井上準之助
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。
生涯
帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。
第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
田中義一内閣で外務大臣候補とされるなど立憲政友会に近い人物と目されていた。しかし、金融システムの安定と経済界の整理を推進する井上に対し、銀行の正当化を進める田中政友会は衝突し、更に田中政友会の中国政策にも井上は不満を感じていた。井上は金本位制への復帰を目指す立憲民政党の濱口雄幸からの依頼で、民政党員でないにもかかわらず濱口内閣の大蔵大臣として入閣した。
大臣としては緊縮財政路線を取り金解禁を実現させた。しかし、世界恐慌もあいまって日本経済はデフレーションに陥った(昭和恐慌)。濱口雄幸の退陣後に首相となった若槻礼次郎による第2次若槻内閣でも再び大蔵大臣となり、金解禁政策をあくまでも堅持した(ドル買い問題も参照)。民政党政権を支えた井上は政友会総裁を退いた先輩の高橋是清には礼を尽くしたが、高橋の直弟子で政友会の財政金融の第一人者となっていた三土忠造とは政敵として激しく批判を繰り広げた[1]。また、緊縮財政を進める中で、海軍の予算を大幅に削減した[2]ことは、海軍軍令部や右翼の恨みを買い、統帥権干犯問題と自身の暗殺へとつながることになる。
満州事変が勃発すると、井上は同郷(大分)の南次郎陸相と親しいこともあって若槻首相に不拡大対応について期待されていた。しかし事変への対応が後手に回る中で、民政党の実力者で内相である安達謙蔵が協力内閣運動を推進すると外相の幣原喜重郎とともにこれに反対した。若槻内閣が内部分裂で倒れると井上財政は終焉し、高橋是清蔵相の元で積極財政を推進する政友会の犬養内閣が成立した。
野党に転落した民政党を井上はあくまでも支えた[3]。元老である西園寺公望に次の総理大臣候補として期待されていたという。民政党の総務を任され、第18回衆議院議員総選挙の選挙委員長も引き受けた。しかし、蔵相時代の経済の悪化などを理由に血盟団の暗殺の標的となっており、昭和7年(1932年)2月9日、選挙への応援演説に向かう途中の道で小沼正により暗殺された(血盟団事件)。墓は青山霊園にある。
日本経済聯盟会(日本経済団体連合会の前身)の結成や東洋文庫の創設に尽力。また、日本へのゴルフ普及の功労者でもあり、東京で最初のゴルフ場である『東京ゴルフ倶楽部』の設立呼びかけ人となっている。遺族によると、死の数日後にゴルフクラブ一式が贈られてきたので、ドライバー一本を棺に納めたという。
経歴
- 1869年(明治2年) 現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家の井上酒造[4]は、1804年創業の伝統ある酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している[5]。
- 教英中学中退[6]、上京後、成立学舎などに通う。
- 1888年(明治21年) 仙台の第二高等中学校予科1年次入学。高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う[7]。
- 1893年(明治26年) 帝国大学英法科入学
- 1896年(明治29年) 帝大卒業後、日本銀行入行
- 1905年(明治38年) 大阪支店長
- 1908年(明治41年) ニューヨーク駐在
- 1911年(明治44年) 横浜正金銀行副頭取に就任
- 1913年(大正2年) 横浜正金銀行頭取に就任
- 1919年(大正8年) 日本銀行総裁に就任
- 1923年(大正12年) 第2次山本内閣の大蔵大臣に就任
- 1929年(昭和4年) 濱口内閣の蔵相。金解禁に尽力
- 1930年(昭和5年) 『世界不景気と我國民の覚悟』(経済知識社)を出版
- 1932年(昭和7年)2月9日 選挙運動中に血盟団員小沼正に暗殺される(血盟団事件)。
栄典
家族
- 夫人は、男爵・毛利重輔の長女・チヨ。
- 子息、井上四郎はアジア開発銀行総裁を務めた。
- 子息、井上五郎の妻は、木戸幸一の三女の井上和子(元宮内庁侍従職女官長)[11]。
- 娘婿に三宅重光(東海銀行頭取・会長、東海旅客鉄道会長[12])。
登場する作品
脚注
- ↑ 鈴木隆『高橋是清と井上準之助』文春文庫、2012年、p140
- ↑ 大前信也『昭和戦前期の予算編成と政治』木鐸社、2006年
- ↑ 井上の横死が民政党の選挙資金の枯渇と総選挙での敗北をもたらしたとされている(井上寿一『政友会と民政党』141頁)。
- ↑ 2011年現在も大分県日田市で清酒「角の井」や焼酎を製造している。生家は、「清渓文庫」として保存され、9月から11月に限って一般公開されている。
- ↑ 杉山伸也「井上準之助研究ノート(1)」「書斎の窓」N0.610 p.39 有斐閣 2011年12月
- ↑ 『日本近現代人物履歴事典』秦郁彦、東京大学出版会、2002年。
- ↑ 『晩翠放談』土井晩翠、河北新報社、1948年
- ↑ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
- ↑ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ↑ 早川隆著『日本の上流社会と閨閥』(角川書店、1983年)、179頁より
- ↑ コトバンクより
参考文献
- 土井晩翠『晩翠放談』(河北新報社、1948年)
- 文藝春秋編『血族が語る昭和巨人伝』(文春文庫、1990年)
- 秦郁彦『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
- 杉山伸也「井上準之助研究ノート(1)」「書斎の窓」N0.610 p.39 (有斐閣 2011年12月)
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)61頁
- 鈴木隆『高橋是清と井上準之助 インフレか、デフレか』(文春新書、2012年)
- 筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治: 二大政党制はなぜ挫折したのか』 (ちくま新書、2012年)
- 井上寿一『政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか』 (中公新書、2012年)
関連項目
- 新井領一郎…ニューヨークで井上にゴルフを教える。
- 城山三郎…小説『男子の本懐』において、濱口雄幸と共に主人公としてその生涯が取り上げられた。
- 一万田尚登…日銀総裁。若いころに井上の秘書を務めたこともある。
- モルガン商会…トーマス・ラモント
外部リンク
- 第9、11代総裁:井上準之助 - 日本銀行
- 井上準之助 | 近代日本人の肖像
- コトバンク
- 経済危機に挑んだ蔵相・井上準之助の論理(1929-31年) - ダイヤモンド・オンライン
- 井上 準之助:作家別作品リスト(青空文庫)
公職 | ||
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先代: 市来乙彦 三土忠造 |
大蔵大臣 第23代:1923年9月2日 - 1924年1月7日 第30代:1929年7月2日 - 1931年12月13日 |
次代: 勝田主計 高橋是清 |
その他の役職 | ||
先代: 三島彌太郎 市来乙彦 |
日本銀行総裁 第9代:1919年3月13日 - 1923年9月2日 第11代:1927年5月10日 - 1928年6月12日 |
次代: 市来乙彦 土方久徴 |