チャック・イェーガー

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チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガーCharles Elwood "Chuck" Yeager 1923年2月13日 - )は、アメリカ陸軍及びアメリカ空軍軍人。退役時の階級は、空軍准将[1]。公式記録において世界で初めて音速を超えた人物として知られる。

生涯

前半生

1923年ウェストバージニア州リンカーン郡マイラの貧しい家庭に生まれる。1941年9月12日陸軍航空軍に一兵士として入隊し、飛行機整備士となる。1943年にはパイロットの資格を取得。第357航空群で訓練を重ねた後に、1943年11月にイギリスへ派遣され、第363戦闘飛行隊のP-51パイロットとして戦闘に参加する。1944年3月4日、7回目の出撃で敵を初撃墜。しかし翌3月5日、8回目の出撃でフランス上空において、今度は彼自身が撃墜される。3月30日にレジスタンスの力を借りてピレネー山脈を越え、スペインへ逃れた。当時の軍の規則では、敵地上空で撃墜されたパイロットはレジスタンスの秘密保護のため戦列復帰を許されていなかったが、司令部への度重なる嘆願の末、パイロットに復帰する。

1944年10月12日には、1度の出撃で5機のメッサーシュミット Bf109を撃墜したことにより、アメリカ軍最初の「1日で規定の記録を達成したエース・パイロット (ace in a day)」 の称号を受ける。終戦までに11.5機を撃墜した。その中にはジェット戦闘機Me262の初撃墜も含まれている。

1945年2月26日、グレニス・ディックハウス (Glennis Dickhouse) と結婚。4人の子供をもうけた。彼女が1990年に亡くなった後は、36歳年下のヴィクトリア・スコット・ディアンジェロ (Victoria Scott D'Angelo) と再婚した。

音の壁への挑戦

戦後は創設されたアメリカ空軍に移り、NACA (NASAの前身) の高速飛行計画に基づいて作成された機体ベルX-1 (当時の呼称はXS-1) のテストパイロットに選出された。

1947年10月14日、イェーガーが搭乗するXS-1は高度6,100 mで母機から切り離され、2基のエンジンに点火して緩上昇に移行。続いて残りの2基にも点火し、高度10,670 mをマッハ0.92で通過した。高度12,800 mに到達する前にエンジン2基をオフにして水平飛行に移り、その後再びエンジンを1基オンにして計3基で水平飛行を行った。その結果マッハ1.06を記録、人類初の有人超音速飛行となった。音速突破時に予想されていた衝撃波による振動もほとんど無く、意外なほどにあっさりと音速を越えてしまったという。彼がXS-1で飛行して通算50回目での記録であった。

チャック・イェーガーとXS-1"グラマラス・グレニス"

音速突破の2日前には落馬が原因で肋骨を骨折していたが、そのことを隠しXS-1に搭乗しようとする。しかし、搭乗口を閉めるには前かがみになる必要があり、骨折の身には困難な作業。ことが周りに知られればテストパイロットから降ろされるのは明らかであったため、同僚のジャック・リドレイ大尉にのみ事実を伝え、解決方法を求めた。リドレイはモップの柄を使うことを提案し、これにより無事搭乗口を閉めることができた。このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれている。また彼はP-51に続きXS-1にも、妻の名前にちなんで"グラマラス・グレニス(Glamorous Glennis) "という愛称を付けていた。現在、この機体はワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されている。

その後も最高速度記録を塗り替え続け、1947年11月6日にはマッハ1.36、1948年3月26日にはマッハ1.45を記録した。1953年からはX-1に関わったスタッフと共に、水平飛行でマッハ2の突破を目指す計画に参加した。しかし、11月20日にD-558-2 スカイロケットとパイロットのスコット・クロスフィールドが、先に記録を達成してしまう。イェーガーとリドレイは、これの記録を打ち破ることを誓い、"Operation NACA Weep"と名づけて挑み続けた。1953年12月12日、X-1Aでマッハ2.44を記録し、最速の男の称号を取り戻す。なおX-1Aがマッハ2.44を記録した直後に機体が左に傾き、きりもみ状態で降下を始めてしまう。あわや墜落かという事態になったが、高度8,800 mあたりで機体を立て直すことに成功し、墜落は免れた。

後半生

1962年、NASAと空軍のパイロットを養成する学校 (USAF Aerospace Research Pilot School) の校長を務める。1963年12月10日NF-104による高度記録達成に挑んだが、トラブルにより機は墜落するも無事生還を果たした。翌年の1月29日には、リフティング・ボディの実験機M2-F1の試験飛行を行っている。

1966年ベトナム戦争では、南ベトナムおよび東南アジアを担当する第405戦闘飛行隊の指揮官に任じられ、120の作戦に参加。計414時間をB-57の機上で過ごした。1968年准将に昇進し、翌年の7月には第17空軍の副司令官に任じられる。1975年ドイツ、次いでパキスタンで勤務した後、ノートン空軍基地で退役。しかし、空軍およびNASAのテストパイロットとアドバイザーは続けた。

1997年10月14日、イェーガーが打ち立てた音速突破50周年を記念する式典が開かれている。その際は、"グラマラス・グレニス III"と名付けられたF-15Dに乗り込み、50年前と同時刻の10時29分に音速を突破した。これが彼の空軍における最後の公式飛行となった。

退役後は故郷のウェストバージニア州の教育振興にも尽くし、マーシャル大学に奨学金制度 "Society of Yeager Scholars" を設立。数々の実績を評して州都チャールストンの空港(イェーガー空港)や、南チャールストンの州間高速道路77号上のカナウハ川にかかる橋(チャック・イェーガー将軍橋)には彼の名がつけられている。その他の主な活動として、EAA (Experimental Aircraft Association) の Young Eagle Program のチェアマンや、スペースシャトルチャレンジャー爆発事故(STS-51Lミッション)の際の大統領調査への協力などが挙げられる。

2004年、合衆国議会はイェーガーの少将昇進を議決、翌2005年予備役少将となった。 2007年現在、カリフォルニア州グラスバレーに在住。

2012年10月14日、史上初の音速突破が記録されてから65周年目、ネバダ州ネリス空軍基地にてF-15Dに乗り超音速飛行の再現を行った。

ライトスタッフ

イェーガーはトム・ウルフのドキュメンタリー小説「ライトスタッフ」および同書を原作とした映画の主人公の一人となった。映画ではイェーガーはテクニカル・アドバイザーとして製作に参加し、自身もカメオ出演している。ただし、映画には演出上、史実と異なる部分が存在する。X-1は(3号機がベル社の社内試験中に爆発したことはあったが)実際には墜落事故を起こしていないし、直前にイェーガーがパイロットとして選ばれたというのもフィクションである。NF-104が飛行する際にイェーガーが飛行許可を取らなかったというのも事実ではなく、ロシアの高度記録を破る許可を得なかったというのが正解である。ただし、上記のように骨折したままX-1に乗ったのは事実であるし、NF-104の射出座席によって頭と腕に三ヶ所の火傷を負ったのも事実である。

人類初の音速突破に関しては、P-47戦闘機のパイロットが急降下時に音速を突破したという証言があるが、パイロットの名前、日時など不明な点が多い。ドイツ人のハンス・ギド・ミュッケ (Hans Guido Mutke) は、1945年4月9日メッサーシュミット Me262で音速を破ったとの主張があるが、こちらは信憑性が薄いとされる。マッハ計が装備されていない機体では、高速飛行時に速度表示に誤差を生じることが指摘されている(Sound barrier)。一方、アメリカ人のジョージ・ウェルチ (George Welch) が、イェーガーが音速を突破する二週間前の10月1日に、XP-86で音速を破ったという説もあり、こちらは信憑性が高い。彼は10月14日10時29分のちょうど30分前にも音速飛行を行ったとされている。しかしこれについては、公式に認められた記録ではない。この件についてアメリカ空軍は、イェーガーとX-1は"水平飛行"で音速を突破した最初の例だと述べている。これはイェーガー以前に音速が突破されていたという主張を公式に認めたようにも取れる。ただし、人間でなくて航空機の場合においては、いわゆる「超音速機」というのは、水平飛行で音速を突破できる航空機の事であり、急降下・緩降下で音速を突破できる航空機は超音速機の範疇に含めないのは事実である(推力が不十分で水平飛行で音速を超えられない機体でも、機体強度が十分であれば降下での音速突破は可能であり、かつ造波抵抗や操縦安定性などの条件を満たせば安定して飛行する事も不可能ではない)。

語録

  • 「その飛行機が音より速く飛ぶかどうかなんてボクには関係なかった。ボクはテストパイロットとしてその飛行機を飛ばすように命じられ自分の義務を果たしただけだ。」
  • 「今まで自分が見てきた中で自分の仕事を楽しんでやっている人は、みんな仕事が出来る人でしたね。」
  • 「撃ち落としたぜ。」(初めてジェット機を見た時、あなたはどうしたかと質問されて)
  • 「もしガムを持っていたらボクに一つくれないか? 後で必ず返すよ!」(発進前にリドレイと交わしていたというジョーク。『ライトスタッフ』でも描かれている)
  • 「その一瞬静寂に包まれた。その時自分はもう死んだと感じたよ。」(初めて音速を超えた際のことを述懐して)

著書

  • 『超音速にいどむ』イーガー 福島正実訳 偕成社・少年少女世界のノンフィクション 1964
  • 『イエーガー 音の壁を破った男』レオ・ジェイノス共著 関口幸男訳 サンケイ出版, 1986年)

脚注

  1. 入隊時の階級はPrivate(二等兵)であり、兵士から将官まで上り詰めたことになる。

関連項目

外部リンク