚のイカロス』でも引用されているが、パンフレット57頁には「乗り込んだエレベーターから火炎瓶を投げつける赤ヘル部隊。ホールは火の海に。」と解説されている。
  • 当時37歳の和多田粂夫は、60年安保闘争以来の活動家で第四インターの現地闘争団キャップだった。和多田は事件後1年ほど潜伏していたが、別の被告が当事件の裁判を受けていた東京地方裁判所の傍聴席から、自ら名乗り出て逮捕された[31]。「首謀者」として、被告の中で最も重い12年の懲役刑(その前に東大紛争で執行猶予判決を受けていたため、合算され懲役15年)を府中刑務所で服役して、1992年平成4年)に出所した。
  • 前田道彦は当時26歳で、第四インターの花形活動家だった。16歳頃から街頭闘争に参加していた。空港反対同盟が協力し、学生インター(第四インターの青年組織・共産青年同盟の前身組織の一つ)が組織的にエキストラ出演した足尾鉱毒事件谷中村の闘いを描いた日本映画襤褸の旗』(1974年(昭和49年) 監督:吉村公三郎 主演:三國連太郎西田敏行)で、上京して窮状を訴えようとする農民を弾圧する警官役を演じた。1975年(昭和50年)に、第四インターが「ベトナム革命勝利連帯」を掲げて行った『外務省突入占拠闘争』でも、1年刑務所で服役している。刑務所出所後に出版社である桐原書店に勤務後「いいずな書店」の社長をしている。
  • この事件で死亡した新山幸男は、当時24歳で第四インター山形大班のキャップだった。活動家として組織内および周辺の学生には「山大のトロツキー」と呼ばれ、山形大で対立していた日本民主青年同盟(民青)には、「ゲバトロ新山」と怖れられていた。当時山形大学で多数派だった民青を制し、少数派だった第四インターの「学内ストライキ」を提起する議案が、学生多数に支持されて可決することもあった。新山は民青のメンバーを暴行したことがあり、組織内の批判に対して「論破してから殴ったのだから内ゲバにはあたらない」とうそぶき、開き直っていた。新山の死後、山形大学で活動を共にしていた、管制塔占拠事件の被告の1人である小泉恵司は、「新山の学内での暴力は誤りだった」と批判している。新山幸男は当初赤ヘル部隊のメンバーとして選抜されていたが、管制塔に持ち込むことになっていたガスカッターを背負って走ることができなかったため、小泉と交代した経緯がある[32]。なお、ガスカッターは重すぎたためマンホールからの港内突入前に放棄されることとなり、結局事件で使われることはなかった[8]
  • 1971年頃には、三里塚現地闘争に駆けつけた経験もある漫画家赤塚不二夫は、1978年当時週刊文春で連載していた『ギャグゲリラ』において、成田闘争をモチーフにして空港反対運動に好意的な作品を管制塔占拠事件の前後短期間に6本掲載している。また、作曲家の高橋悠治は、「管制塔占拠」をニュースでみて即興で『管制塔のうた』を作詞・作曲したという。この曲は、「関西三里塚闘争に連帯する会」が製作した「管制塔占拠闘争」の記録映画『大義の春』で使用され、映画中では中山千夏が歌っている(下記リンク参照)。
  • 事件のため、郵政省が空港開港日の3月30日に予定していた記念切手の発行を延期した。しかし成田郵便局では、初日カバー特印押印作業を進めていたことから、3月30日の日付印が問題になった。そのため、初日カバーの製作依頼者に代品の手配や実費の負担などによって所有権を移転したうえで、全部焼却処分にし、多額の損失を被った。結局切手は5月20日に発行されたが、成田郵便局は無事に新東京国際空港が開港したことを確認してから押印作業を始めた。
  • 第4インター・共青同やプロレタリア青年同盟青年先鋒隊は、ヘルメットのマークや文字を個人特定されないため、シールタイプを採用した(戦旗派は不明)。
  • 管制塔を占拠した赤ヘル三派のうち、プロ青同・戦旗派は、管制塔のデッキに自党派の旗を出しアピールすることができたが、第4インター・共青同は旗が無く、管制塔の窓ガラスに、自分達のシンボルである鎌と槌を描いた。反対同盟の旗も掲揚する予定であったが、排水溝に侵入する際に警察に発見されたことで持ち込むことができなかった[14]
  • 地下道のマンホールから過激派の侵入を許した本事件の教訓から、新東京国際空港周辺では、マンホールや排水溝の蓋に至るまで、内側から開けられない様に鉄板を溶接・ボルト締めする措置が講じられた。
  • 襲撃を主導した第四インターは、事件の裁判費用が圧し掛かったことに加えて、ABCD問題(集団レイプ事件)の発覚により組織が弱体化し、活動が停滞していった[33]
  • 横堀鉄塔の敷地に自殺した原勲の墓があり、毎年命日にはプロ青同のメンバーが集まる[34]
  • 事件現場となった管制塔16階は、航空管制官業務が1993年平成5年)に同じ敷地内に建設された新管制塔に移行してからは、公団職員(現・成田国際空港株式会社社員)が駐機場内の航空機の誘導を行うランプコントロール業務に用いられている。その旧管制塔も、2018年に新ランプタワーが完成した後に、解体・撤去される予定である[35]
  • 当時、日本の公安当局は久米裕らの失踪が北朝鮮による拉致との疑いを強めていたが、この事件を受けて政府が国内の過激派対策に注力したため、北朝鮮による日本人拉致問題への対処が後手に回ったとの主張がある[36]
  • 行動隊の襲撃で屋上に逃れその後も成田に勤務した管制官の1人は、屋上から落下する悪夢に何度もうなされたが、「事故を起こしたら反対運動が再燃する」と、事件での破壊行為に対してなすすべがなかった思いを胸に刻んで職務にあたった。当人は既に管制業務から引退しているが、占拠した活動家たちには「きちんと謝る努力をしてほしい」と考えている[37]。別の管制官の母親は事件2日後に心筋梗塞で倒れ、4年後に他界した。母の死を事件のショックによるものと考えたその管制官は犯人らに対する憤りを感じていたが、30年の年月を経て「彼らに怒りを持ち続けても意味はない」と整理をつけ、「あの時、勤務してきた人間にとって責任の一端がある」「償いの気持ちがあったからこそ、私は一生懸命仕事をしてきた。モチベーションを保てたのはあの事件のおかげかもしれない」と振り返っている[31]

脚注

  1. 成田空港反対派は「管制塔占拠闘争」や「3.26闘争」と称する。警察側では「成田空港管制塔乱入事件」と称する場合がある。
  2. 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)
  3. 共産主義労働者党の集団
  4. ノンセクトの支援者だった東山薫が機動隊のガス弾を頭部に受け死亡
  5. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]24頁。
  6. ベトナム戦争における1968年のテト攻勢の際、南ベトナムアメリカ合衆国大使館占拠事件を実行した南ベトナム解放民族戦線部隊の人数になぞらえたもの。
  7. うち1人がその場で逮捕、6人は逃れて翌日の第8ゲート突入部隊に参加して港内で逮捕される。(三里塚管制塔被告団 編著[1988年]141頁。)
  8. 8.0 8.1 8.2 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、13-16頁。
  9. 9.0 9.1 9.2 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、78頁
  10. 1978年4月6日付朝日新聞社会面。
  11. 11.0 11.1 11.2 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]101-102頁。
  12. 空港反対同盟幹部の石井武実行役員、北原鉱治事務局長、秋葉哲救援部長らも支援者とともに立て篭もった
  13. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]257-258頁。
  14. 14.00 14.01 14.02 14.03 14.04 14.05 14.06 14.07 14.08 14.09 14.10 14.11 14.12 14.13 14.14 14.15 14.16 14.17 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]106-138頁。
  15. 15.0 15.1 15.2 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、256-259頁
  16. 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、76頁
  17. 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、16-23頁。
  18. 映画『三里塚のイカロス』パンフレット、55頁
  19. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]141頁。
  20. 映画『三里塚のイカロス』パンフレット、58頁
  21. 28日にあらかじめ掘ったトンネルから脱出を図るが、掘削の方向を間違えて脱出に失敗し、反対同盟と支援者の41人全員が逮捕された。前日に反対同盟北原・石井および支援者7人が逮捕されている
  22. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]160頁。
  23. 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]145-147頁。
  24. 1978年4月4日付朝日新聞22面。
  25. 1970年1月に「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として反対同盟から排除されている
  26. コンピュータ処理によって音片を合成した搭乗案内予行演習の声が旅客ターミナルに響くなど、既に空港内部では開港ムードが漂い始めていた。
  27. 元被告たちは、このカンパ運動を「1億円叩きつけ行動」と称している
  28. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]91-92頁。
  29. 小林道雄『日本警察腐敗の構造』ちくま文庫 p107
  30. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]191頁。
  31. 31.0 31.1 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、27-29頁
  32. 三里塚管制塔被告団 編著[1988年]79-80、159-167頁。
  33. 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年、11頁。
  34. 朝山実 (2017年9月18日). “ドキュメンタリー監督、代島治彦さんに聞く(後編)”. 「ウラカタ伝」. . 2018閲覧.
  35. “成田空港の旧管制塔撤去へ 開港直前の1978年 過激派占拠事件があった”. 産経新聞 (産経新聞社). (2016年4月28日). http://www.sankei.com/affairs/news/160428/afr1604280005-n1.html . 2017閲覧. 
  36. INC., SANKEI DIGITAL. “【挿絵で振り返る『アキとカズ』】(38)「拉致」を吹っ飛ばした、成田空港「管制塔占拠事件」” (ja-JP). 産経ニュース. http://www.sankei.com/premium/news/141222/prm1412220003-n1.html . 2018閲覧. 
  37. “成田開港40年:日本の表玄関、守り続け 元管制官の誇り - 毎日新聞” (ja-JP). 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20180518/k00/00e/040/229000c . 2018閲覧. 

参考文献

  • 三里塚管制塔被告団 編著『管制塔ただいま、占拠中!被告たちの三里塚三・二六闘争』(柘植書房、1988年)ISBN 4-8068-0171-2

関連項目

外部リンク

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