「サンボ (格闘技)」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(IOCとスポーツサンボ)
 
(1版 をインポートしました)
 
(相違点なし)

2018/10/11/ (木) 07:32時点における最新版

ファイル:C0381-Kstovo-SAMBO-Academy-.jpg
クストヴォにある世界サンボアカデミー

サンボ: самбо)は、ソビエト連邦で開発された格闘技。ソビエト連邦においては軍隊格闘術としても発展。

Самбоはロシア語で、самооборона без оружияsamooborona bez oruzhiya、「武器を持たない自己防衛」の意)の省略であると言われている。つまり、広義では護身術のことである[1]

狭義では一般に知られているスポーツ格闘技であるスポーツサンボのことを指して、この意で使われることが最も多い。

ソビエト連邦内務省赤軍で徒手軍隊格闘術として採用されていた護身術としてのサンボを、バエヴォエサンボ: Боевое самбо)と言い日本ではコマンドサンボ、英語圏、イタリアではコンバットサンボKombat sambo)と呼称される。今日では、こちらも打撃を追加した総合格闘技としてのスポーツ化とロシア連邦軍の軍隊格闘術としての分化が進んでいる。

サンボの歴史

サンボの創始者の1人として、帝政時代のロシアにおいて、サハリンから神学生として日本に渡り、講道館にて嘉納治五郎のもとで柔道を学んだワシリー・オシェプコフが挙げられている[2]。 彼は1930年代にソ連各地で柔道の普及活動を行なったが、1937年、スターリン大粛清の対象となり、「日本のスパイ[3]という嫌疑をかけられ投獄、獄中で病死する[4]

サンボという名称は、もう1人のサンボの創始者である、帝政ロシア軍人であったビクトル・スピリドノフがボクシング柔術をもとに独学で編み出した格闘技「Cамооборона без оружия(「武器を持たない自己防衛)」に由来する。1930年代に体系化し、サンボという名称が名づけられる。この格闘技は第一次世界大戦後、白兵戦の重要性に気づいたソ連赤軍に軍隊格闘術として採用され、後の「バエヴォエサンボ(Боевое самбо)」につながっていく。スピリドノフの理論的な「サンボ」とオシェプコフの実践的な「柔道」は当時対立関係にあった。

1938年に、スポーツトレーナーの全国会合において、オシェプコフの弟子アナトリー・アルカディエビッチ・ハルランピエフが「ソ連式フリースタイルレスリング」の創設を発表する。ハルラムピエフは会合で、「ソ連式フリースタイルレスリング」はグルジアやタタール、カザフスタンウズベキスタントルクメニスタンなどソ連各地の民族レスリングに基づいた新しい格闘技だと主張したが、その実はオシェプコフの柔道であった。人工的国家であったソ連には、民族統合の象徴となるスポーツが必要であったのである。そして同年11月16日、全ソ体育スポーツ委員会は「フリースタイルレスリング(борьбы вольного стиля)」を認可し、ソ連全土での普及活動が認められる。この日がロシアでは国技としてのサンボ誕生日ともみなされている。第二次世界大戦後、1947年「サンボ」と改称され、これがスポーツサンボとして定着することになる。

スポーツサンボの特徴

  • 当身技を利用することはできない。
  • 投げ、関節技による一本か、一本に至らない投げ、抑え込み等のポイントを競う。
  • 上半身は青か赤のサンボジャケットと帯、下半身はジャケットと同系統色の短パンあるいはスパッツで、サンボシューズ(またはレスリングシューズ)を履く。
  • サンボジャケットは柔道着に似るが肩の部分に掴みやすいよう返しがあり、帯がはだけにくいよう帯をジャケットに固定する穴がついている。
  • 空手や柔道のような帯の色で段位を表すようなことはない。
  • レスリングマットと同じ円形のマット場で競技を行う。
  • 歴史的な関わりから柔道との比較で語られることが多いが、投げ技においても寝技においても、一般的な柔道とは違った試合展開・テクニックが多くある。

スポーツサンボのルール(国際サンボルール)

階級(男子の部)

  • ジュニア(17 - 18歳)52, 57, 62, 68, 74, 82, 90, 100, +100kg
  • シニアー(19歳以上) 52, 57, 62, 68, 74, 82, 90, 100, +100kg
自己の体重の一階級上の階級に出場することができる。
  • 審判の構成
    • 総ての競技会において、それぞれの試合の審判チームを次のように構成する。
    • チェアマン:1名 レフェリー:1名 ジャッジ:1名

勝敗判定・ポイント

  • 一本勝
    • 自分の態勢を崩さずに相手をきれいに投げたとき
    • 相手の腕、または足の関節等を取ったとき

以上の場合は「一本」となり試合は終了する。また、試合中に両者に12ポイント以上差が開いたときは、一本と同じ扱いとする。なお、試合時間内に一本がなかったときは試合中にかけた技の得点が多いものが判定勝ちとなる。

  • 1ポイント
    • 相手にしりもちをつかせたとき
    • 投げにより相手がマットに対し、90度以内に倒れたとき
    • 相手が反則を犯したとき
  • 2ポイント
    • 相手が肩から落ち、そのまま背中をマットにローリングさせる
    • 相手がしりもちをつき、その反動で背中をマットにローリングする
    • 寝技から押さえ込みに入り、10秒間押さえたとき

押さえ込みは1試合1回限りで、それ以上押さえ込んでもポイントにならない。

  • 4ポイント
    • 相手をきれいに投げたときに自分の態勢が崩れる
    • 自分の態勢を崩さずに投げ、相手が横から落ちる
    • 投げたとき手をついたり、膝をつくこと、例えば巴投げ、横捨て身など
    • 押さえ込みで20秒間押さえたとき

押さえ込みは1試合1回限りで、それ以上押さえ込んでもポイントにならない。

その他・主な禁止事項

  • 絞め技は禁止(体幹~首を絞めることが禁止)。
  • 手首から先、足首から先をつかむことが禁止。
  • 肘・肩関節への関節技が認められるが、ハンマーロック、手首、立った状態での関節技は禁止。
  • 脚(股・膝・足首)への関節技(アキレス腱固め膝十字固め)が認められるが、膝関節やかかとを捻るような関節技(ヒールホールド足首固め)は禁止。
  • 蟹挟河津掛けが認められる。
  • ジャケットの掴みに制限が少ない(帯の結びから先、帯の結びの余り、そで口の内側以外どうつかんでもよい。つかんでいる時間の制限なし)。
  • 胴を絞めるポジション(胴絞め)は禁止。胸や脇腹をしっかり、相手の胸に密着していれば、抑え込みとして扱われる。

IOCとスポーツサンボ

サンボは、国際的な普及にむけて、1967年にリガで最初の国際大会、1972年にはリガで最初のヨーロッパ選手権、そして1973年にはテヘランで最初の世界選手権が開催する。

1968年サンボは国際レスリング連盟(現・世界レスリング連合)に統括されるが、1980年モスクワオリンピックの際にレスリング内の正式種目としての採用をアピールしたものの政治的理由により[5]、実現には至らなかった。一時、IOC承認競技であったが、そののち、IOCの承認は取り消されている。また、IOC後援ワールドゲームズの公式競技であったが1989年の大会を最後に実施されていない。IOC公認団体スポーツアコードにはFIASがいまだ加盟している。

アジアオリンピック評議会(OAC)が主催するアジア競技大会では、ジャカルタ・パレンバン大会より正式種目に採用された。

日本での歴史

1963年9月、当時日本レスリング協会の会長であった八田一朗は「ソ連のレスリングの強さの秘密はサンボにある」と、レスリングのトレーニングにサンボの導入を試み、ソ連レスリング選手団と共に4名のサンビストを招請した。当時、日本国民はサンボに関する知識をまったく持っていなかったが、4名のサンビストは前橋市神戸市横浜市東京都など各地で柔道選手と柔道の交流試合をおこなった。

1965年1月、日本サンボ連盟は国内最初の大会「東日本サンボ選手権大会」を東京・代々木体育館で開催し、数多くのレスリング選手と柔道選手が参加した大会であった。またこの大会は猪狩則男(当時日本レスリング協会理事長)の尽力によってテレビ放映され、「サンボ」の名は広まりを見せる。さらに同年8月、「第1回全日本サンボ選手権大会」が岩手県盛岡市で開催された。

1965年9月に八田はサンボ競技を日本に根づかせようと日本サンボ連盟を設立し会長に就任。常務理事に就任した古賀正一(ビクトル古賀)をソ連に派遣した。古賀は自らサンボ修行に励む傍ら日本とソ連の交流パイプを構築し、サンボの普及に取り組んだ。

日本レスリング協会主導型であった当時の日本サンボ連盟は、全日本柔道連盟講道館との連携に難航しながらも、毎年全日本サンボ選手権を開催し、ソ連に選手を派遣していたが、有力な柔道選手やレスリング選手の参加が求められるところであった。そこで,日本サンボ連盟は抜本的な改革に着手した。日本サンボ連盟の笹原正三理事長と古賀正一常務理事、東京オリンピック柔道金メダリストの猪熊功との間で「日本におけるサンボ競技」について会談が持たれ、続いて柔道連盟の要職にあった渡辺利一郎八段との会合がおこなわれた。その結果、国際柔道連盟会長の松前重義を会長に迎え、最高顧問に八田一朗が就任した。

この体制刷新で柔道の有力選手の派遣が可能となり、1970年の全ソ連サンボ選手権に岩釣兼生が優勝、1971年のヨーロッパサンボ選手権で佐藤宣践が優勝するなどの効果が現れた。だがその直後に国際サンボ連盟が設立され、1972年にイギリスマンチェスターで第1回FILA世界サンボ選手権が開催された。この大会に68㎏級で出場した古賀正一がソ連選手を寄せ付けない圧倒的な優勝をおさめ、日本サンボ界に光明を与えた。

日本サンボ連盟では体調を崩した松前重義が会長を退き,八田一朗が後任となる。以後、八田は没するまで在職した。その後、ベースボールマガジン社の創設者である池田恒雄、世界サンボ連盟名誉会長の堀米泰文井柳学らが会長の任にあたった。1988年5月には東京・代々木第1体育館で日本ではじめての国際大会であるサンボワールドカップが、1996年11月には東京・代々木第1体育館で世界サンボ選手権がそれぞれ開催された。

国内大会では全日本サンボ選手権(シニア・ジュニア・カデット・マスターズ)・東日本サンボ選手権・全日本団体サンボ選手権・愛知県オープン大会・青森県オープン大会・近畿オープン大会などが毎年全国各地で開催されている。サンボを指導する道場やクラブチームの新設に伴う技術講習会なども実施されている。

2012年1月、日本サンボ連盟は一般社団法人格を取得した。会長に近藤正明が就任し、日本レスリング協会会長の福田富昭と全日本学生柔道連盟副会長佐藤宣践を特別顧問に迎えている。

2013年2月2日、埼玉県上尾市・埼玉県立武道館において、サンボが公開競技として実施される7月の第27回ユニバーシアード日本代表選手選考を兼ねたプーチン大統領杯サンボ選手権大会が開催され、男子4階級・女子3階級の代表選手が選出された。

国際大会・世界選手権での日本代表選手の軌跡

国際大会入賞者
世界選手権入賞者
  • 星野政幸、田上高、横倉安雄、斎藤喜作、藤井寿一、松永義雄、名和孝徳、花房洋一、藤春孝志、西 均、広瀬聡、射手矢味先、山田茂明、坂井武彦、大河内信之、寺町良次、野沢和巳、新崎喜則、岩佐修、深井英吾、久木留毅、竹内徹、小林左右長、伊田忠富、木下英規、小林伸郎、佐々木豊、五木田勝、松本秀彦藤井惠、塩田さやか、武田美智子しなしさとこ

代表的な日本のサンビスト

参考文書

  • 和良コウイチ『ロシアとサンボ -国家権力に魅入られた格闘技秘史』(2010年6月、晋遊舎) ISBN 978-4863911345.
  • 監修ビクトル古賀 技術協力佐山聡『増強版これがサンボだ!』(1998年9月,ベースボールマガジン社)ISBN 4-583-02564-5.

脚注

  1. Samboには黒人への蔑称の意があるためアメリカではSomboと表記することもある。
  2. http://www.j-sambo.jp/renmeikankei/sambosetumei1.rekishi.htm
  3. オシェプコフはロシア革命当時、ウラジオストックにてボルシェビキのスパイとして、日本へのスパイ活動を行っていた。
  4. オシェプコフの死後、仮想敵国である日本由来の柔道はタブーとされた。
  5. 和良p.199

外部リンク