水戸城
水戸城 (茨城県) | |
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別名 | 馬場城、水府城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 |
なし (御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再)非現存) |
築城主 | 馬場資幹 |
築城年 | 建久年間(1190年 - 1198年) |
主な改修者 | 佐竹義宣、徳川頼房 |
主な城主 |
大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏 徳川氏 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 薬医門1棟・藩校、土塁、空堀 |
指定文化財 | 茨城県史跡、国の特別史跡(藩校) |
位置 |
北緯36度22分30.54秒 東経140度28分44.17秒 |
地図 |
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水戸城(みとじょう)は、常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市三の丸)にあった日本の城である。
江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城であった。茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。
Contents
概要
水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったようである。水戸徳川家が参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため水戸城は藩主の居城としての役割を担っていなかったのである。
江戸時代の櫓は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。天守は建造されず、3重5階建ての御三階櫓があった。
御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。また、三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存している。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されている。
現在の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしている。
本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていたが、明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路(県道232号市毛水戸線)として、本丸と二の丸の間の堀は鉄道(JR水郡線)として転用された。
御三階櫓
水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。初重下部を石垣の代わりに海鼠壁で覆い、あたかも石垣の上に3重の櫓が建っているかのように見せていた。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)の水戸空襲により焼失した。なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは現在水戸城だけである。
歴史
馬場・佐竹時代
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
- 1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
- 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転居させられた(久保田藩)。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
徳川時代
1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充し二の丸に居館を構えた。天守は構えず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。
近現代
水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。翌1872年(明治5年)7月19日に東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯し、東京鎮台の第4分営となった[1]。
- 1945年(昭和20年)8月2日 水戸空襲により三階櫓を焼失。
- 1952年(昭和27年) 弘道館が国の特別史跡に指定される。
- 1964年(昭和39年) 弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定される(塀は附(つけたり)指定)。
- 1967年(昭和42年) 土塁と空堀が茨城県の史跡に指定される。
- 1983年(昭和58年) 薬医門が茨城県の指定建造物となる。
- 2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(14番)に選定された。
復元整備事業
平成に入ってから水戸市によって大手門などの整備計画が策定され復元などが進められている[2][3][4]。
2015年、大手門復元に向け寄付を募る「一枚瓦城主」が始まった[5][6]。同年4月には三の丸「杉山門」が復元され周辺も整備された[7]。
現地状況
- 所在地
- 茨城県水戸市三の丸
- 交通アクセス
- JR常磐線「水戸」駅から徒歩約8分
- 一般公開状況
旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。
- 旧本丸 - 茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
- 旧二の丸 - 道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。
- 旧三の丸 - 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。
参考文献
- 『太政類典』。国立公文書館デジタルアーカイブを閲覧。
- 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年。ISBN 4-253-00375-3。
- 清水 哲「水戸城跡 一般県道市毛水戸線道路改良事業地内埋蔵文化財調査報告書」『茨城県教育財団文化財調査報告 329』財団法人茨城県教育財団、2010年。
関連項目
脚注
外部リンク
- 茨城県営都市公園 - 公式サイト
- 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)常陸国水戸城絵図あり
- 全国遺跡報告総覧- 奈良文化財研究所