八日市飛行場

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⁺1915年(大正5年)ごろ、日本に亡命中の孫文が宋慶齢夫人とともに飛行場をこれからは航空機の時代だと先を読んでのことだった。

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八日市飛行場の位置
八日市飛行場
八日市飛行場の位置

八日市飛行場 (ようかいちひこうじょう)は、かつて滋賀県神崎郡八日市町沖野ヶ原 (現・東近江市沖野)にあった大日本帝国陸軍軍用飛行場である。前身は民間飛行場であり、民間飛行場発祥の地でもあった[1]

前身

滋賀県愛知郡八木荘村(現在の愛荘町)の呉服商である荻田常三郎フランスの飛行学校に私費留学し、帰国後の1914年9月に京都市深草練兵場から八木荘村までを往復する飛行計画を立て、緊急時の不時着場として八日市町の沖野ヶ原を選定した。この飛行を実行しようと考えた荻田は八日市町長や町の有力者の協力を得て同年9月21・22日に沖野ヶ原の一部を整地した臨時飛行場にてこの飛行を決行した。22日夜の祝賀会席上で八日市町長横畑耕夫の音頭により、荻田の愛機名から名付けられた風飛行学校の設立と本格的な民間飛行場の建設が決定されたのが起源である。

飛行場造成

計画が順調に進みだした約3か月半後の1915年1月3日に深草練兵場から離陸した後に荻田は墜落死した。訃報を聞いた八日市町は飛行場事業を継続し、同年4月には地元有力者・京都の土木業者の支援を受けて飛行場の造成を開始した。同年6月に飛行場は完成したが1916年5月に孫文の依頼で中華民国兵の飛行技術訓練を行なった[2]程度で、それ以外ではあまり利用されなかった。やがて翦風飛行学校の開校も頓挫したが、1917年11月に滋賀県で陸軍の特別大演習が行なわれ、沖野ヶ原飛行場が使用された。八日市町はこの少し前から陸軍航空部隊を誘致する計画を策定していたがこれを契機に推し進めた。陸軍の飛行場を造成しようとすると広大な土地が必要なため、八日市町だけでなく隣接の村々からも土地を買収して造成を進めた。造成費用は八日市町と周辺3村、神崎郡・蒲生郡・滋賀県が支出した。

飛行場の稼動

1920年12月、陸軍に「航空第3大隊」が結成され、八日市へ配属が決定した。部隊は1921年11月から順次八日市へ移動し、1922年1月11日八日市飛行場に名称を変更した。同時に航空第3大隊の開隊式が行なわれた。1925年には冲原神社が創祀された。八日市飛行場に配備された航空第3大隊長の意向で、出兵する隊員達の安全祈願と連隊の守護神及び当地の人々を守護する神社と位置づけされた。航空第3大隊は同年に飛行第3連隊に改称して戦闘機2個中隊・偵察機1個中隊の飛行機約50機を持つ編成となった。飛行第3連隊は満州事変日中戦争に一部隊を派兵し1938年飛行第3戦隊に改称されて爆撃機部隊となった。戦隊は太平洋戦争が開始された翌年の1942年樺太豊原市に全隊移動した。その後第104教育飛行連隊が配属された。さらに太平洋戦争終戦時では、航空部隊として第8航空教育隊・飛行第244戦隊等、陸上部隊として第254飛行場大隊・独立機関砲第56中隊等が駐屯していた。戦中には飛行場の拡張も行われた。八日市では終戦直前の7月24日・25日に米軍機による銃撃があり、飛行場も攻撃され民間人4名が死亡した。

終戦後

飛行場は米軍に引き渡され、飛行機は焼却処分された。飛行場用地は一部を元の地主に返還して、残りは外地からの引揚者に農地として払い下げた。飛行場内の施設は各地に移築して学校・官庁として使用された。1914年に荻田常三郎が飛行開始してから八日市飛行場は31年で幕を閉じた。現在は跡地の一部に飛行第三連隊正門跡地の碑・飛行部隊の門柱・軍用機の格納庫の残骸が、周辺には17基の掩体壕が残されている[3]

その他

三船敏郎が第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。[4][5]

関連項目

脚注


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