リチャード・ボーク (第6代メイヨー伯爵)
第6代メイヨー伯爵リチャード・サウスウェル・ボーク(英: Richard Southwell Bourke, 6th Earl of Mayo, KP, GCSI, PC、1822年2月21日 - 1872年2月8日)は、アイルランド出身のイギリスの政治家、貴族。
保守党政権で3期にわたってアイルランド担当大臣(1852年、1858年 - 1859年、1866年 - 1868年)を務めた後、1869年からインド総督に就任したが、1872年に任地で暗殺された。
経歴
1822年2月21日、アイルランド貴族の第5代メイヨー伯爵ロバート・ボークとその妻アンの長男として生まれる[1]。
アイルランド・ダブリンのトリニティ・カレッジやオックスフォード大学で学んだ[2]。
1847年から1852年にかけてキルデア選挙区選出の保守党所属庶民院議員を務めた。 1852年から1857年にかけてはコールレーン選挙区、1857年から1868年にかけてはコッカーマス選挙区から選出された[1]。
1852年、1858年から1859年、1866年から1868年にかけて成立した3度のダービー伯爵内閣と第1次ディズレーリ内閣においてアイルランド担当大臣を務めた[3]。
1867年8月に父の死により第6代メイヨー伯爵位を継承するが[1]、アイルランド貴族なので貴族院議員には列していない。
その後、首相ベンジャミン・ディズレーリの指名でインド総督に内定した。1868年末に自由党への政権交代があったため、任命を取り消される恐れもあったが、新首相グラッドストンは前政権の任命を取り消さなかったため、メイヨー卿は1869年1月12日からインドに着任することになった。第2次グラッドストン内閣の不拡大方針に従い、アフガンとの交渉を巧みにさばいて外交問題を鎮静化させ、インド内政に集中した[4]。
悪化している英領インド帝国財政の再建に取り組み、歳出削減と塩税や所得税導入による増税で歳入増加を目指した。歳出削減の一環で教育・医療・道路などは州政府の管轄に移し、わずかな税だけ与えてやり繰りさせた。結果的にはこれが後の連邦制の端緒となった[5][6]。
国の統計調査を目指し、メイヨー卿自らも各地を視察して回ったが、流刑地であるベンガル湾・アンダマン諸島を訪問した1872年2月8日に、死刑から終身刑に減刑されていたパシュトゥーン人流刑囚アフリディによって刺殺された。彼は歴代インド総督の中で暗殺された唯一の人物である[7]。
栄典
爵位
- 1867年8月12日、第6代メイヨー伯爵(1785年創設アイルランド貴族爵位)
- 1867年8月12日、第6代メイヨー子爵(1781年創設アイルランド貴族爵位)
- 1867年8月12日、第6代ネース男爵(1776年創設アイルランド貴族爵位)[1]
勲章
その他
家族
初代レコンフィールド男爵ジョージ・ウィンダムの娘ジュリアと結婚し、彼女との間に長男の第7代メイヨー伯爵ダーモット・ボーク(1851年 - 1927年)や次男モーリス・ボーク(1853年 - 1900年)ら4男3女を儲けた[1]。
出典
参考文献
- 辛島昇 『南アジア史 (新版 世界各国史)』 山川出版社、2004年(平成16年)。ISBN 978-4634413702。
- 浜渦哲雄 『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』 中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
公職 | ||
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先代: サー・ウィリアム・サマーヴィル准男爵 |
アイルランド担当大臣 1852年 |
次代: サー・ジョン・ヤング准男爵 |
先代: ヘンリー・アーサー・ハーバート |
アイルランド担当大臣 1858年 – 1859年 |
次代: エドワード・カードウェル |
先代: チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー |
アイルランド担当大臣 1866年 – 1868年 |
次代: ジョン・ウィルソン=パッテン |
官職 | ||
先代: サー・ジョン・ローレンス准男爵 |
インド副王兼総督 1869年 – 1872年 |
次代: サー・ジョン・ストレーチ (代理) |
アイルランドの爵位 | ||
先代: ロバート・ボーク |
第6代メイヨー伯爵 1867年 – 1872年 |
次代: ダーモット・ボーク |