秋田大助
秋田 大助(あきた だいすけ、1906年1月14日 - 1988年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員、自治大臣、法務大臣。戦前に衆議院議長を務めた秋田清の長男。「策士」と称された父親と対照的に、地味で穏健な学究肌の政治家であった。
来歴・人物
徳島県三好郡足代村(現・東みよし町)に生まれる。旧制高知高等学校を経て、1932年東京帝国大学経済学部を卒業、東邦電力に入社する。戦前は実業界で活躍した。
戦後の1946年、第22回衆議院議員総選挙に旧徳島全県1区から無所属で立候補し初当選する(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。以後当選12回。院内交渉団体「新政会」を経て、赤沢正道らとともに協同民主党結成(1946年)に参加する。以後、国民協同党、社会革新党、民主党、改進党、日本民主党、自由民主党と政党を渡り歩く。自民党時代、派閥は岸派から川島派へと移るが、川島派を継いだ椎名派が解散した後は、福田派に所属した。
科学技術政務次官、衆院文教、社会労働、外務の各委員長を経て、1970年、第3次佐藤内閣にて自治大臣として入閣する。同年7月、僻地医療従事者養成のための医学専門学校構想を表明。2年後の1972年、自治医科大学設立として結実した。翌1971年には問題発言で引責辞任した小林武治の後任として1週間ほど法務大臣を兼任した。その後1972年から4年間、衆議院副議長を務めるが、1976年の総選挙では落選を喫した。
また、1959年に自民党同和対策特別委員会の委員長代理に就任して以来、同和対策事業特別措置法(1969年)の制定に尽力し、その後の延長についても精力的に取り組むなど、自民党における同和問題の第一人者としても知られた。
またプロレス界とも関わりがあり、1976年に開催された『格闘技世界一決定戦』アントニオ猪木対モハメド・アリ戦のウィットネス(立会人)を務めている[1]。
1983年、総選挙での落選により政界を引退。1988年11月29日死去。1976年、勲一等旭日大綬章受章。
脚注
- ↑ “今年6月に逝去したモハメド・アリ氏を偲び、40年前の異種格闘技戦直筆サイン入り宣誓書や公開調印式のメニュー入りチケットなど、当時を振り返る貴重な品々が登場” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 京王プラザホテル, (2016年10月17日) . 2017閲覧.
議会 | ||
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先代: 長谷川四郎 |
衆議院副議長 第51代:1972年 - 1976年 |
次代: 三宅正一 |
先代: 福田篤泰 |
衆議院外務委員長 1968年 |
次代: 北沢直吉 |
先代: 中野四郎 |
衆議院社会労働委員長 1962年 - 1963年 |
次代: 田口長治郎 |
先代: 臼井荘一(代理) |
衆議院文教委員長 1960年 |
次代: 浜野清吾 |
公職 | ||
先代: 小林武治 |
法務大臣 第27代:1971年 |
次代: 植木庚子郎 |
先代: 野田武夫 |
自治大臣 第16代:1970年 - 1971年 |
次代: 渡海元三郎 |