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'''天保の改革'''(てんぽうのかいかく)は、[[江戸時代]]の[[天保]]年間([[1830年]] - [[1843年]])に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。[[享保の改革]]、[[寛政の改革]]と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。[[貨幣経済]]の発達に伴って逼迫した[[江戸幕府|幕府]]財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸[[藩]]でも[[藩政改革]]が行われた。
 
  
== 概要 ==
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'''天保の改革'''(てんぽうのかいかく)
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|250px|thumb|水野忠邦]]
 
天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や[[天保の大飢饉]]、[[百姓一揆]]や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における[[天保騒動]]や[[三河加茂一揆]]、翌天保8年には大坂での[[大塩平八郎の乱]]などの国内事情に加え、[[阿片戦争]]や[[モリソン号事件]]など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。
 
  
天保8年(1837年)、将軍[[徳川家斉]]は西丸で退隠し[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、家慶が将軍職となる。[[老中]]首座の'''[[水野忠邦]]'''<ref>水野忠邦(1794年 - 1851)は譜代大名で[[肥前国]][[唐津藩]]主家に生まれるが、唐津藩は長崎の管轄を担当するため幕政参与を見込めず、自ら[[国替え]]を望み、側用人[[水野忠成]]の計らいもあって文化14(1817年)には遠江国[[浜松藩]]に[[転封]]され、寺社奉行となる。その後は[[大坂城代]]・西丸老中と出世し、老中首座となる。</ref>は天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の[[林忠英]]、[[水野忠篤 (美濃守)|水野忠篤]]、[[美濃部茂育]]ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。
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江戸時代後期,天保年間 (1830~44) に行われた幕府,諸藩の政治改革。幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた。幕府は老中[[水野忠邦]]を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。享保,[[寛政の改革]]を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「[[人返し]]」政策をとった。また忠邦は[[株仲間]]を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼 (いんばぬま) 開発 ([[印旛沼干拓]] ) などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令 ([[上知]] ) によって失脚した。一方,西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し,明治維新の原動力となった。
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天保12年(1841年)に大御所家斉が死去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、[[農本思想]]を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍[[徳川家慶]]は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は[[町奉行|江戸町奉行]]の[[遠山景元]]・[[矢部定謙]]を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については[[姉小路 (和宮の大叔母)|姉小路]]ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。
 
 
遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付[[鳥居耀蔵]]<ref>鳥居耀蔵(1804年 - 1874年)は儒学者[[林述斎]]の子として生まれ、天保8年に目付となり、目付時代には[[蛮社の獄]]における詮議を行っている。水野に抜擢されて改革に携わるが、上知令においては反対派にまわり、水野失脚後にも政権に残ったが、水野が老中首座に返り咲くと罷免されている。</ref>が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、[[貨幣改鋳]]をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。
 
 
天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は[[代官]]出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、[[新田]]開発・水運航路の開発を目的とした下総国の[[印旛沼]]開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である[[貝淵藩]]ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、[[幕府直轄領]]に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した<ref>上知は水野の失脚により中止されるが、幕領の一円支配化についてはその後も続けられ、[[関東取締出役]]の設置や[[組合村]]の結成などが行われている。</ref>。
 
 
上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中[[土井利位]]や[[紀州徳川家]]からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された<ref>なお、水野は弘化元年に再び老中首座となっているが、後に罷免され、嫡子・[[水野忠精|忠精]]に家督を相続させた上で蟄居隠居。その後[[出羽国]][[山形藩]]に転封されている。</ref>。
 
 
天保の改革に先立って、[[薩摩藩]]や[[長州藩]]などの西国雄藩や水戸藩などを中心に藩財政改革を中心とした[[藩政改革]]が実施された結果、諸藩は自律的藩財政を運営するに至っており、天保の改革における上知令などは幕府と諸藩経済との間に対立を生んだことも指摘される。
 
 
== 人事刷新 ==
 
[[大御所時代]]に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕府高官たち
 
* [[水野忠篤 (美濃守)|水野忠篤]]([[御側御用取次]]) - 免職、5,000石没収の上、[[旗本寄合席]](無役)に左遷
 
* [[林忠英]]([[若年寄]]) - 免職、8,000石没収の上、[[伺候席|菊間縁頬詰]]に左遷
 
* [[美濃部茂育]](小納戸頭取) - 免職、3,000石没収の上、甲府勤番に左遷
 
* [[田口喜行]]([[勘定奉行]]) - 免職、2,000石没収の上、小普請組(無役)に左遷
 
* [[中野清茂]](元新御番組頭) - 登城禁止、屋敷没収
 
らを始め、多くが処分を受けた。その総計は[[御目見]]以上([[旗本]])で68人、御目見以下([[御家人]])894人であった。
 
 
そして、代わりに以下の人物を登用した。
 
* [[真田幸貫]](老中、信濃国[[松代藩]]主)
 
* [[堀親しげ|堀親寶]](側用人、信濃国[[信濃飯田藩|飯田藩]]主)
 
* [[遠藤胤統]](若年寄、近江国[[三上藩]]主)
 
* [[本庄道貫]](若年寄、美濃国[[高富藩]]主)
 
* [[本多忠徳]](若年寄、陸奥国[[泉藩]]主)
 
* [[遠山景元]](北町奉行)
 
* [[矢部定謙]](南町奉行)
 
* 岡本正成(勘定奉行)
 
* [[跡部良弼]](勘定奉行) ※水野忠邦の実弟
 
* [[川路聖謨]](小普請奉行)
 
* [[鳥居耀蔵]](目付)
 
* [[江川英龍]](韮山代官)
 
* [[渋川敬直]](天文方見習兼御書物奉行)
 
* [[後藤光亨]](金座御金改役)
 
* [[高島秋帆]](砲術方与力)
 
 
== 綱紀粛正 ==
 
倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外([[浅草]])への移転、[[寄席]]の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の[[市川團十郎 (7代目)|7代目市川團十郎]]、[[人情本]]作家・[[為永春水]]や[[柳亭種彦]]などが処罰された。
 
 
寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。なお、新吉原の6ヶ所についてはすべて免除されている。また、免除された寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微するが、水野失脚後には息を吹き返している。
 
 
特に[[歌舞伎]]に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の[[編笠]]着用の強制)、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、[[1841年]](天保12年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の[[江戸三座#猿若町|猿若町]]に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、[[北町奉行]]・[[遠山景元]]の進言によるものと言われている。歌舞伎劇場が市内に戻ってくるのは、[[1872年]](明治5年)まで待たねばならなかった。
 
 
== 軍制改革 ==
 
[[阿片戦争]]で、[[清]]が[[イギリス]]に敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて[[薪水給与令]]を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で[[江川英龍]]、[[高島秋帆]]に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。
 
 
== 経済政策 ==
 
=== 人返し令 ===
 
幕府への収入の基本は農村からの年貢であったが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。
 
 
=== 株仲間の解散 ===
 
高騰していた物価を安定させるため、[[株仲間]]を解散させて、経済の自由化を促進しようとした。しかし株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いた。なお、この際に株仲間の解散を諌めた[[矢部定謙]]が無実の罪を着せられ、非業の死を遂げている。
 
 
=== 上知令(上地令) ===
 
[[上知令]]を出して[[江戸]]や[[大阪]]の周囲の[[大名]]・[[旗本]]の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化するとともに、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとした。大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わった。
 
 
これが3代将軍・[[徳川家光]]の[[武断政治]]の世なら通用していただろうと揶揄され、将軍・家慶からも撤回を言い渡されるほど不評であり、さらに鳥居が反対派に寝返ると、[[1843年]](天保14年)に水野が退陣するきっかけになった。改革の切り札となるはずだった上知令は、かえって改革自体を否定することになった。
 
 
=== 金利政策 ===
 
[[相対済令]]の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げた。そして[[札差]]に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする[[棄捐令#天保の無利子年賦返済令|無利子年賦返済令]]を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたった。しかし貸し渋りが発生し、逆に借り手を苦しめることになった。
 
 
=== 改鋳 ===
 
また、貨幣発行益を得るために貨幣の[[改鋳]]を行った。[[貨幣発行益]]を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、それによってマイルドな[[インフレーション]]が発生して景気も良好となっていたが、天保の改革においては以前とは異なり猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招いた<ref>『エドノミクス 歴史と時代劇で今を知る』pp.255-256。</ref>。
 
 
== 評価 ==
 
天保の改革が行われた時期には既に幕府の権威が低下してきたこと、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、[[大奥]]の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き、失敗と判断された。更に水野失脚後に株仲間が再興されたことで、幕府権力が商業資本の前に自己の政策を貫徹できなかったという、[[幕藩体制]]にとっては悪しき先例を残す結果となり、幕府衰退を早めたとする見方もある。
 
 
これに対して、同時期に[[長州藩]]や[[薩摩藩]]はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって藩の財政は改善され、[[幕末]]には[[雄藩]]と言われるほどの力を得ることができた(もっとも、諸藩の場合は行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある)。
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* [http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume022.html 日本史 第22回 幕政改革の展開 〜三大改革を見直す〜] - NHK高校講座
 
* [[大口勇次郎]]「天保の改革と水野忠邦」朝日百科『日本の歴史9 近世から近代へ』
 
* [[篠原総一]]「[http://www.econ-edu.net/activity/ws/Prof.Shiohara%20Edo.pdf 経済を通して学ぶ歴史 〜 江戸時代の経済政策 〜 ]」経済教育ネットワーク
 
* 飯田泰之・春日太一『エドノミクス 歴史と時代劇で今を知る』扶桑社、ISBN 978-4-594-07052-6
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[遠山景元]]
 
* [[鳥居耀蔵]]
 
* [[幕政改革]]
 
* [[華屋与兵衛]]
 
* [[仁杉幸生]]
 
* [[化政文化]]
 
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天保の改革(てんぽうのかいかく)

江戸時代後期,天保年間 (1830~44) に行われた幕府,諸藩の政治改革。幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた。幕府は老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。また忠邦は株仲間を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼 (いんばぬま) 開発 (印旛沼干拓 ) などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令 (上知 ) によって失脚した。一方,西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し,明治維新の原動力となった。