「明石藩舞子台場跡」の版間の差分

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半星形稜堡で幅約70m、高さ約10mという規模で建設されるも、[[明治時代]]末の火災により上部が撤去されたため高さ6mとなった。
 
半星形稜堡で幅約70m、高さ約10mという規模で建設されるも、[[明治時代]]末の火災により上部が撤去されたため高さ6mとなった。
 
2003年~2004年の発掘調査で全容を確認できたが、保存のため埋め戻されたため、現在は台場の一部と石垣の一部が地表に露出しているだけである。
 
2003年~2004年の発掘調査で全容を確認できたが、保存のため埋め戻されたため、現在は台場の一部と石垣の一部が地表に露出しているだけである。
 
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2018/9/24/ (月) 00:26時点における最新版

明石藩舞子台場跡(あかしはんまいこだいばあと)は、兵庫県神戸市垂水区舞子公園にある砲台跡。舞子砲台跡とも。国の史跡に指定されている。

ファイル:Akashi-han Maiko-daibaato01nt3200.jpg
背景は明石海峡大橋と淡路島

概要

幕末文久3年(1863年)、将軍徳川家茂による大坂湾の海防状況視察の際に、砲台拡充の幕命を受けた明石城松平慶憲により築造された。工事は勝海舟の設計・総指揮、設備担当は幕使佐藤與之介、施工は明石藩で、ほか神戸海軍操練所等の協力による。竣工は1865年

建設の目的は、淡路島北端(淡路市)の徳島藩松帆台場跡(国の史跡)と対になって両岸から明石海峡瀬戸内海と大阪湾をつなぐ海峡)を通過する黒船を挟撃することであったが、一度も使用されることはなく現在に至っている。

建築概要

当時の一般的な台場は上部が土盛り形式であった。 しかし当台場は総石垣造である。 半星形稜堡で幅約70m、高さ約10mという規模で建設されるも、明治時代末の火災により上部が撤去されたため高さ6mとなった。 2003年~2004年の発掘調査で全容を確認できたが、保存のため埋め戻されたため、現在は台場の一部と石垣の一部が地表に露出しているだけである。

交通アクセス

周辺情報

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度37分58.5秒 東経135度1分56.2秒