寺尾常史
寺尾 常史(てらお つねふみ、1963年(昭和38年)2月2日 - )は、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身(生まれは東京都墨田区)で井筒部屋所属の元大相撲力士。得意技は突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ。最高位は東関脇。本名は福薗 好文(ふくぞの よしふみ)。身長185cm、体重116kg。引退後は、年寄・錣山となり、井筒部屋部屋付き親方を経て、分家独立し、錣山部屋の師匠として指導にあたる。角界での愛称は「アビ」[1]、血液型はA型、趣味はパチンコ、音楽鑑賞、ゴルフ[2]。
来歴
父はもろ差し名人として鳴らした元関脇鶴ヶ嶺、母は25代横綱2代西ノ海の孫娘、長兄は元十両鶴嶺山、次兄は元関脇逆鉾という力士の家系に生まれた(家系で詳述)。父・鶴ヶ嶺は厳格な人間であり、その影響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという。実際、父は年寄・13代井筒としても「何かあったら、まず自分の息子から叱る」としていた[3]。
安田学園高校入学後相撲を始める。厳しい稽古を乗り越えて試合で勝つことの爽快感から相撲にのめりこむようになり2年生の時には一日も早く角界入りしたいと思うようになっていたが、長兄が次兄の入門の際に強硬に反対したことから角界入りしたいという気持ちをなかなか言い出せないでいた[4]。しかし、1979年(昭和54年)5月場所の千秋楽の日、癌で闘病中であった最愛の母を見舞った後長兄に突然「お前、学校やめて相撲取りになったらどうだ?」と声を掛けられた[4]。その後母の通夜の晩に父親に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退して兄達を追うようにして角界入りする(母・節子は死ぬ間際に「相撲取りになって」と寺尾に告げていた。寺尾は後年インタビューで「あのお兄ちゃんの言葉は、おふくろの置きみやげだったと思ってるんですよ。きっと俺の気持ちを判っていて、相撲取りにならせてくれたんだな、って。」と往時を振り返っている[4]。)。入門後は寺尾節男を名乗った。これは母(福薗節子)の旧姓・寺尾から取ったものである。同年7月場所初土俵[2]。1984年(昭和59年)7月場所新十両のとき「源氏山力三郎」と改名する。源氏山の四股名は同部屋に所属した30代横綱・西ノ海が横綱昇進直後の場所まで名乗ったものである。この四股名は1場所限りで、翌場所から元の四股名に戻している[5]。1985年(昭和60年1月場所で12勝3敗の成績で十両優勝し翌場所新入幕。6勝9敗と負け越して陥落するが翌場所も12勝3敗の成績で2度目の十両優勝で1場所で返り咲く。1987年(昭和62年)11月から名を常史(つねふみ)と改める。
初土俵の時に85kgしかなかった体重を100kgまで増やすために大変な努力をしたという。横になると口から食べたものが出る程食べ、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり、横になれるのは明け方から数時間程度という生活を約5年続け、100kgの大台に乗ったのは1984年(昭和59年)9月場所のことである。[6]
長兄の鶴嶺山は十両止まりだったが、次兄の逆鉾は関脇まで昇進しており、様々な兄弟記録を残している。1986年(昭和61年)9月場所には同時三賞受賞、1989年(平成元年)3月場所には同時関脇を果たした。また1990年(平成2年)11月場所には千代の富士の横綱土俵入りの太刀持ち・露払いを務めた。
1995年(平成7年)3月場所には横綱貴乃花から初の供給となる金星を獲得した。1997年(平成9年)3月場所には旭鷲山戦で右足親指を骨折し途中休場。初土俵以来続いた連続出場記録が1359で途切れた。30代後半を迎えた寺尾の突っ張りはなお衰えを知らなかったが、力士の大型化が進んだこともあってか2000年(平成12年)7月にはついに十両陥落。周囲からは引退の声も囁かれたが寺尾は続行を決意。翌年3月場所、5場所ぶりに幕内復帰した。38歳であった。再陥落後は昇進のチャンスもあったが、十両上位の星運に泣いた。2002年(平成14年)9月場所、十両11枚目の地位で怪我により3日目から5日目まで途中休場。再出場の6日目に初白星を挙げ、最後の相撲となった千秋楽では小城錦に勝利を決めるも、5勝8敗2休と負け越し幕下陥落が必至となり同9月場所限りで現役引退。
現役時代は相撲界では珍しい甘いマスクと筋肉質のソップ体型で、女性ファンからの人気と声援が多かった。若い頃は回転の速い上突っ張りといなしで勝負しており[2]、その敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどだった。また右を差すこともあり、下手投げは強かった。晩年は突っ張りの後、父・兄が得意としていた両差しの相撲を取るようになった。引退後は年寄・錣山を襲名、井筒部屋の部屋付き親方を経て2004年(平成16年)1月、錣山部屋を創設[2]。同部屋からは2015年(平成27年)7月場所までに小結・豊真将、幕内・青狼、阿炎を出している[7]。
2017年7月場所は、体調面を考慮して審判部を外れ、木戸(入場口)担当を務める[8]。
2017年12月、2018年1月31日に行われる理事候補選挙に時津風一門の意向として鏡山親方を推す動きに異議を唱え、23代湊(元前頭2枚目湊富士)と直弟子の19代立田川(元小結豊真将)と共に一門から離脱した[7]。2月2日の副理事選挙では4人で副理事の3枠を争う中、実兄の14代井筒と異例の兄弟対決となった。結果は14票で落選となり、55歳の誕生日を飾れなかったが「一歩踏み出せた。意味は大きい」と晴れやかな表情だった[9][10]。その後、7月の相撲協会理事会で全ての親方は5つある一門のうちのいずれかに所属することが決定されたため、二所ノ関一門に加入を申請し9月21日に認められた。
家系
西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下・本名は寺尾政喜)の孫、鶴ヶ嶺(元関脇)の三男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。井筒3兄弟と言われ、長男が鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾(元関脇)、三男が寺尾。また、鶴ノ富士智万(元十両)は従弟に当たり、元中日ドラゴンズ選手の井上一樹は再従弟に当たる。長男(夫人と前夫との実子)は俳優の寺尾由布樹。
加賀錦は廃業後に国技館サービス株式会社の常務取締役を務めた。その妻・寺尾文子は相撲茶屋「吉可和」(よしかわ、相撲案内所 四番)を経営し、その経営権は寺尾の親族へと引き継がれた。
エピソード
- 1991年3月場所、18歳の貴花田と対戦。学年で言うと高校3年生に相当する年齢の貴花田には負けられないと闘志を燃やした。立ち合いから突っ張るも、左上手からの出し投げに続く追撃の押しで敗れた。敗れた寺尾は、さがりを叩きつけるなど悔しさを露にした[11]。引退直後の会見で、「今まで一番悔しかった取組」としてこの一番を挙げた。それでも寺尾は引退後に「あの悔しさがあったから長く相撲が取れた」と語っている[2]。後の2010年に大相撲中継にゲスト出演した際に、この一番について「悔しい気持ちはわかるけど、あれ(下がりを叩きつける)はいけませんね(笑)。もし、弟子が同じようなことをしたら即刻注意しますね(苦笑)。」と語っていた。
- 同じ昭和38年(1963年)生まれ(但し、学年は寺尾の方が1年上)の「花のサンパチ組」で良きライバルだった、元横綱北勝海・元大関小錦・元関脇琴ヶ梅の引退相撲では、異例とも言える最後の取組相手として指名され、寺尾はそれぞれ3人の力士と土俵に上がり勝負していた。
- 高所恐怖症で(兄の逆鉾も同様)、飛行機に乗るのも苦手だった。しかし部屋設立後は新弟子集めの移動のために飛行機嫌いを克服。今や航空会社のマイレージ集めが趣味となっているらしい。阪神タイガースファンとして知られ、野球中継のゲストを務めたこともある。プロレスラーの高田延彦との親交が深い。
- マスコミに対して好意的であり、普段は寡黙ながらユニークな人柄を買われ、現在でもテレビのバラエティ番組に度々出演している。
- 現役最後の場所となった2002年9月場所の12日目、元関脇貴闘力と十両の地位で対戦したが、寺尾に敗れて負け越し幕下陥落が確定的となった貴闘力は、その日限りで現役引退を表明。その取り組み後には、寺尾が土俵上で貴闘力の肩をそっと叩き、互いの労をねぎらうというシーンが見られた。また同じ関脇同士ながら栃司には圧倒的に強く、幕内昇進前も含め13戦全勝と一方的に勝っている。
- 現在、関取在位110場所(昭和59年7月〜平成14年9月)は魁皇117場所、旭天鵬115場所に次ぐ史上3位。また幕内在位93場所も魁皇の107場所(平成5年5月、平成5年11月〜平成23年7月)、旭天鵬の99場所、高見山の97場所に次ぐ史上4位(寺尾の引退直後は当時史上2位)の記録である。
- ファミコンゲームソフトに『寺尾のどすこい大相撲』(ジャレコ、1989年)がある。
- 新十両の時に1場所だけ名乗った「源氏山」の四股名であるが、日本相撲協会の番付表と星取表では「氏」の字の3画目の横線の右に(氏ヽ)の様に点が付けられていた。本来はその様な漢字は存在しないので極めて異例である。
- 舞の海の解説に対しては大抵の親方がいなしたり流したりするが、寺尾は理論で攻めて張り合うためこのコンビはNHK大相撲中継の名物となっている[12]。
- 捌いて勝つ相撲には「後手に回るから」と批判的であり、立合いから能動的に攻め込む相撲が理想と主張している[13][14]。
主な成績
- 通算成績:860勝938敗58休 勝率.478
- 通算勝利860は歴代9位、通算敗北938は歴代2位
- 幕内成績:626勝753敗16休 勝率.454
- 通算出場:1795回(歴代3位)
- 通算連続出場:1359回(歴代6位)
- 現役在位:140場所
- 幕内在位:93場所(歴代4位)[2]
- 幕内出場:1378回(歴代4位)
- 幕内連続出場:1063回(歴代4位)
- 三役在位:13場所(関脇7場所、小結6場所)
- 三賞:7回
- 金星:7個(千代の富士1個、北勝海1個、大乃国3個、貴乃花1個、武蔵丸1個)
- 各段優勝
- 十両優勝:2回(1985年1月場所、1985年5月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1979年 (昭和54年) |
x | x | x | 番付外 2–1 |
東序ノ口34枚目 6–1 |
西序二段80枚目 6–1 |
1980年 (昭和55年) |
東序二段19枚目 2–5 |
西序二段42枚目 6–1 |
東三段目77枚目 2–5 |
西序二段7枚目 3–4 |
東序二段21枚目 5–2 |
東三段目68枚目 3–4 |
1981年 (昭和56年) |
西三段目79枚目 4–3 |
西三段目58枚目 3–4 |
西三段目69枚目 6–1 |
東三段目20枚目 4–3 |
東三段目8枚目 4–3 |
西幕下55枚目 2–5 |
1982年 (昭和57年) |
西三段目14枚目 6–1 |
西幕下37枚目 5–2 |
西幕下19枚目 4–3 |
西幕下16枚目 4–3 |
東幕下12枚目 3–4 |
西幕下18枚目 4–3 |
1983年 (昭和58年) |
東幕下11枚目 3–4 |
東幕下20枚目 3–4 |
西幕下34枚目 4–3 |
東幕下23枚目 3–4 |
東幕下31枚目 4–3 |
西幕下22枚目 5–2 |
1984年 (昭和59年) |
西幕下10枚目 5–2 |
西幕下4枚目 5–2 |
東幕下筆頭 5–2 |
東十両10枚目 7–8 |
西十両11枚目 8–7 |
西十両8枚目 8–7 |
1985年 (昭和60年) |
西十両7枚目 優勝 12–3 |
西前頭14枚目 6–9 |
東十両3枚目 優勝 12–3 |
西前頭12枚目 10–5 |
西前頭2枚目 6–9 |
西前頭5枚目 7–8 |
1986年 (昭和61年) |
東前頭7枚目 7–8 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭4枚目 4–11 |
東前頭12枚目 8–7 |
東前頭8枚目 9–6 敢 |
東前頭筆頭 6–9 |
1987年 (昭和62年) |
西前頭4枚目 6–9 |
東前頭7枚目 8–7 |
東前頭2枚目 5–10 |
東前頭5枚目 7–8 |
東前頭6枚目 6–9 |
西前頭9枚目 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
東前頭3枚目 7–8 ★ |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭6枚目 8–7 |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭4枚目 7–8 |
東前頭6枚目 8–7 |
1989年 (平成元年) |
西前頭筆頭 8–7 殊★ |
西関脇0 5–10 |
東前頭3枚目 7–8 |
西前頭3枚目 10–5 技★ |
西関脇0 8–7 敢 |
西関脇0 8–7 |
1990年 (平成2年) |
東張出関脇0 7–8 |
西小結0 8–7 |
東関脇0 7–8 |
西小結0 8–7 |
西関脇0 9–6 |
東関脇0 5–10 |
1991年 (平成3年) |
東前頭2枚目 8–7 ★ |
西小結0 8–7 |
東小結0 5–10 |
西前頭3枚目 6–9 |
東前頭7枚目 8–7 |
東前頭4枚目 6–9 ★ |
1992年 (平成4年) |
東前頭8枚目 8–7 |
西前頭4枚目 8–7 |
東前頭2枚目 2–13 |
東前頭13枚目 9–6 |
東前頭8枚目 9–6 |
東前頭2枚目 7–8 |
1993年 (平成5年) |
東前頭5枚目 6–9 |
西前頭9枚目 8–7 |
東前頭5枚目 5–10 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭4枚目 6–9 |
西前頭6枚目 7–8 |
1994年 (平成6年) |
東前頭8枚目 8–7 |
西前頭2枚目 9–6 敢 |
西小結0 8–7 殊 |
西小結0 4–11 |
東前頭3枚目 4–11 |
西前頭9枚目 9–6 |
1995年 (平成7年) |
西前頭2枚目 5–10 |
東前頭6枚目 8–7 殊★ |
東前頭筆頭 5–10 |
西前頭5枚目 5–10 |
西前頭9枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 |
1996年 (平成8年) |
東前頭7枚目 6–9 |
東前頭11枚目 9–6 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭6枚目 5–10 |
西前頭10枚目 9–6 |
東前頭3枚目 4–11 |
1997年 (平成9年) |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭3枚目 2–12–1[15] |
東前頭13枚目 休場[16] 0–0–15 |
東前頭13枚目 9–6 |
西前頭8枚目 7–8 |
西前頭9枚目 6–9 |
1998年 (平成10年) |
西前頭13枚目 9–6 |
東前頭8枚目 5–10 |
西前頭12枚目 9–6 |
東前頭9枚目 4–11 |
東前頭16枚目 9–6 |
西前頭11枚目 8–7 |
1999年 (平成11年) |
東前頭7枚目 8–7 |
西前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 6–9 |
西前頭11枚目 8–7 |
西前頭7枚目 8–7 |
東前頭4枚目 5–10 ★ |
2000年 (平成12年) |
東前頭7枚目 5–10 |
東前頭12枚目 7–8 |
西前頭13枚目 5–10 |
西十両3枚目 6–9 |
東十両6枚目 8–7 |
東十両5枚目 8–7 |
2001年 (平成13年) |
西十両2枚目 8–7 |
西前頭12枚目 8–7 |
東前頭9枚目 2–13 |
西十両3枚目 9–6 |
西十両筆頭 7–8 |
西十両2枚目 休場[16] 0–0–15 |
2002年 (平成14年) |
西十両2枚目 5–10 |
西十両6枚目 8–7 |
西十両2枚目 2–3–10 |
東十両11枚目 休場[16] 0–0–15 |
東十両11枚目 引退 5–8–2 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 寺尾 節男(てらお せつお)1979年7月場所 - 1984年5月場所
- 源氏山 力三郎(げんじやま りきさぶろう)1984年7月場所
- 寺尾 節男(てらお せつお)1984年9月場所 - 1987年9月場所
- 寺尾 常史( - つねふみ)1987年11月場所 - 2002年9月場所
年寄変遷
- 錣山 常史(しころやま つねふみ)2002年9月 - 2002年11月
- 錣山 矩幸( - つねゆき)2002年11月 -
参考文献
- 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p155-156
脚注
- ↑ 自身が生まれたばかりの頃、井筒部屋に外国人の見学者がやってきて"a baby"と言ったところ、兄達は「アビ」と聞き違え、そのまま角界での愛称として定着してしまった。この愛称は、愛弟子「阿炎」に四股名として名付けた。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p29
- ↑ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p71
- ↑ 4.0 4.1 4.2 「寺尾常史 闘志未だ健在なり。」『Sports Graphic Number』、1992年1月20日号、P.43
- ↑ 負け越したことからゲン直ししたともいわれる。また本人はかつて出演したテレビ番組『いつみても波瀾万丈』で、『源氏山』は横綱の名跡だから自分には重過ぎたとも語っていた。週刊女性2015年12月22日号の記事には「改名した途端に負け越し古くささも嫌で寺尾を四股名にした」とある。
- ↑ 『相撲』2012年8月号96頁
- ↑ 7.0 7.1 ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p36-39
- ↑ 錣山親方、体調面考慮で審判部外れる SANSPO.COM 2017.7.7 18:13
- ↑ 井筒親方と錣山親方…副理事候補選は異例の対決に 当選の兄「複雑」、落選の弟は晴れやか SANSPO.COM 2018.2.2 17:53(産経新聞社、2018年2月3日閲覧)
- ↑ 貴乃花親方は落選=10人の理事候補決まる-相撲協会 JIJI.COM (時事通信社、2018年2月3日閲覧)
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.60
- ↑ 『相撲』2018年3月号 p.46-47
- ↑ 『大相撲中継』2017年8月12日号 p16
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年5月号16ページ
- ↑ 右足第1趾基節骨骨折により14日目から途中休場
- ↑ 16.0 16.1 16.2 公傷
関連項目
外部リンク
- 錣山親方(寺尾改メ)オフィシャルサイト
- インタビューマガジン Anchor - 錣山親方インタビュー
- 寺尾 常史 - 日本相撲協会
- 相撲茶屋 寺尾 - 寺尾の兄が経営する相撲茶屋