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(内容を「 '''会津戦争'''(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年)) 慶応4 (1868) 年,奥羽,北越を舞台に官軍と旧佐幕系諸...」で置換)
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{{複数の問題|参照方法=2014年2月|出典の明記=2012年6月}}
 
{{Battlebox|
 
battle_name  = 会津戦争
 
|campaign    = 戊辰戦争
 
|image      = [[ファイル:BattleOfAizu.jpg|300px|会津戦争]]
 
|caption    = 会津戦争
 
|conflict    = [[戊辰戦争]]
 
|date        = <br/>([[天保暦|旧暦]])[[慶応]]4年閏[[4月20日 (旧暦)|4月20日]] - [[明治]]元年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]<br/>([[グレゴリオ暦]])[[1868年]][[6月10日]] - [[1868年]][[11月6日]]
 
|place      = [[陸奥国]](現在の[[福島県]])
 
|result      = [[明治維新#中央政府|新政府軍]]([[官軍]])の勝利
 
|combatant1  = [[ファイル:Flag of the Japanese Emperor.svg|25x20px]] [[明治維新#中央政府|新政府軍]]<br/>(奥羽先鋒総督府)
 
* [[ファイル:Maru ni Jyuji(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[薩摩藩]]
 
* [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[長州藩]]
 
* [[ファイル:Tosa Kasiwa(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[土佐藩]]
 
* [[ファイル:Daki hana Gyouyou (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[佐賀藩]]
 
* [[ファイル:Arima Mokkou (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[大村藩]]
 
* [[ファイル:Maru ni Jyuji(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[佐土原藩]]
 
* [[ファイル:Sagara Ka(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[人吉藩]]
 
* [[ファイル:Nakatu Uchiwa(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[中津藩]]
 
* [[ファイル:Mon ogasawara.svg|25x20px]] [[小倉藩]]
 
* [[ファイル:Marunouchinimitsuhikiryo.svg|25x20px]] [[岩国藩]]
 
* [[ファイル:Alex K Hiroshima Asano kamon.svg|25x20px]] [[広島藩]]
 
* [[ファイル:Bizenn Chou (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[岡山藩]]
 
* [[ファイル:Bizenn Chou (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[鳥取藩]]
 
* [[ファイル:Hoshi Umebachi inverted.svg|25x20px]] [[今治藩]]
 
* [[ファイル:Mitsubaaoi.svg|25x20px]] [[紀州藩]]
 
* [[ファイル:Hikone Tahibana(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[彦根藩]]
 
* [[ファイル:Kuyo.svg|25x20px]] [[大垣藩]]
 
* [[ファイル:Mitsubaaoi.svg|25x20px]] [[尾張藩]]
 
* [[ファイル:Kaga Umebachi(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[加賀藩]]
 
* [[ファイル:Japanese Crest rokumonsen.svg|25x20px]] [[松代藩]]
 
* [[ファイル:mutu Hosi(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[松本藩]]
 
* [[ファイル:Japanese Crest Maru ni Katabami.svg|25x20px]] [[上田藩]]
 
* [[ファイル:Maru ni Hon moji(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[飯山藩]]
 
* [[ファイル:Sakakibara Genji kuruma(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[高田藩]]
 
* [[ファイル:Maru ni Hidari Mannji(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[新発田藩]]
 
* [[ファイル:Obata Uchiwa(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[忍藩]]
 
* [[ファイル:Goka ni Karahana (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[館林藩]]
 
* [[ファイル:mutu Hosi(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[宇都宮藩]]
 
* [[ファイル:Otawara clan kamon.jpg|25x20px]] [[黒羽藩]]
 
* [[ファイル:No image available.svg|25x20px]] [[大田原藩]]
 
* [[ファイル:Mitsubaaoi.svg|25x20px]] [[天狗党|水戸藩天狗党]]
 
* [[ファイル:No image available.svg|25x20px]] [[守山藩]]
 
* [[ファイル:No image available.svg|25x20px]] [[三春藩]]
 
* [[ファイル:Japanese Crest Uesugi Sasa.svg|25x20px]] [[米沢藩]]など
 
|combatant2  = [[ファイル:Tokugawa Aoi(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[江戸幕府|旧幕府軍]]<br/>([[ファイル:Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg|25x20px]] [[奥羽越列藩同盟]])
 
* [[ファイル:Aizu Aoi (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[会津藩]]
 
* [[ファイル:Maru ni chigai Takanoha(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[棚倉藩]]
 
* [[ファイル:Take ni Suzume.svg|25x20px]] [[仙台藩]]
 
* [[ファイル:Kuyo (inverted).svg|25x20px]] [[相馬中村藩|中村藩]]
 
* [[ファイル:Kuyo Tomoe (inverted).svg|25x20px]] [[福島藩]]
 
* [[ファイル:No image available.svg|25x20px]] [[二本松藩]]
 
* [[ファイル:Flag_of_Japan.svg|25x20px]] [[幕府陸軍|歩兵第7連隊]]
 
* [[ファイル:Flag_of_Japan.svg|25x20px]] [[伝習隊]]
 
* [[ファイル:Flag_of_Japan.svg|25x20px]] [[衝鋒隊]]
 
* [[ファイル:Flag of Shinsengumi.svg|25x20px]] [[新撰組]]
 
* [[ファイル:Mitsubaaoi.svg|25x20px]] [[諸生党|水戸藩諸生党]]<ref>[[水戸藩]]・[[諸生党]]は[[奥羽越列藩同盟]]側に加勢、[[北越戦争]]参加後、1868年会津戦争・篭城戦で北越戦線から会津へ戻り会津藩内の婦女子を救済、各地で会津藩兵らと共に奮戦した。[[福島県]][[会津若松市]]一箕町の[[白虎隊|白虎隊記念館]]敷地内に、会津で命を落とした水戸藩士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。</ref>など
 
|commander1  = [[ファイル:Tosa Kasiwa(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[板垣退助]]<br/>[[ファイル:Maru ni Jyuji(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[伊地知正治]]
 
|commander2  = [[ファイル:Aizu Aoi (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[西郷頼母]]<br/>[[ファイル:Tokugawa Aoi(No background and Black color drawing).svg|25x20px]] [[大鳥圭介]]<br/>[[ファイル:Aizu Aoi (No background and black color drawing).svg|25x20px]] [[山川浩|山川大蔵]]<br/>[[ファイル:Flag of Shinsengumi.svg|25x20px]] [[斎藤一]]
 
|strength1  = 約75,000
 
|strength2  = 約9,400
 
* 藩兵約3,500<ref>うち少年兵500余</ref>
 
* その他約5,900<ref>旧幕府兵・民兵など含む、諸説あり</ref>
 
* 女性兵数十<ref>城内防衛</ref>
 
|casualties1 =
 
|casualties2 = 2,977
 
}}
 
[[ファイル:ShirakawaKomineCastle.jpg|thumb|250px|戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城]]
 
  
'''会津戦争'''(あいづせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年([[1868年]]))は、[[戊辰戦争]]の局面の一つであり、[[会津藩]]の処遇をめぐって、[[薩摩藩]]・[[土佐藩]]を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する[[奥羽越列藩同盟]]などの[[江戸幕府|徳川旧幕府]]軍との間で行われた戦いである。現在の[[福島県]][[会津|会津地方]]が主戦場となった。なお、同時期に進行していた[[越後長岡藩|長岡藩]]をめぐる戦いは[[北越戦争]]として別記する。
+
'''会津戦争'''(あいづせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年([[1868年]]))
  
== 背景 ==
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慶応4 (1868) 年,奥羽,北越を舞台に官軍と旧佐幕系諸藩との間に起った戦い。鳥羽,伏見の敗戦後 ([[鳥羽・伏見の戦い]] ) ,会津藩主[[松平容保]]は謹慎して官軍に帰順を嘆願したが,いれられず,その斡旋に立った仙台藩,米沢藩は官軍の会津追討の決定を冷酷として抗戦を決意し,奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて奥羽大同盟を組織した ([[奥羽越列藩同盟]] ) 。この同盟は,慶応4年5月には北越の諸藩も加わって三十余藩となった。官軍は九条道孝を鎮撫総督とし,板垣退助を参謀として白河口から進撃し,同盟諸藩は相次いで降伏,帰順し,9月にはついに会津若松城が陥落した。特に会津藩は落城まで3ヵ月にわたる死闘を展開し,[[白虎隊]]の悲劇でも知られるように,奥羽,北越の諸戦争中最も激しかったので,この名がある。 ([[戊辰戦争]] )
[[文久]]2年([[1862年]])、[[会津藩]]主・[[松平容保]]は[[京都守護職]]に就任し、[[新撰組]]を配下にするなどして[[尊皇攘夷]]派[[志士]]の取り締まりを強力に推進し、[[禁門の変]]においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍が破れ、[[徳川慶喜]]と共に[[江戸]]に退去した容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用してはいなかった。
 
  
[[慶応]]4年([[1868年]])3月11日、江戸城が無血開城され([[江戸開城]])、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、[[薩摩藩]]・[[長州藩]]を中心とした新政府の矛先は[[佐幕派]]の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
追討を命じられていた[[仙台藩]]、[[米沢藩]]など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、[[奥羽越列藩同盟]]を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて会津藩と[[庄内藩]]の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督[[九条道孝]]に嘆願書を提出したが、[[東征大総督府]]下参謀・[[林通顕]]による「会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく」という基本方針は既に決定しており<ref>[[大山柏]]『戊辰戦争史』</ref>、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である[[世良修蔵]]が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。
 
 
 
== 戦闘準備 ==
 
会津藩家老[[西郷頼母]]は戦況が圧倒的に不利と見て従来から主張していた和議恭順を藩主・松平容保に勧めるが<ref>[http://bukeyashiki.com/guide/connection ゆかりの人物一覧 | 会津武家屋敷]</ref>、容保は徹底抗戦を主張し[[徴兵]]に乗り出した。
 
また、藩側に逃げてきた[[農民]]や[[町人]]らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
 
 
 
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な[[租税]]を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの[[士気]]は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。
 
 
 
とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにした。
 
 
 
また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも、領民たちの恨みを深くした。
 
 
 
そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・[[馬]]・軍資金などを[[徴発]]しても、反発するどころか、歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。
 
 
 
== 経過 ==
 
=== 白河口の戦い ===
 
{{main|白河口の戦い}}
 
[[白河藩]]は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年[[6月10日]])に[[白河城]]を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・[[伊地知正治]]の指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)([[6月15日]])に白河への攻撃を開始し、[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[6月20日]])に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
 
 
 
=== 二本松の戦い ===
 
{{main|二本松の戦い}}
 
慶応4年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1868年[[8月12日]])に[[棚倉城]]が落城、[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[9月2日]])に[[三春藩]]が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]([[9月15日]])、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は[[二本松城]]を攻撃。城は落城し[[二本松藩]]主・[[丹羽長国]]は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、[[二本松少年隊]]と呼ばれた。特に[[木村銃太郎]]率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。 
 
 
 
=== 若松城下への侵攻 ===
 
{{main|母成峠の戦い|会津城籠城戦}}
 
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。[[大村益次郎]]は仙台・米沢の攻撃を主張し、[[板垣退助]]と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。
 
 
 
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な[[母成峠]]を衝いた。慶応4年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]](1868年[[10月6日]])、新政府軍は[[母成峠の戦い]]で旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して同年8月23日(1868年[[10月8日]])朝に[[若松城]]下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった[[白虎隊]]までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が[[飯盛山 (福島県)|飯盛山]]で自刃する<ref>最年少隊士の[[飯沼貞吉]]のみは蘇生し、[[昭和]]6年([[1931年]])まで生き抜いた。</ref>などの悲話が後世に伝えられている。
 
 
 
=== 降伏 ===
 
会津藩は会津若松城に篭城して抵抗し、[[佐川官兵衛]]、山口二郎([[斎藤一]])らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]([[11月6日]])、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した[[庄内藩]]が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、[[仙台城|仙台]]で[[榎本武揚]]と合流し、[[蝦夷地]](北海道)へ向かった([[箱館戦争]])。
 
 
 
会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、[[ヤーヤー一揆]](会津世直し一揆)が起きた<ref>牧野登「会津人が書けなかった会津戦争」より</ref>。
 
 
 
== 戦後処理 ==
 
[[ファイル:AizuCastle.jpg|thumb|260px|損傷した会津若松城(降伏後に撮影)]]
 
{{main|戊辰戦争}}
 
薩摩藩の軍監・[[桐野利秋]]や長州藩の参謀・[[前原一誠]]<ref>敵ながら会津藩の態度や戦いぶりに、ある種の共感に似た感情を抱いていた前原は、[[木戸孝允]]に会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いている(『幕末悲劇の会津藩主 松平容保』中経出版、2013年)</ref>の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。
 
 
 
本来であれば、家老上席にあった[[西郷頼母]]・[[田中玄清]]・[[神保内蔵助]]が[[切腹]]するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の[[萱野長修]]が、戦争責任を一身に負って切腹した。
 
 
 
江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで会津藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった<ref>中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より</ref>。
 
 
 
会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、会津若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。
 
 
 
従来は新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料、『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
 
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある<ref>{{Cite web |url = http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375|title = 会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し|publisher = 福島民報|accessdate = 2017-09-25}}</ref>。
 
 
 
領土を失った会津藩の武士らは、翌年の明治3年([[1870年]])謹慎を解かれて転封先として「[[猪苗代町]](福島県[[耶麻郡]])」と「斗南(現在の[[青森県]][[むつ市]])」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、[[移住]]して三戸藩を立てた。旧会津藩士4700名余は[[斗南藩]]称していたが、明治3年6月に名称を斗南藩と改めた。[[柴五郎]]によると「斗南」は漢詩からとったとの説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士[[秋月悌次郎]]が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとの解釈もある<ref>『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁</ref>。[[西南戦争]]では、多くの元会津藩士が薩摩の巨魁である[[西郷隆盛]]への恨みを晴らすために、政府軍に志願したといわれる。また280万石の会津藩子息出身の軍人・[[柴五郎]]などは、西郷や[[大久保利通]]など、[[薩摩藩]]出身[[政治家]]の[[死]]に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている<ref>{{cite web|url=https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/library/plan-special-feature/gannoubichoku/2016/0401-3712.html |title=ある明治人の記録:会津人柴五郞の遺書(柴 五郎著) |publisher=[[駒澤大学]] |accessdate=2017-07-15 }}</ref>。会津藩一の成績優秀者で年齢による白虎隊士除隊後から国費留学を経て東京大学総長など歴任した[[山川健次郎]]は会津藩は兵法や武器が時代遅れで松平容保は幕府への忠誠心厚くかったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかったことを評している。京都御所警備という朝廷の付近での任務に就いていたのに情報軽視や身分が硬直していた会津藩は、武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったとしている。和平主張する者を戊辰戦争末期まで排斥しいたことにも国際感覚もあった[[神保修理]]の助言通り恭順するか、最低でも[[鳥羽伏見の戦い]]後にでの圧倒的敗北後にもいた藩内強硬派こそ藩主として処罰するか説得するなどして時代の変化を理解して上手く立ち回るべきだったと述べている。山川は自身が戦後に物理学を選考した理由に会津藩の朱子学など儒学重視で理系軽視だったことをあげている。しかし、兄と共に旧会津地域の支援をし、兄の死後も1901年に困窮した会津松平家のために宮中から下賜された金銭を渡したりしている<ref>「会津戊辰戦史」、会津戊辰戦史編纂会、昭和8年刊</ref>。
 
 
 
==藩士と領民の乖離 ==
 
会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかったのに特に戦後で当時を知らない世代に「当時の会津藩士や会津藩の目線中心」で教え込まれていると指摘されている。そもそも勝敗を決した山から会津守備隊の側面への攻撃であり、その道案内をしたのは会津藩の農民たちだった。それ以前に、戊辰戦争時の不満がつのって藩内の支持を欠いていたことを、当時を知る斗南藩出身者から出版された『斗南藩史』にて指摘されている。『斗南藩史』でも会津領内では藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれた農民など領民の立場からしてみれば、長い間の施政に対する領主への不満に加わったとして会津藩や藩士がほとんど支持されていなかったことなども敗因の一つであると指摘されている。逆に明治新政府側は尊王攘夷時代に外国との戦争で危機感と中央政府の必要性を覚えて加わった農民出身者が多数自主的に参加していたことで士気も高かった。こうした会津領民の専制的な体制に対するつもりつもった感情は、会津藩士の謹慎処分後の統治を引き受けた旧会津藩が占めた統治組織へ一揆が起きたことからも明白だと指摘されている。会津藩の武士など上位層は移住処分を受けたが、実際にその他の領民はそのままだった。会津藩の上位層以外からの藩内は戦争へ関わらない派が圧倒的多数、会津藩への不満からの積極的・消極的明治政府軍支持が次、会津藩支持派は藩内の人口から見ても非武士出身者からはほとんどいなかったと記している。移住処分となった斗南藩士、つまり元会津藩士によると当時の会津藩の領民は「会津藩が勝手に戦っている」という感覚だった上に、藩への不満があった領民に相手側につかれたなど士気の差が敗因となったと記している<ref>新訂「会津・斗南藩史」,p123-136,葛西富夫 ,1992年,東洋書院</ref>。
 
 
 
== 会津戦争を描いた作品 ==
 
=== 書籍 ===
 
* [[綱淵謙錠]]『戊辰落日』([[文藝春秋]])、1978年。のち[[文春文庫]]。
 
* [[早乙女貢]]『会津士魂』(歴史小説)
 
* [[星亮一]]『会津白虎隊』(歴史小説)
 
* 宮崎十三八『物語会津戦争悲話』(歴史小説)
 
* 間島勲・小桧山六郎編『幕末・会津藩士銘々伝』
 
*[[杉山義法]]、[[小島剛夕]]『[[白虎隊 (劇画)|白虎隊]]』日本テレビ放送網株式会社、1986年 
 
 
 
=== 映像作品 ===
 
* [[花の白虎隊]](1954年 大映)
 
* [[三姉妹]](1967年[[NHK大河ドラマ]])
 
* [[獅子の時代]](1980年NHK大河ドラマ)
 
* [[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]](1986年テレビドラマ/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]])
 
* [[白虎隊 (2007年のテレビドラマ)|白虎隊]](2007年テレビドラマ/[[テレビ朝日]])
 
* [[白虎隊〜敗れざる者たち]](2013年テレビドラマ/[[テレビ東京]])
 
* [[八重の桜]](2013年NHK大河ドラマ)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[会津藩]]
 
* [[戊辰戦争]]
 
* [[中野竹子]]
 
* [[松江豊寿]]
 
* [[会津世直し一揆]]
 
* [[バルトの楽園]]
 
* [[松平容保]]
 
* [[観光史学]]
 
* [[白虎隊]]
 
 
 
{{奥羽越列藩同盟}}
 
 
{{デフォルトソート:あいつせんそう}}
 
{{デフォルトソート:あいつせんそう}}
 
[[Category:会津戦争|*]]
 
[[Category:会津戦争|*]]

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会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))

慶応4 (1868) 年,奥羽,北越を舞台に官軍と旧佐幕系諸藩との間に起った戦い。鳥羽,伏見の敗戦後 (鳥羽・伏見の戦い ) ,会津藩主松平容保は謹慎して官軍に帰順を嘆願したが,いれられず,その斡旋に立った仙台藩,米沢藩は官軍の会津追討の決定を冷酷として抗戦を決意し,奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて奥羽大同盟を組織した (奥羽越列藩同盟 ) 。この同盟は,慶応4年5月には北越の諸藩も加わって三十余藩となった。官軍は九条道孝を鎮撫総督とし,板垣退助を参謀として白河口から進撃し,同盟諸藩は相次いで降伏,帰順し,9月にはついに会津若松城が陥落した。特に会津藩は落城まで3ヵ月にわたる死闘を展開し,白虎隊の悲劇でも知られるように,奥羽,北越の諸戦争中最も激しかったので,この名がある。 (戊辰戦争 )



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