「サッポー」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
13行目: 13行目:
 
| genre        = [[抒情詩]]
 
| genre        = [[抒情詩]]
 
}}
 
}}
'''サッポー'''([[古代ギリシア語]]アッティカ方言{{enlink|Attic Greek||a=on}}: {{lang|grc|'''Σαπφώ'''}} / {{lang|grc-Latn|Sapphō}}、[[紀元前7世紀]]末 – [[紀元前6世紀]]初)は、[[古代ギリシア]]の女性[[詩人]]である。
+
'''サッポー'''([[古代ギリシア語]]アッティカ方言{{enlink|Attic Greek||a=on}}: {{lang|grc|'''Σαπφώ'''}} / {{lang|grc-Latn|Sapphō}}、[[紀元前7世紀]]末 – [[紀元前6世紀]]初)
  
出身地[[レスボス島]]で用いられた[[アイオリス]]方言{{enlink|Aeolic Greek||a=on}}では'''プサッポー'''({{lang|grc|'''Ψάπφω'''}} / {{lang|grc-Latn|Psappho}})と呼ばれる。名は「'''サッフォー'''」({{lang-en-short|Sappho}})とも表記される。
+
 古代ギリシャの女性詩人。プサッポーPsapphōとも呼ばれる。レスボスの人。おそらくは貴族階級の出身。3人の兄弟がいて,長兄のカラクソスは,ヘロドトス(『歴史』巻2.135)にも言及され,エジプトの芸妓ロドピスと浮名を流したことで有名。レスボスのもう一人の代表的詩人アルカイオスとほぼ同時代人である。政治的な変革期にあったレスボスでアルカイオスが政治活動に深く関わっていたのに反して,サッポーでは政治に対する言及がほとんど見られない。しかし変革の波を避けることもできなかったようで,前604年と前598年との間のある時追放を受けてシチリアに行ったと伝えられている。詩人にはクレイスという名の娘がいたと伝えられている。
  
== 生涯 ==
+
 ヘレニズム期に9巻の詩集が編集され,その最後の巻は『祝婚歌集』Epithalamiaと呼ばれていたようであるが,確証があるわけではない。現在では2つの詩を除けば完全な詩は残っていない。しかしパピルス断片が多数発見され,彼女の詩について比較的多くを知ることができる。彼女は多様な韻律を駆使して,リュラ(竪琴(たてごと))に合わせて歌う単唱詩のジャンルの,アルカイオスと並ぶ完成者である。2人の詩が完成された形で登場するには,テルパンドロスに代表されるレスボスの文芸の伝統があったにちがいない。サッポーの詩は,アドニス祭の歌,あるいは『祝婚歌集』の歌のように,合唱詩として共同体の行事に用いられた場合を除き,ほかはほとんど詩人の個人的な感情の表現されたものである。しかも詩のテーマは,詩人の周りにいる少女たちをめぐる恋である。少女たちと詩人との関係は具体的なことはまったく不明である。詩人が未婚の娘たちのための一種の修養所を開いていたとする見方も古くからあるが,概して現在では認められていない。例えば断片31では,詩人の愛している少女が親しそうに一人の男と話している姿を見て,突然に激情にとらわれる。胸の鼓動は高まり,口はものも言えなくなり,体の中には焰(ほむら)が燃え,目も耳も感覚を失い,全身から汗が溢(あふ)れ,顔も蒼白(そうはく)となり,まるで死に臨む時のようになる経験を語っている。あるいは断片16では,アナクトリアという少女が詩人のもとを去っていったのを懐かしんで再度の出会いを祈っている。断片94では,親しかった少女との別れの場で2人のこれまでの親交を思い出として別れの悲しみを慰めようとする。アッティスという名の少女がサッポーのライバルである女性のもとに去ったのを恨めしげに歌う句も残っている。断片1では恋の苦しみをかつて救ってくれたアプロディテに呼びかけ,現在の恋人のつれなさのゆえに苦しむ心を救ってくれるようにと祈る。このような直接的な恋愛感情が若い女友達に向けられているので,すでにヘレニズム期において同性愛の詩的表現と見なされるようになったが,その実態は不明である。奔放な同性愛表現であるか,もっと異質なわれわれの知らない世界であるかは解釈の分かれるところである。パオンとの恋愛で詩人がレウカスの岬から身投げした話は単なる作り話であって,これもヘレニズム期においてすでに生まれていた。パオンはアドニスと同格の神格であって,アプロディテとアドニスとの関係が,サッポーの詩でしばしば言及されるアプロディテとサッポーの関係と結び付いたものであろう。
[[File:1877_Charles_Mengin_-_Sappho.jpg|thumb|left|alt=|『サッポー』(1877年)[[シャルル・メンギン]] (1853年-1933年)、ある伝統的な説では、サッポーはレウカディアンの崖から飛び降りて自殺したという{{sfn|Lidov|2002|pp=205–6|loc=n.7}}。]]
 
サッポーは生前から詩人として著名であり、[[シチリア|シケリア島]]の[[シュラクサイ]]に亡命の時期に彫像が立てられたという。また[[プラトン]]はサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目の[[ムーサ]]」とも呼んでいる。ムーサとはアポロンに仕える9柱の芸術の女神である。
 
 
 
歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、[[紀元前596年]]にシケリア島に亡命し、その後、[[レスボス島]]に戻ったということのみである。
 
サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。
 
 
 
「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッポーの詩に全く登場しない上、19世紀半ばに歴史学者の{{仮リンク|William Mure|en|William Mure (scholar)}}が、"Kerkylas of Andros" は "Penis of Man" を意味する古代ギリシア語とよく似た音になることを発見し指摘したため、この伝承は歴史的事実でなく、サッポーが同性愛と結びつけられることを踏まえた上での創作による民間伝説であると考えられている。
 
 
 
サッポーは、彼女によって選ばれた若い娘しか入れないある種の[[学校]]をレスボス島に作った。また、様々な女性に対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。サッポーの学校では、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育が行われたといわれるが、具体的な内容についてはよくわかっていない。サッポーの詩のうちの一部は、それら生徒のために書かれたものである。
 
 
 
同じレスボス島出身の詩人[[アルカイオス]]とは詩の交換などで交遊があった。サッポー自身はアルカイオスと異なり、詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。<ref>注 - サッポーの最後については、遡れば[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]](紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく[[喜劇詩人]]がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として[[誤読]]してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov,  "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。</ref>
 
 
 
==作風==
 
サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式は[[サッポー詩体]]として知られる。またその詩の内容は好んで[[恋愛]]を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに「[[アプロディテ]]への讃歌」がある。
 
 
 
==評価==
 
[[ファイル:Sappho-drawing.jpg|180px|thumb|サッポー<br />(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)]]
 
恋愛詩人としてのサッポーは[[古代ローマ]]時代にもよく知られ、[[オウィディウス]]は抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている。
 
 
 
その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。[[古代ローマ時代]]にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、[[キリスト教]]が興隆し、[[神学|キリスト教学]]が独善的な性格を強めてゆくに従い、サッポーの詩は「反聖書的である」とされた。そして、[[キリスト教]]の力がエジプトにまで及ぶに至って、サッポーの作品の多くが失われた。
 
 
 
当時、サッポーの詩はエジプトの[[アレクサンドリア図書館]]に所蔵されていた。これは、アレクサンドリアが学問の都市であっただけでなく、キリスト教信徒や[[東ローマ帝国]]皇帝が、無神論を含むギリシア哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害するようになると、ギリシアの学者たちはキリスト教の力の及びにくいエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためである。(390年には、[[東ローマ帝国]]皇帝[[テオドシウス1世]]によって、“同性愛の罪を犯した”とするゴート人のギリシア学者を捕らえるという名目の下、[[テッサロニカの虐殺]]{{enlink|Massacre of Thessalonica||a=on}}が起こる。)
 
しかし、そのエジプトにも[[キリスト教]]の力が及ぶようになり、415年には、アレクサンドリアで、ギリシア学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にされて吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという虐殺事件が起こった。さらに、エジプトを統括する司祭の指揮のもと、キリスト教徒は[[アレクサンドリア図書館]]をも破壊し蔵書を焼き払った。所蔵されていた大量の貴重なギリシア学問やヘレニズム学術の成果がすべて消失し、サッポーの詩もまた失われた。サッポーの一部の詩は、キリスト教徒の迫害を逃れて[[サーサーン朝]]ペルシアへ亡命した学者たちにより現在まで残っている。
 
 
 
前述のようにサッポーは非常に女性同性愛と結びつけられやすかったため、現代では、Sapphic (サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのに用いられる。また、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーが[[レスボス島]]出身であることに由来する。ちなみに、英語で「レスボス人」は"lesbian"と表記されるが、これは「レズビアン」の"lesbian"と同じつづりである。そのことから、同島の現代の一般名称は[[レスボス島|ミティリーニ島]]の名称に好んで替えられて呼ばれている。
 
 
 
== 日本語文献 ==
 
* 『サッフォー詩集』(原文のギリシア語と対訳の全詩集)[[八木橋正雄]](1980年:日本語初出)(八木橋正雄刊)
 
* 『サッフォー 詩と生涯』 [[沓掛良彦]] (1988年)([[平凡社]])(2006年[[水声社]]再刊)
 
* 『ギリシア・ローマ抒情詩選』 [[呉茂一]](1948年初版) ([[岩波文庫]])(抜粋かつ抄訳のみ)(2008年[[復刊ドットコム]]複刻)
 
* 『ギリシア・ローマ叙情詩選―花冠―』  [[呉茂一]](1991年初版) ([[岩波文庫]])
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{cite journal|last=Lidov|first=Joel|title=Sappho, Herodotus and the ''Hetaira''|journal=Classical Philology|year=2002|volume=97|issue=3|ref=harv}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[9歌唱詩人]]
 
* [[マルーシャ・チュラーイ]] - 「ウクライナのサッフォー」と呼ばれる17世紀の女性詩人
 
* [[エーゲ海の誘惑]] - 2008年のウクライナ映画。原題が「サッポー」({{lang-uk|''Сафо''}})
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Sappho}}
 
* {{青空文庫著作者|1713|サッフォ}}
 
* [http://homepage1.nifty.com/suzuri/anthology/jsappho.html サッポー日本語訳詩番号逆引き対照表]
 
* [http://classicpersuasion.org/pw/sappho/sape01.htm サッポー「アプロディテへの讃歌」のさまざまな英訳]
 
* [http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/image?lookup=1993.01.0373 ギリシアの壺絵におけるサッポーの描写]
 
 
 
{{Authority control}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:さつほ}}
 
{{DEFAULTSORT:さつほ}}
 
[[Category:サッポー|*]]
 
[[Category:サッポー|*]]

2018/10/6/ (土) 08:21時点における版


サッポー古代ギリシア語アッティカ方言 (en: Σαπφώ / Sapphō紀元前7世紀末 – 紀元前6世紀初)

 古代ギリシャの女性詩人。プサッポーPsapphōとも呼ばれる。レスボスの人。おそらくは貴族階級の出身。3人の兄弟がいて,長兄のカラクソスは,ヘロドトス(『歴史』巻2.135)にも言及され,エジプトの芸妓ロドピスと浮名を流したことで有名。レスボスのもう一人の代表的詩人アルカイオスとほぼ同時代人である。政治的な変革期にあったレスボスでアルカイオスが政治活動に深く関わっていたのに反して,サッポーでは政治に対する言及がほとんど見られない。しかし変革の波を避けることもできなかったようで,前604年と前598年との間のある時追放を受けてシチリアに行ったと伝えられている。詩人にはクレイスという名の娘がいたと伝えられている。

 ヘレニズム期に9巻の詩集が編集され,その最後の巻は『祝婚歌集』Epithalamiaと呼ばれていたようであるが,確証があるわけではない。現在では2つの詩を除けば完全な詩は残っていない。しかしパピルス断片が多数発見され,彼女の詩について比較的多くを知ることができる。彼女は多様な韻律を駆使して,リュラ(竪琴(たてごと))に合わせて歌う単唱詩のジャンルの,アルカイオスと並ぶ完成者である。2人の詩が完成された形で登場するには,テルパンドロスに代表されるレスボスの文芸の伝統があったにちがいない。サッポーの詩は,アドニス祭の歌,あるいは『祝婚歌集』の歌のように,合唱詩として共同体の行事に用いられた場合を除き,ほかはほとんど詩人の個人的な感情の表現されたものである。しかも詩のテーマは,詩人の周りにいる少女たちをめぐる恋である。少女たちと詩人との関係は具体的なことはまったく不明である。詩人が未婚の娘たちのための一種の修養所を開いていたとする見方も古くからあるが,概して現在では認められていない。例えば断片31では,詩人の愛している少女が親しそうに一人の男と話している姿を見て,突然に激情にとらわれる。胸の鼓動は高まり,口はものも言えなくなり,体の中には焰(ほむら)が燃え,目も耳も感覚を失い,全身から汗が溢(あふ)れ,顔も蒼白(そうはく)となり,まるで死に臨む時のようになる経験を語っている。あるいは断片16では,アナクトリアという少女が詩人のもとを去っていったのを懐かしんで再度の出会いを祈っている。断片94では,親しかった少女との別れの場で2人のこれまでの親交を思い出として別れの悲しみを慰めようとする。アッティスという名の少女がサッポーのライバルである女性のもとに去ったのを恨めしげに歌う句も残っている。断片1では恋の苦しみをかつて救ってくれたアプロディテに呼びかけ,現在の恋人のつれなさのゆえに苦しむ心を救ってくれるようにと祈る。このような直接的な恋愛感情が若い女友達に向けられているので,すでにヘレニズム期において同性愛の詩的表現と見なされるようになったが,その実態は不明である。奔放な同性愛表現であるか,もっと異質なわれわれの知らない世界であるかは解釈の分かれるところである。パオンとの恋愛で詩人がレウカスの岬から身投げした話は単なる作り話であって,これもヘレニズム期においてすでに生まれていた。パオンはアドニスと同格の神格であって,アプロディテとアドニスとの関係が,サッポーの詩でしばしば言及されるアプロディテとサッポーの関係と結び付いたものであろう。



楽天市場検索: