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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 前田利家
 
| 画像 =Maeda Toshiie.jpg
 
| 画像サイズ =250px
 
| 画像説明 = 紙本著色 前田利家像 個人蔵<ref group="注釈">15,6点から20点ほど確認されている前田利家画像の中でも、古くからよく知られた肖像画。中世より加賀の海に関わる[[豪商]]で、江戸時代に[[宮腰]]町々[[町年寄]]を務めた中山家に伝来。同家は、天正11年(1583年)における利家の金沢入国時に先導をしたとされ、本図もこの時賜ったと伝えられる(村上尚子「前田利家画像に関する基礎的調査」『[[石川県立美術館]]紀要』第19号、2009年4月30日、pp.12-13。なお同論文は、利家画像を網羅的に掲載・解説している)。</ref>
 
| 時代 =[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
 
| 生誕 =[[天文 (日本)|天文]]7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1539年]][[1月15日]])<br />※天文5年(1536年)、天文6年(1537年)説もあり
 
| 死没 =[[慶長]]4年[[閏]][[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1599年]][[4月27日]])
 
| 改名 =犬千代(幼名)、利家
 
| 別名 =[[仮名 (通称)|通称]]:又左衞門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将、加賀大納言<br/>渾名:槍の又左衞門、槍の又左
 
| 戒名 =高徳院殿桃雲浄見大居士
 
| 墓所 =[[野田山#前田家墓所|野田山墓地]]、[[宝円寺]]
 
| 官位 =[[従四位|従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]兼[[筑前国|筑前守]]、右近衛権中将、[[正四位|正四位下]]・[[参議]]、[[従三位]]・[[中納言|権中納言]]、[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]。贈[[従一位]]
 
| 主君 =[[織田信長]]→[[織田秀信|秀信]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]
 
| 氏族 =[[前田氏#加賀藩主前田家|前田氏]](称[[菅原氏|菅原姓]])
 
| 父母 =父:[[前田利春|前田利昌]]、母:[[長齢院]]([[竹野氏]])
 
| 兄弟 =[[前田利久|利久]]、[[前田利玄|利玄]]、[[前田安勝|安勝]]、'''前田利家'''、[[佐脇良之]]、[[前田秀継|秀継]]
 
| 妻  =正室:'''[[芳春院|まつ]]'''([[篠原一計]]娘)<br/>側室:[[寿福院]]、[[隆興院]]、[[金晴院]]、[[明運院]]、[[逞正院]]
 
| 子  ='''[[前田利長|利長]]'''、[[前田利政|利政]]、[[前田知好|知好]]、[[前田利常|利常]]、[[前田利孝|利孝]]、[[前田利貞|利貞]]、[[春桂院|幸]]([[前田長種]]室)、[[蕭姫|蕭]] ([[中川光重]]室)、[[摩阿姫|摩阿]]([[豊臣秀吉]]側室→[[万里小路充房]]側室)、[[豪姫|豪]]([[宇喜多秀家]]室)、[[与免]]([[浅野幸長]]と婚約)、[[春香院|千世]]([[細川忠隆]]正室→[[村井長次]]室)、[[前田菊姫|菊]]、[[保智姫|保智]]([[武田信吉]]と婚約)、[[福姫|福]]、[[#一族縁者|他]]
 
}}
 
'''前田 利家'''(まえだ としいえ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[戦国大名]]。[[加賀藩]]主[[前田氏#加賀藩主前田家|前田氏]]の祖。[[豊臣政権]]の[[五大老]]の一人。
 
  
== 略歴 ==
+
'''前田 利家'''(まえだ としいえ)
[[尾張国]][[海東郡]]荒子村(現・[[名古屋市]][[中川区]]荒子)の荒子城主[[前田利春]]の四男。はじめ[[小姓]]として14歳のころに[[織田信長]]に仕え、青年時代は[[赤母衣衆]]として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後[[柴田勝家]]の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、[[能登国|能登]]一国23万石を拝領し[[大名]]となる。
 
 
 
信長が[[本能寺の変]]により[[明智光秀]]に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、[[加賀国]]・[[越中国]]を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、[[豊臣秀頼]]の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する[[武断派]]と[[文治派]]の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する[[徳川家康]]の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。
 
 
 
== 生涯 ==
 
{{複数の問題|ソートキー=人1599年没
 
|section = 1
 
| 出典の明記 = 2013年3月
 
| 独自研究 = 2013年3月
 
}}
 
 
 
=== 仕官・小姓時代 ===
 
[[画像:前田利家誕生碑.jpg|thumb|200px|前田利家誕生碑(名古屋市中川区荒子)]]
 
[[天文 (元号)|天文]]7年12月([[1539年]]1月)、[[尾張国]][[海東郡]]荒子村(現・名古屋市中川区荒子)において、その地を支配していた[[土豪]]・[[前田氏#尾張荒子前田家|荒子前田家]]の当主である[[前田利春]](利昌とも)の四男として生まれる。幼名は'''犬千代'''。荒子前田家は[[藤原北家|利仁流藤原氏]]の一族とも[[菅原氏]]の一族ともいわれるが確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。
 
 
 
生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年12月([[1539年]]1月)説が有力だったが、近年では、秀吉が没した時に利家が「[[耳塞ぎ餅]]」を行ったとする伝えをもとに秀吉と同年とする天文5年([[1536年]])を生年とする説{{Sfn|岩澤|1988}}やこれを訂正した天文6年([[1537年]])を生年とする説<ref>{{Cite book|和書 |author = 桑田忠親 |authorlink = 桑田忠親 |year = 1975 |title = 豊臣秀吉研究 |publisher = 角川書店}}</ref> が提示されている。
 
 
 
はじめ前田氏は、織田家筆頭家老の[[林秀貞]]の与力であったが(『信長公記』『加賀藩史稿』)、天文20年([[1551年]])頃に[[織田信長]]に小姓として仕える。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をした[[かぶき者]]であった{{Sfn|岩澤|1988|p=292}}。翌天文21年([[1552年]])に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の[[清洲城]]主・[[織田信友]]と信長の間に起こった[[萱津の戦い]]で初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。その後、元服して'''前田又左衞門利家'''と名乗った(又四郎、孫四郎とも)<ref group="注釈">『加賀藩史料』によると、信長の伯父津田孫三郎信家を烏帽子親としてその偏諱を受けたとある。なおこの信家は岩倉城主・[[織田信安]]の子[[織田信家]]と思われるが、伯父ではなく信長の従兄弟(叔母の子)であり、信長の伯父・津田孫三郎([[織田信光]])と混同した誤りであると推定される。</ref>。
 
 
 
この頃、信長とは[[衆道]](同性愛)の関係にあったと、加賀藩の資料『[[亜相公御夜話]]』に「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている、と解釈されることが多い。近年の研究では、この文章は単純に、不寝番として側近く仕えるほどに親しく接したことを誇っただけ、と見る説が立てられている<ref>{{Cite book|和書|author=乃至政彦|authorlink=乃至政彦|title=戦国男色の俗説-知られざる「武家衆道」の盛衰史-|url=http://blog.goo.ne.jp/naishi_masahiko/e/2bc08916895cd7d999454386065e6224|year=2013|publisher=洋泉社}}</ref>。
 
 
 
=== 馬廻り・赤母衣衆 ===
 
[[画像:Maeda Toshiie Statue 03-3.jpg|thumb|250px|前田利家騎馬像([[荒子駅]])]]
 
青年時代の利家は血気盛んで'''槍の又左衞門'''、'''槍の又左'''などの異名をもって呼ばれていた。
 
 
 
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、信長と、その弟の[[織田信行|織田信勝]]による織田家の家督争いである[[稲生の戦い]]では、[[宮井勘兵衛]]なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。[[永禄]]元年([[1558年]])、尾張上四郡を支配していた守護代[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信安]](岩倉織田氏)の息子・[[織田信賢]]との争いである[[浮野の戦い]]にも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという{{Sfn|花ヶ前|2001|p=11|loc=「前田利家とその時代」}}。また、この戦いの後、永禄初年頃に新設された赤と黒の'''母衣衆'''(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の[[赤母衣衆]]筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ([[芳春院]])を室に迎えて、すぐに長女・[[春桂院|幸]]を儲ける。
 
 
 
永禄2年([[1559年]])、信長の寵愛を受けた[[同朋衆]]の[[拾阿弥]]と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した(俗に、笄斬りと呼ばれる)。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、[[柴田勝家]]や[[森可成]]らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける{{Sfn|花ヶ前|2001|p=12|loc=「前田利家とその時代」}}などで命をつないでいる。
 
 
 
その後、永禄3年([[1560年]])、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で[[桶狭間の戦い]]に参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。翌永禄4年([[1561年]])、[[森部の戦い]]でも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・[[日比野下野守]]の家来で、「頸取足立」の異名を持つ[[足立六兵衛]]なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり{{Sfn|花ヶ前|2001|p=12|loc=「前田利家とその時代」}}、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。
 
 
 
利家の[[浪人]]中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・[[前田利久|利久]]が継いでいたが、永禄12年([[1569年]])に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。理由は利久に実子がなく(養子は[[前田利益|利益]]が居た)、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。
 
 
 
以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加する。[[元亀]]元年([[1570年]])4月には[[浅井氏]]・[[朝倉氏]]との[[金ヶ崎の戦い]]では撤退する信長の警護を担当し、6月の[[姉川の戦い]]では[[浅井助七郎]]なる者を討ち取る功績を上げる。同年9月には[[石山本願寺]]との間に起こった[[春日井堤の戦い]]で春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる。[[天正]]元年([[1573年]])8月の[[一乗谷城の戦い]]、同2年([[1574年]])7月の[[長島一向一揆]]、同3年([[1575年]])5月の[[長篠の戦い]]などでは[[佐々成政]]・[[野々村正成]]・[[福富秀勝]]・[[塙直政]]らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されている。
 
 
 
=== 北陸方面軍の一員 ===
 
天正2年([[1574年]])には柴田勝家の[[与力]]となり、[[越前一向一揆]]の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、[[小丸城]]から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録{{Sfn|花ヶ前|2001|p=93|loc=木越祐馨「前田利家と一向一揆」}}などによって伺うことができる。一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられており、1932年味小丸城二の丸から出土したものである(現在は武生越前の里郷土資料館所蔵)。
 
 
 
翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政・[[不破光治]]とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない{{要検証|date=2013年3月}})、「[[府中三人衆]]」と呼ばれるようになる。[[越前国]]平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど[[北陸地方]]の平定に従事するが、信長の命により[[摂津国|摂津]][[伊丹城|有岡城]]攻め([[有岡城の戦い]])、[[播磨国|播磨]][[三木城]]攻め([[三木合戦]])にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる{{要出典|date=2013年3月}}。
 
 
 
=== 能登国主 ===
 
天正9年([[1581年]])、織田信長より[[能登国|能登]]一国を与えられ、[[七尾城]]主となり23万石を領有する大名となった。旧[[加賀藩]]領([[石川県]]・[[富山県]])では、この時点で「[[加賀藩]]」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして[[小丸山城]]を築城した{{Sfn|花ヶ前|2001|p=75|loc=見瀬和雄「前田利家の領国経営」}}。
 
 
 
=== 賤ヶ岳の戦い~加賀国半国加増 ===
 
{{Main|賤ヶ岳の戦い}}
 
天正10年([[1582年]])6月の[[本能寺の変]]で信長が家臣の[[明智光秀]]により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る[[越中国|越中]][[魚津城]]を攻略中であり、[[山崎の戦い]]に加わることができなかった。
 
 
 
信長の死亡後まもない6月27日に織田家の後継人事等を決定する[[清洲会議]]において羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことから(若き頃よりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。同年11月には勝家の命を受け、[[金森長近]]・[[不破直光|不破勝光]]とともに[[山城国|山城]][[宝積寺城]](現[[京都府]][[大山崎町]])にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った。
 
 
 
そして天正11年([[1583年]])4月の[[賤ヶ岳の戦い]]では、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線を放棄するような動きがあり、これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される<ref>{{Cite book|和書|author=高柳光寿|authorlink=高柳光寿|year=2001|month=1|title=戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い|publisher=学習研究社|isbn=4059010251}}</ref>。合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家は[[越前府中城]](現[[福井県]][[武生市]])に籠るが、敗北して[[北ノ庄城]]へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後、府中城に使者として入った[[堀秀政]]の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに[[佐久間盛政]]の旧領・[[加賀国]]のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の[[金沢城]]に移した。
 
 
 
佐久間盛政は一向一揆の拠点であったの尾山御坊の後に城を築いた際に現地の地名にちなんで金沢城と命名したが、利家は盛政色の排除と一向衆との融和、更に自身の出身地である「尾張国」にも通じることから、金沢城を「尾山城」と改名した。だが、尾山御坊以前から使われていた金沢の地名が定着していたために、利家の晩年もしくはその没後に「金沢城」に名称が戻され、後世に伝えられることになる<ref>{{Cite journal |和書 |author = 瀬戸薫 |authorlink = 瀬戸薫 |title = 金沢城と前田利家 |year = 2008 |journal = 加能史料研究 |issue = 597号}}(所収:{{Harvnb|大西|2016}})</ref>{{Sfn|大西|2016|p=14-16|loc=「織豊期前田氏権力の形成と展開」}}。
 
 
 
=== 小牧・長久手の戦い ===
 
{{Main|小牧・長久手の戦い}}
 
天正12年([[1584年]])の秀吉と[[徳川家康]]・[[織田信雄]]が衝突した[[小牧・長久手の戦い]]では、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、[[末森城 (能登国)|末森城]]で成政を撃破した([[末森城の戦い]])。4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、[[丹羽長秀]]と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。
 
 
 
末森城の戦いに勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。
 
 
 
成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は[[上杉景勝]]と連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・[[菊池武勝]]に誘いの手を伸ばしたりしている。また、兵を派遣して越中国を攻撃した。天正13年([[1585年]])、3月に秀吉は[[雑賀衆]]を鎮圧。6月には弟・[[豊臣秀長|羽柴秀長]]を大将として[[四国]]へ遣わし、これを平定した。
 
 
 
=== 北陸道の惣職 ===
 
天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと佐々成政は降伏([[富山の役]])し、利家の嫡子・[[前田利長]]が越中国の4郡のうち[[砺波郡|砺波]]・[[射水郡|射水]]・[[婦負郡|婦負]]の3郡を加増された。同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没し[[丹羽氏|丹羽家]]は国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められたのである{{Sfn|花ヶ前|2001|p=43|loc=宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」}}、とりわけ[[蒲生騒動]]の件では徳川家康に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出した<ref>{{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |title = 豊臣政権下における家康の危機 |year = 1996 |journal = 大日光 |issue = 67号}}</ref>。
 
 
 
[[九州征伐]]では8,000の兵で[[畿内]]を守備(息子の利長が九州まで従軍)。同年7月に秀吉は[[関白]]に任官し、9月に秀吉が[[豊臣氏|豊臣姓]]を賜ると天正14年(1586年)に利家に[[羽柴氏]](名字)を名乗らせ[[筑前国|筑前守]]・[[近衛府|左近衛権少将]]に任官させている(前田家譜)。天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された<ref>{{Cite journal |和書 |author = 村川浩平 |title = 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜 |year = 1996 |journal = 駒沢史学 |issue = 49号}}</ref>。
 
天正18年([[1590年]])1月21日には[[参議]]に任じられる(前田家譜)。また、秀吉が主催した[[北野大茶湯]]や[[後陽成天皇]]の[[聚楽第]][[行幸]]にも陪席する。その後は[[陸奥国|奥州]]の[[伊達政宗]]などに対して上洛を求める交渉役{{Sfn|岩澤|1988|p=184}}となる。
 
 
 
北条氏制圧のための[[小田原征伐]]では北国勢の総指揮として上杉景勝・[[真田昌幸]]と共に[[上野国]]に入り、北条氏の北端要所の[[松井田城]]を攻略、他の諸城も次々と攻略した。続いて[[武蔵国]]に入り、[[鉢形城]]・[[八王子城]]を陥す(上杉家文書・前田家譜)。7月5日、北条氏は降伏。陸奥国の[[伊達政宗]]もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家らが行ったという([[伊達治家記録]]){{Sfn|岩澤|1988|p=185}}。先に上洛を促していることや、秀吉への奏者を務めていることなど、利家は伊達政宗や[[南部信直]]との外交についても取次をしており<ref>{{Citation|和書|author=千葉一大|chapter=豊臣政権と北奥大名南部家|editor=山本博文・堀新・曽根勇二|title=偽りの秀吉像を打ち壊す|year=2013|publisher=柏書房|page=92}}</ref>、南部信直との交渉は天正14年8月頃から確認される<ref>{{Cite journal |和書 |author = 瀬戸薫 |title = 前田利家と南部信直 |year = 1999 |journal = 市史かなざわ |issue = 5号}}</ref>。小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進める。秀吉自身は8月に帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めた。
 
 
 
=== 文禄・慶長の役 ===
 
{{Main|文禄・慶長の役}}
 
国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。
 
 
 
天正19年([[1591年]])8月、秀吉より出兵の命が出され、[[名護屋城]]の築城が始められた。翌[[文禄]]元年([[1592年]])3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。7月22日、秀吉は母・[[大政所]]危篤の報を得て、急ぎ帰坂する。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの[[五大老]]の原型がみてとれる。文禄2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなく[[明]]との講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月、[[豊臣秀頼]]誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。このときにまつの侍女である[[寿福院|千代の方]]との間に生まれた子供が猿千代、のちの第三代加賀藩主・[[前田利常]]である。
 
 
 
文禄3年(1594年)1月5日、利家は、上杉景勝・毛利輝元と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられたことでこれまで景勝・輝元の後塵を拝していた官位の序列の面において逆転することになる。これは、秀吉が利家を徳川家康に対抗させ、豊臣一族を補佐させる存在にすべく、儀礼的な面でも序列の引き上げを図ったものとみられている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 矢部健太郎 |title = 太閤秀吉の政権構想と大名の序列 |year = 2003 |journal = 歴史評論 |issue = 640号}}のちに{{Cite book|和書 |author = 矢部健太郎 |year = 2011 |title = 豊臣政権の支配秩序と朝廷 |publisher = 吉川弘文館}}に所収</ref>。
 
 
 
=== 五大老・秀頼の傅役 ===
 
慶長3年([[1598年]])になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に[[醍醐の花見]]に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り[[隠居]]、[[湯治]]のため[[草津温泉|草津]]に赴いた。この時、隠居料として加賀[[石川郡 (石川県)|石川郡]]・[[河北郡]]、越中[[氷見郡]]、能登[[鹿島郡]]にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・[[五奉行]]の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。なおこの政治体制を「[[秀吉遺言覚書体制]]」と言う<ref>{{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |title = 徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して― |year = 2004 |journal = 大日光 |issue = 74号}}</ref>。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。
 
 
 
慶長4年元旦([[1599年]])、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し[[大坂城]]に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。
 
 
 
=== 最期 ===
 
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・[[蜂須賀家政]]・[[福島正則]]と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、上杉景勝・[[毛利輝元]]・[[宇喜多秀家]]の三大老や五奉行の[[石田三成]]、また後に[[関ヶ原の戦い]]で家康方につくこととなる武断派の[[細川忠興]]・[[浅野幸長]]・[[加藤清正]]・[[加藤嘉明]]らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康も利家と対立することは不利と悟り[[向島 (伏見区)|向島]]へ退去すること等で和解した。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている(『浅川聞書』)<ref>{{Cite book|和書 |author = 三池純正 |year =2007 |title = 敗者から見た関ヶ原合戦 |publisher = 洋泉社 |pages = 68-69}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author = 三池純正 |year =2009 |title = 義に生きたもう一人の武将 石田三成 |publisher = 宮帯出版社 |pages = 97}}</ref>。その後大坂の自邸で病死。[[享年]]62{{Sfn|岩澤|1988|p=283}}。
 
 
 
利家の死後、家康により加賀征伐が検討される。利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された{{Sfn|岩澤|1988|p=287-288}}。
 
* 法名:高徳院殿桃雲浄見大居士{{Sfn|岩澤|1988|p=283}}。
 
* 墓所:石川県金沢市野田町の[[野田山#前田家墓所|野田山墓地]]、金沢市宝町の[[宝円寺]]。
 
* 肖像画は[[開禅寺]]所蔵のもののほか数点。利家着用であったと伝えられる武具も現存する。
 
 
 
== 人物 ・逸話==
 
{{複数の問題|ソートキー=人1599年没
 
|section = 1
 
| 出典の明記 = 2012年4月
 
| 独自研究 = 2012年4月
 
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=== 武勇 ===
 
* 利家は[[カブキ者|傾奇者]]で、短気でもあった。若年の頃は派手な拵えの槍を持って歩いたので、「又左衛門の槍」といって人々から避けられていた(『亜相公御夜話』)、利家は晩年になっても多少ともカブキ傾向のある若者を愛したという{{Sfn|岩澤|1988|p=292}}。
 
* 利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、'''槍の又左'''の異名で称えられた。
 
** 元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。
 
** 元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話が残る。この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したという。また、この際の負傷で、[[隻眼]]になったとの説が存在する。
 
** 稲生の合戦の後、浮野の戦いでも槍先による功を挙げ、この戦いの際に槍の又左の異名がついたとも言われる。
 
** 姉川の浅井攻めでは浅井助七郎なる者を討ち取るなどの活躍をみせ信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛され、大坂本願寺攻めでは、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒し、無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている。
 
* 長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の[[村井長頼]]に助けられ一命を得た。
 
* 加藤清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子・利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。」と説いていた。またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。
 
* [[坂本城]]の[[天守]]に夜な夜な[[幽霊]]が出るという噂が立ったとき、自ら[[肝試し]]を志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられたと言われている。また、この時に[[天下五剣]]の一つ[[大典太]]を下賜されたと言われている。
 
 
 
=== 容姿 ===
 
* 細身の美貌で知られた利家は、小姓時代に信長から寵愛を受け、[[衆道]]の相手も務めていたことが加賀藩の資料『[[亜相公御夜話]]』に記されている。同じく信長の小姓として有名な[[森成利]](蘭丸)や[[堀秀政]]にも衆道を務めていたとの説が存在するものの、実際に衆道の有無を記した資料は殆ど存在しないため、この『亜相公御夜話』に記された鶴の汁のエピソードはとても珍しいものとされている。
 
* 容姿については、男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で(遺された利家の着物から推定6尺とされている)、前の項で記されたように顔も端整であったことから非常に見栄えのいい武将であったと言われている。また豊臣秀吉は遺言覚書の中で利家の性格を「律義者」であると呼びかけている{{Sfn|花ヶ前|2001|p=45-47|loc=宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」}}。
 
* 利家の烏帽子兜は大きいが、合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、石川県立歴史博物館には、行軍用兜の横に合戦用兜が展示してある。
 
 
 
=== 頭脳 ===
 
* 槍の又左とよばれ勇名を馳せる一方、計算高く世渡り上手な一面もあった。[[賤ヶ岳の戦い]]の際、[[柴田勝家]]を裏切りながら落ちてきた勝家を厚遇し、裏切ったという印象を薄めたり(先述したように勝家と秀吉との人間関係に苦しんだうえでの対応もあったが)、秀頼の後見人として豊臣家を支えつつも、死の間際、利家の病床を見舞いに来た家康に息子の利長のことを頼んだとの話が残ったりもしている(一方で、利家が布団の下に抜き身の刀を忍ばせていたというエピソードが残っていたり、上記の話が江戸時代に幕府に提出するために作られた二次史料で、外様の大大名であった前田家が徳川家に媚びるため創作された記述とも言われ真偽は不明である)。
 
* 前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が家宝として残っている(算盤は当時日本に伝わったばかりであり、それを使えるというだけで稀有なことであった)。利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。
 
** 時には[[芳春院]](まつ)に「[[wikt:吝嗇|吝嗇]]」と揶揄されたこともある利家ではあるが、[[後北条氏|北条家]]滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と利長に命じている事実が存在する。また死の際には、「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」と言ってありとあらゆる書類に対し花押を押してから没した。
 
* 後年には[[漢籍]]などの学問も学び、[[茶道|茶の湯]]、[[能]]などの文化的[[活動]]も積極的に行った。茶道は[[千利休]]・[[織田長益|織田有楽]]に学び、[[茶入]]は秀吉から譲られた名品で[[天下三茄子]]の一つに数えられる「富士茄子」であった。利家はこの中でも特に能を好み、気晴らしや社交術として三日に一度は稽古をする程の熱の入れようであったという。
 
* 利家は秀吉の[[禁教令]]により、改易された[[キリシタン大名]]の[[高山右近]]を庇護し、築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりなどをしている。[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役]]の後には嫡子・利長が[[金沢城]]の整備などを命じるなど、右近をブレーンとして重用し、親しい関係が続いた。また、{{要出典範囲|date=2013年12月|利家自身がキリシタンだったという説があり、洗礼(名:オーギュスチン)を受けたとも言われている。(本行寺秘仏)}}
 
 
 
=== 人柄 ===
 
* 織田政権時代は同輩、豊臣政権時代では主となる秀吉とは、清洲時代に隣同士、安土時代に向かい同士の住居であったこともあってか、秀吉が[[足軽]]時代から夫婦共に親しく、天正2年(1574年)には子供のなかった秀吉夫婦に四女の[[豪姫]]を授ける程の関係であり、秀吉と敵対関係になった賤ヶ岳以降、家臣として秀吉に下った後も二人で灸をすえ合うなど友人関係を内密で続けたという。「律義者」であったので、秀吉も[[豊臣秀頼|秀頼]]の後見人を任せたと思われる。但し、利家の遺言状に豊臣家の名はなく、織田家の名前と織田家に対する忠義のみを記しているだけである。
 
* 豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉側近の[[大野治長]]は「御位も国数も大納言様(利家)は下なれども、お城にて人々用ひ(人々の尊信)は、五雙倍にも大納言様つよく候。これは第一御武辺者なり。さてまた太閤様(秀吉)御前よき故にても候由、お城にても道中にても、内府(家康)より人々あがまへ、我らまでも心いさみ申す」と語っている(利家は家康より官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうがはるかに大きい、という意)。なかでも傍輩衆の、[[蒲生氏郷]]、[[宇喜多秀家]]、[[浅野長政]]、[[毛利秀頼]]らから慕われたようである。利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる、数少ない人物であった。
 
* 上記の者のみに留まらず、[[加藤清正]]・[[福島正則]]らに代表される[[武断派]]と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の[[石田三成]]や[[小西行長]]らの[[文治派]]と武断派との争いの仲裁役として働いた。なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われ、事実、利家存命中は姻戚問題で利家邸、家康邸に各大名が集結する騒ぎとなった際も、姻戚問題を起こした当人にも関わらず利家邸に出席している。また利家が没すると、その直後に清正を含む武断派[[七将]]が、石田三成を襲撃する騒ぎが起こっている。
 
* 家康の法度破りで諸大名が家康・利家両邸に集まる騒ぎとなった際、利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換し、一応の和解となり、両者の衝突を回避しようとする細川忠興、浅野幸長らの取り成しにより、利家が家康のもとを訪問することとなった。この時、利家は息子の利長に「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」と言って伏見城に向かった。(利家公御夜話)
 
* 危篤の際には自ら[[経帷子]]を縫い、利家に着せようとするまつ([[芳春院]])が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、[[閻魔]]・[[牛頭馬頭]]どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。のちに[[徳山則秀]]からこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという([[富田景周]]の『[[越富賀三州志]]』)。
 
* 加賀にはこのような歌が遺されている。<blockquote>「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」</blockquote>「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられている。
 
* 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢で長袴のためつまずいて転んでしまった。それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。老人とはこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した。家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに感謝するも切腹まではという気持ちもあり、利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したと伝わる(『[[明良洪範]]』)。
 
* 種村某という勇士が[[柴田氏]]にいた。利家は彼の武勇を認めて家臣にしたいと考えたが種村は応じなかった。利家は種村が琵琶好きだと聞いて、白雲という琵琶を贈って家臣になるよう誘った。種村も遂に折れて前田の家臣となり、佐々成政の朝日山合戦で大活躍した(『[[常山紀談]]』)。
 
* 佐々成政が末森城を攻めたとき、近習の戸田与五郎なる者が2人の豪族への出兵命令を伝える使者になった。しかし戸田は豪族の説得に手間取って遅参した。利家は激怒し、戸田は討死覚悟で手柄を立てた。利家は激怒することで戸田が面目躍如のために手柄を立てると計算していたのである([[熊沢猪太郎]]の『[[武将感状記]]』)。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 義理の甥である[[前田利益]](慶次郎)とはソリが合わなかったと後年の逸話集などには記述されるが、同時代における史料や文書、利家の回顧録などにはその様なものはなく、利益に付き従った野崎知通による回顧録には利家の嫡子利長と利益が不仲であったとされる記述は存在する。また、利益出奔の際にイタズラで水風呂に入れられたとの逸話があるが、この逸話の初出は江戸後期の随筆集『翁草』であり、後年の創作である可能性が高い。
 
* 桶狭間の戦いの前年、普段から信長配下の武将に対して横柄な態度が多かったという信長お気に入りの茶坊主の拾阿弥が、利家佩刀の笄(こうがい、妻のまつからもらったものともいわれる)を盗み、利家を激怒させた。利家は拾阿弥を成敗すると言って聞かなかったが、信長の取り成しで一時はこれが収まり大事には至らなかった。しかし、その後も拾阿弥は利家に対し度重なる侮辱を繰り返したため、利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺し、織田家を出奔する。この事件は世に「笄斬り」とよばれる。後年、この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人(信用できる人物)だ」と言っている。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※日付=旧暦
 
* [[天正]]14年([[1586年]])3月22日 - [[従四位|従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]兼[[筑前国|筑前守]]に叙任。昇殿を聴される。
 
* 天正17年([[1589年]])4月 - 右近衛権中将に転任。筑前守如元。
 
* 天正18年([[1590年]])
 
** 1月22日 - 豊臣利家として、[[正四位|正四位下]]に昇叙し、[[参議]]に補任。[[清華家]]の家格に列す(『時慶御記』)。
 
** 10月20日 - 参議辞職。
 
* [[文禄]]3年([[1594年]])
 
** 4月1日 - [[従三位]]・[[中納言|権中納言]]に昇叙転任。
 
** 5月20日 - 権中納言辞任。
 
* [[慶長]]元年([[1596年]])5月11日 - [[従二位]]・[[大納言|権大納言]]に昇叙転任。
 
* 慶長2年([[1597年]])1月16日 - 権大納言辞任。
 
* 慶長3年([[1598年]])7月 - 豊家五大老の一角として就任。
 
* 慶長4年([[1599年]])
 
** 閏3月3日 - 薨去。
 
** 閏3月24日 - [[贈位|贈]][[従一位]]。
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父母
 
** 父:[[前田利春|前田利昌]]
 
** 母:[[長齢院]]
 
* 正室:まつ([[芳春院]])
 
** 長女:[[春桂院|幸]] - [[前田長種]]室
 
** 長男:[[前田利長]] - [[加賀藩]]初代藩主
 
** 次女:蕭 - [[中川光重]]室
 
** 三女:[[摩阿姫]] - [[豊臣秀吉]]側室→[[万里小路充房]]室
 
** 四女:[[豪姫]](樹正院) - 豊臣秀吉養女、[[宇喜多秀家]]室
 
** 五女:与免 - [[浅野幸長]]婚約者
 
** 次男:[[前田利政]] - [[前田土佐守家]]祖
 
** 七女:[[春香院|千世]](春香院) - [[細川忠隆]]→[[村井長次]]室
 
* 側室:千代保([[寿福院]])
 
** 四男:[[前田利常]] - [[加賀藩]]第二代藩主
 
* 側室:お岩 隆興院 (笠間氏女)
 
** 六女:[[前田菊姫|菊]] - 豊臣秀吉養女
 
** 九女:保智(清妙院) - [[武田信吉]]婚約者、[[篠原貞秀]]室
 
**男児3人早世
 
* 側室:お在 金晴院(小塚氏女)
 
** 八女:福(高源院) - [[長好連]]→[[中川光忠]]室
 
** 三男:[[前田知好]]
 
* 側室:お幸和・阿古和 [[明運院]](山本氏女)
 
** 五男:[[前田利孝]] - [[七日市藩]]初代藩主
 
* 側室:阿千代 逞正院
 
** 六男:[[前田利貞]]
 
*不詳
 
**女児(早世)
 
ほか養子
 
 
 
== 家臣 ==
 
* 譜代
 
** [[奥村永福]]
 
** [[篠原一孝]]
 
** [[木村三蔵]]
 
* 荒子衆
 
** [[村井長頼]]
 
** [[高畠定吉]]
 
* 与力衆
 
** [[岡島一吉]]
 
** [[長連龍]]
 
** [[富田重政]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書 |author = 岩沢愿彦 |authorlink = 岩沢愿彦 |year = 1988 |title = 前田利家 |publisher = [[吉川弘文館]] |series = 人物叢書 |edition = 新装版 |isbn = 4-642-05133-3 |ref = {{SfnRef|岩沢|1988}}}} 初版は1966年発行
 
* {{Citation|和書|editor=花ヶ前盛明|year = 2001 |title = 前田利家のすべて |publisher = [[新人物往来社]] |edition = 新装 |isbn = 978-4404029478 |ref = {{SfnRef|花ヶ前|2001}}}}
 
* {{Citation|和書|editor=大西泰正|year = 2016 |title = 前田利家・利長 |publisher = [[戎光祥出版]] |series = 織豊大名の研究 第三巻  |isbn = 978-4-86403-207-0 |ref = {{SfnRef|大西|2016}}}}
 
 
 
== 前田利家を主題とした作品 ==
 
; 小説
 
* 前田利家([[戸部新十郎]])
 
* 前田利家([[津本陽]])
 
* 前田利家([[童門冬二]])
 
* 前田利家―秀吉が最も頼りにした男([[花村奨]])
 
* 前田利家と妻まつ―「加賀百万石」を築いた二人三脚 ([[中島道子]])
 
* 百万石異聞・前田利家と松 ([[野村昭子]])
 
* 前田利家物語―加賀百万石の祖([[北村魚泡洞]])
 
* 前田利家([[長尾誠夫]])
 
* 利家とまつ([[竹山洋]])
 
* 前田利家([[志木沢郁]])
 
; 漫画
 
* 前田利家([[永井豪|永井豪とダイナミックプロ]])
 
* 利家とまつ([[立木美和]])
 
; テレビドラマ
 
* [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]](2002年、NHK大河ドラマ、演:[[唐沢寿明]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commonscat|Maeda Toshiie}}
 
* [[金沢城]]
 
* [[末森城 (能登国)]]
 
* [[松山城 (武蔵国)]]
 
* [[青鳥城]]
 
* [[荒子観音]]
 
* [[尾山神社]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.hokkoku.co.jp/tokusyuu/jyosetsu/index.html 金沢学序説 歴史が示す21世紀の指針](『[[北國新聞]]』)
 
* [http://4619.web.fc2.com/hero7.html 前田利家と賤ヶ岳の戦い]
 
* [{{NDLDC|953320}} 利家夜話(近代デジタルライブラリー)]
 
 
 
{{前田氏歴代当主|尾張荒子前田家当主/加賀前田家|1569年 - 1598年|初代}}
 
{{豊臣政権}}
 
{{Authority control}}
 
  
 +
安土桃山時代の武将。加賀藩前田家の祖。利昌の子。幼名は犬千代,幼少から織田信長に仕え,永禄 12 (1569) 年信長の命で兄利久に代って前田家を継いだ。元亀1 (70) 年の朝倉征伐,さらに姉川の合戦,長篠の戦いなどに従軍して功をあげた。信長亡きあと,柴田勝家と豊臣秀吉が天正 11 (83) 年賤ヶ岳で戦った際,利家は当初勝家についていたが,裏切って秀吉に従った。同 13年秀吉が越中で佐々成政を倒してからは越中の3郡を与えられ,その信任は厚かった。同 18年参議となり徳川家康,上杉景勝らと[[五大老]]の一人として,また秀吉没後は秀頼の後見として徳川氏との調整にあたった。
 +
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:まえた としいえ}}
 
{{デフォルトソート:まえた としいえ}}
 
[[Category:加賀前田氏|としいえ]]
 
[[Category:加賀前田氏|としいえ]]

2018/12/29/ (土) 11:13時点における最新版

前田 利家(まえだ としいえ)

安土桃山時代の武将。加賀藩前田家の祖。利昌の子。幼名は犬千代,幼少から織田信長に仕え,永禄 12 (1569) 年信長の命で兄利久に代って前田家を継いだ。元亀1 (70) 年の朝倉征伐,さらに姉川の合戦,長篠の戦いなどに従軍して功をあげた。信長亡きあと,柴田勝家と豊臣秀吉が天正 11 (83) 年賤ヶ岳で戦った際,利家は当初勝家についていたが,裏切って秀吉に従った。同 13年秀吉が越中で佐々成政を倒してからは越中の3郡を与えられ,その信任は厚かった。同 18年参議となり徳川家康,上杉景勝らと五大老の一人として,また秀吉没後は秀頼の後見として徳川氏との調整にあたった。



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