奥野誠亮
奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年(大正2年)7月12日 - 2016年(平成28年)11月16日)は、日本の内務官僚、政治家。「おくの せいりょう」と呼ばれることもある(有職読み)。浪速製氷冷蔵社長、奈良県議、御所町長を務めた奥野貞治の子。
奈良県御所市出身。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長。平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。奈良大学理事。
経歴
内務官僚時代
旧制畝傍中学、旧制一高を経て、1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省に入省(2016年11月18日毎日新聞朝刊政治面での「奥野誠亮さん評伝」より)。
第二次世界大戦中の昭和18年に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件を指揮。
長崎への原爆投下がされた翌朝に、内務省が各省庁の官房長を集めて会議を開いたが、当時、同省地方局戦時業務課の事務官をしており、ポツダム宣言に「戦争犯罪人は処罰する」(第10条)と書かれていたため、戦犯を出さないように公文書の焼却(=証拠隠滅)を提案した[1]。
自治官僚時代
第二次世界大戦終戦後、内務省の廃止に伴い、自治庁(後の自治省、現在の総務省)に移る。自治庁税務部長、自治庁税務局長、自治省財政局長を歴任。自治官僚時代には道州制を唱えて、県制と道州制のそれぞれの長所と短所を指摘した。衆議院議員に転進した後にも、県の合併に関する法案を出したが、廃案となった[2]。
1963年(昭和38年)7月に自治事務次官に就任するが、池田勇人首相や、奥田良三奈良県知事らに口説かれ10月退官し衆議院議員総選挙に立候補[3]。
政治家時代
1963年(昭和38年)11月、第30回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から自由民主党公認で立候補し、当選。以後、13回連続当選。政治姿勢は保守派であり、憲法改正や靖国神社参拝などを主張して来た。さらに、従軍慰安婦問題でも「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開していた[4]。
1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣で文部大臣として当選4回で初入閣。1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣で法務大臣に就任。法務大臣時代にはロッキード事件裁判が進行中であり、これに関して「検察は人の道を外れたようなことをしてはならない」と述べたことが検察庁指揮権者の法務大臣として不適切な圧力ではないかとする批判を野党から受けた[5]。1987年(昭和62年)竹下内閣では国土庁長官に任命され、土地対策にその手腕が期待されていたが、1988年(昭和63年)5月9日に衆議院決算委員会で日中戦争について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」と発言[6]して批判を浴び、5月13日に国土庁長官を辞任。「国士庁長官」などと揶揄された。
通算3度の入閣を経験している。その後も、裁判官弾劾裁判所長、衆議院倫理審査会会長、自民党憲法調査会最高顧問などを務めた。
1993年の第40回衆議院議員総選挙後に自民党が結党以来初めて政権から下野することが確定すると、非自民・非共産連立参加諸党は従来の慣行を覆して比較第一党の自民党ではなく連立側から元日本社会党委員長の土井たか子を衆議院議長に擁立することを決定。通常は全会一致となる特別国会冒頭の議長選挙において、自民党は抗議の意図から敗北を承知で奥野に投票している(連立不参加の日本共産党も自党の独自候補に投票)。
2003年(平成15年)10月、第43回衆議院議員総選挙には高齢のため出馬せず、長男の奥野信亮に地盤を譲る形で政界を引退した。
反ジェンダーフリーで、選択的夫婦別姓制度にも反対していた[7]。
2015年11月の日本記者クラブでの記者会見では、未だに憲法改正が実現していないことについて「いつまでたっても戦後は終わらない。そろそろ自前の憲法を作ろう」と表明[8]。
2016年11月16日、東京都渋谷区神宮前の自宅で老衰により逝去[8]。叙正三位[9]。
親族
エピソード
- 若い頃から剣道で鍛えられ、年齢より矍鑠としていた。ある時、院内をスタスタと移動中、杖を突きながら歩く鯨岡兵輔を追い抜く際、「年長者を挨拶無しに追い抜くとは何事か!」と怒鳴られたことがある。しかし実際には、1915年9月15日生まれの鯨岡よりも、1913年7月12日生まれの奥野の方が年長者であった(衆議院議員当選は2人とも同じ1963年)。また、政界を引退した後にも、駅で岩見隆夫と遭遇した際、エスカレーターに乗った岩見がふと階段のほうを見ると、奥野がスタスタと階段を下りていたという[11]。
- 自治大臣・国家公安委員会委員長をしていた縁で「人権110番」主宰の千代丸健二と対談。「警察署長クラスに苦情・抗議を申し入れても埒が明かないときはどうすればいいのか」と問われた際に「オレのところに持って来い。国会で取り上げる」と答えた[12]。
- 2013年7月12日に100歳の誕生日を迎え、そのお祝いとして友人の綿貫民輔や島村宜伸から東京スカイツリーの見学に招かれた[13]。
著書
- 「地方財政法講話」(1949年刊)
- 「都道府県合併促進論」(1964年刊、非売品)
- 「派に頼らず、義を忘れず 奥野誠亮回顧録」(2002年刊、PHP研究所)
- 「半世紀語りて尽きず」奥野誠亮 政論集 昭和篇 (2017年刊、電子書籍、奥野しんすけ公式サイト)
- 「半世紀語りて尽きず」奥野誠亮 政論集 平成篇 (2017年刊、電子書籍、奥野しんすけ公式サイト)
所属団体
脚注
- ↑ 戦後70年 あの夏 占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 読売新聞2015年8月10日
- ↑ 非売品の著書「都道府県合併促進論」の巻末に、奥野誠亮が出した都道府県合併に関する法案が掲載されている。
- ↑ 奈良ロータリークラブ 会報No.2549-6頁。
- ↑ 日刊ゲンダイ1996年8月16日付2頁
- ↑ 参議院会議録情報 第95回国会 法務委員会 第2号 1981年11月10日参議院法務委員会議事録
- ↑ 秦郁彦によれば、奥野発言は、蘆溝橋事件は劉少奇ら中国共産党の一団が引き起こしたとの葛西純一の証言(「新資料盧溝橋事件」、成祥出版社刊)を引用して送られてきたファックスを真に受けてのものだったが、秦がその内容は信用できない所以を説明したところ、「不覚の至りだった」と憮然とした表情を見せたという(秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」、『Will』2009年2月号、193頁)。
- ↑ 夫婦別姓制度の導入を図る民法改正反対に関する請願、第154回国会、請願2115号
- ↑ 8.0 8.1 “奥野誠亮元法相が死去、103歳 保守政治家の最長老”. 産経ニュース. (2016年11月17日) . 2016閲覧.
- ↑ 『官報』6921号、平成28年12月16日
- ↑ 10.0 10.1 “【奥野元法相死去】葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会”. 産経新聞. (2016年11月17日). オリジナルの2016年11月18日時点によるアーカイブ。
- ↑ 毎日新聞「近聞遠見」
- ↑ 千代丸健二 『無法ポリスとわたり合える本』
- ↑ “奥野誠亮元法相が満100歳 スカイツリーに上る 「社会のお役に立ちたい」”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2013年7月12日) . 2013閲覧.
外部リンク
- 奥野しんすけ公式サイト
- 「半世紀語りて尽きず」奥野誠亮 政論集 昭和篇(著作・電子書籍)
- 「半世紀語りて尽きず」奥野誠亮 政論集 平成篇(著作・電子書籍)
関連項目
名誉職 | ||
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先代: 原健三郎 |
最年長衆議院議員 2000年 - 2003年 |
次代: 山中貞則 |