奴婢
奴婢(ぬひ)は、中国と日本においては、律令制における身分階級の一つであり、良民(自由民)と賤民(非自由民)があるなかの後者の一つで、奴隷階級に相当する。奴(ぬ/やつこ)は男性の奴隷、婢(ひ/みやつこ)は女性の奴隷を意味する。朝鮮においては、起源と発展がやや異なるが、高麗時代に完成した。
奴婢は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されているが、一定の年齢に達するなど、特定の条件を満たせば解放されることもあった。基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。
中国の奴婢制度
奴婢 | |
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各種表記 | |
簡体字: | 奴婢 |
拼音: | núbì |
発音: | ヌビ |
中国では「奴婢」は奴隷の通称で、奴は男奴隷、婢は女奴隷をさすというのは前述の通りであるが、奴にはさらに僮・僕・隷の文字と合わせて、「僮奴」「僮僕」「奴僕」「奴僕」「僮隷」などと言った。奴隷もこういった表現の一つである。女奴隷は婢以外には「女奴」とも言った。私家の所有する奴隷を表す時は、「家僮(家童)」「家奴」「家婢」と言った。
また『漢書』では奴隷のことを「蒼頭奴」「蒼頭奴婢」と言い、「蒼頭」は元は兵士の意味だが、単にこれだけでも奴隷を意味するようになった。唐の時代には同様に「青衣」とも言い「臧獲」という異称もあった。金・元の時代には、驅(駈)という字が使われ「驅丁」「驅口」などと言った。
中国の奴婢制度は、律令制によって正式に国家の制度に取り込まれるが、それ以前の古代においてすでに膨大な数の奴婢が社会に存在し、労働力の中核を成していた。人民は自由民である良民と、隷属民である賤民とに区別されており、賤民はさまざまな制限を受けたが、賤民は大きく奴婢とその他に分けられ、その中でも国が保有する官奴婢と、個人が所有する私奴婢が存在した。秦・漢代においては、官奴婢は戦争捕虜や重罪を犯した氏族が中核を占めており、主に官営工場の労働や牧場などでの馬・鳥・犬などの飼育を行っていた。一方、私奴婢は、破産した農民などの債務奴隷で占められ、大地主のもとで農作業やその他の雑務に従事した。官の方が私よりも格はやや上で、私奴婢の方が数の上では圧倒的に多かった。
『史記』には、一個人に過ぎない呂不韋が家僮1万人、嫪毐でも家僮数千人を有していたという記述がある。『漢書』には、前漢末に諸侯や役人、豪商に広大な土地と数千の奴婢を所有するものが多くいて、奴婢が百姓の仕事を奪ってしまう状態であったという記述があり、哀帝は奴婢の数を諸侯王が2百名、列侯公主が百名、関内侯や官民は30名までを上限としようとしたという。『中論』によると、魏の徐幹[注 1]は、王侯官吏だけでなく、商工業の富民で奴婢を数百人持つ者が少なくなく最低でも10人は抱えてこれを酷使するので、商人などが奴隷を所有するのを禁止せよと主張したとされる。しかし『魏書』、『北斉書』、『周書』などにも、数千・数百の奴婢を所有する人物が至る所に散見され、魏晋南北朝時代を通じて奴婢は大量に所有されたり、下賜されたり、売買されていた。
奴婢は奴隷市で牛馬のように売買され、『三国志』魏書「斉王紀」(三少帝紀)には、70歳を過ぎたり病気や不具になった官奴婢までが、私奴婢として売られていたという記述がある。
北魏・隋・唐代では、律令制に組み込まれ、私奴婢は主人の管理下にあり、その主人を訴える事ができないなどと定められていた。
明・清代にも奴婢は残っていたが徐々に廃れていき、清の宣統元年(1909年)には制度としての奴婢身分は廃止された。しかし、実質的な奴隷であるクーリー(苦力)が現れ、中華人民共和国により禁止されるまでクーリーの輸出(人身売買)が続いた。
日本の奴婢制度
日本における奴婢制度は、大宝律令に始まり、前述の隋・唐の律令制を日本式に改良して導入したものであった。これは律令制の崩壊とともに消滅したので、中世に出現し江戸時代に制度化された穢多・非人との間には連続性はなく起源も異なる。
奴隷自体は、三国志魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき100人以上の奴婢を殉葬したと言う記述や、生口と呼ばれる奴隷を魏に朝貢したと言う記述が見られるように、少なくとも邪馬台国の時代には既に存在していた。また蘇我氏物部氏の争いの時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢[注 2]としたという記述がある。これらの古代から存在していた奴隷を、律令制を取り入れるときに整理しなおしたものが、日本の奴婢制度であろう。
ヤマト王権では、もともと奴隷階級であったものを「ヤツコ(夜都古)」と呼び[1]、奴婢はその子孫であるか、前述の捕虜や帰化人、あるいは罪人で奴婢に落とされた者であった。律令法においては、良民を奪って奴婢とすることは賊盗律で禁じられていたが、逆に言えば誘拐して奴婢とする習慣があったということである。経済的理由で奴婢となる者もおり、債務返済では役身折酬と呼ばれる返済方法が認められていたので、多額の負債を背負わされて奴婢に落とされて使役される者もいた。
奴婢はもともと売買の対象であったが、律令が整備される過程で田畑と同じような扱いを受けるようになり、弘仁式によると持統天皇4年(690年)に、いったん奴婢の売買が禁止されたが[2]、翌691年2月にはあらためて詔を発して官司への届出を条件に売買が許可されることになった[3]。
律令制における賤民は、
奴婢は、五色の賎の他の3種と違い戸を成すことが許されず、主家に寄生して生活した。父母のどちらかが奴婢ならば、その子も奴婢とされた。日本の律令制下における奴婢の割合は、全人口の10~20%前後だった[4]と言われ、五色の賤の中では最も多かった。公奴婢は非常に少なくその分布も近畿地方に限られた。奴婢は主に耕作に従事した農業奴隷であった。
皇朝律例によると、官司に報告することなく罪を犯した奴婢を殺した家長(=所有者)は杖罪70。罪なき奴婢を殴殺した者は徒刑3年。同じく罪なき奴婢を故殺した者は流刑二等と定められていた。
捕亡令によると、逃亡した公私の奴婢を捕まえた場合、持ち主は捕縛者に報奨することが定められていた。逃亡後1ヵ月なら奴婢の価値の1/20、1年以上ならば1/10を支払うものとされた。逃げた奴婢が病気や70歳以上の高齢で使役に利用できない場合はこれらの額が半減。奴婢が以前の持ち主のもとに逃げて捕まえられた場合も半減とされた。奴婢が幼くて持ち主を特定できない場合は立札で告知され、1年以内に名乗り出なかった場合は公奴婢に組み入れ、捕縛の報酬は官が払うことになった。
日本の奴婢制度は律令制の崩壊とともに瓦解した。
律令制崩壊後
律令制での身分制度としての奴婢は消滅したが、その後も日本では下男下女など隷属的な年季奉公人が、奴婢と称された。また経済的な奴隷は中世を通じて存在して広く売買され、これらは用途によって様々な呼称があるが、総称としては同様に奴婢と呼ばれた。平安時代以降の歴代政権も奴隷や賤民の存在を否定することはなく、法的に公認していた。人身売買はたびたび禁止されたが、それはあくまで自由民の売買を禁じたものだった。戦争による捕虜や拉致された非戦闘員など、多数の奴隷が発生した戦国時代には、スペインやポルトガルを通じて海外への輸出も行われた。このような身分制度は明治4年(1871年)の解放令まで続いた。
朝鮮の奴婢制度
奴婢 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 노비 |
漢字: | 奴婢 |
発音: | ノビ |
ローマ字: | Nobi |
朝鮮の
良賤交嫁を想定して身分制度を維持するために、1039年、高麗王朝(靖宗の治世)で婢女が生んだ子供は主人(非賤民)の所有物とされ、生母[注 3]が賤民ならば子供も奴婢とするという、「賤者随母法(奴婢随母法)」が定められた。官吏は8世代に渡って家族に奴婢がいないことが証明できないと登用されないとされ、この高麗で完成された随母主義の原則がその後も朝鮮では引き継がれた特徴である。
奴婢となったいきさつは、奴婢の子、捕虜、犯罪者、窃盗犯、逆賊の妻子で賤民に落とされた者、借金の抵当などさまざまであった。しかし最も数が多いのは王朝が滅亡した時であり、百済滅亡時には百済の民はいずれも奴婢とされたという。
奴婢は主人の所有物であり財産であって、売買・略奪・相続・譲与・担保・賞与の対象となった。奴婢の交換価値は、奴婢制度が法的に廃止された甲午農民戦争の当時で、美貌の婢一人以上を含む奴婢五人で牛一頭であった[7]。ただし、李氏朝鮮の時代には奴婢貢という賤民を対象とした税金があり、奴婢は主人に使役されながらも、王に対しても別に定められた枚数の木綿を納布する義務があった。
奴婢には、官奴婢(公賤)と私奴婢(私賤)が存在し、住まい及び結婚、職業の選択の自由に制限を受けており、法的に市場での売買が可能であった。官奴婢は、他の奴婢よりも高い地位にあり、良民と奴婢との中間のような立場であった。
官奴婢には非常に沢山の種類があり、役目によって細目化されていた。ドラマなどで有名になった医女も官奴婢から選抜されたもので、後期は薬房妓生と呼ばれた。妓生とは朝鮮において諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された婢であった。官婢には少年も含まれ、童便軍士は12歳未満の男児であった。
朝廷が功臣に下賜された官奴婢のことは丘史[注 4]と呼ばれた。朝鮮では、良民が60歳以上になった場合は、奉足(補欠の意味)として2名の奴婢が与えられた。同じく80歳以上になった場合は、侍丁として官奴婢が与えられた。
ただし、奴婢の身分から解放される場合もあった。官奴婢の一部は徴税を代行していたために、地方の農民より裕福な者も存在していた。さらに文禄・慶長の役の際には、奴婢が反乱を起こして役所に火を放ち戸籍を燃やしてしまい、それによって賤民を脱した者もいた。また、戦費を獲得するために一定の額を支払った奴婢は良民になれるようにされたため、以後、身分制度は混乱して、ある地方では37%居た奴婢が2%まで減少し、代わりに人口の9%に過ぎなかった両班が70%を占めるという状況も起きた。
また、奴婢とは別に「白丁」と呼ばれる賤民が存在した。奴婢は主人の所有物であったのに対し、彼らは誰かの所有物ではなかったが、職業は特定のものに限定され、規則をやぶれば厳罰を受け、時にはリンチで殺害された。白丁は人間ではないとされていたため、殺害犯は罰を受けなかった。
1894年の甲午改革に至って奴婢制度・白丁制度が法的に廃止されたが、奴婢・白丁といった賤民階層への差別は続き、実質的に存続していた。甲午改革を推進した金玉均は、朝鮮社会の封建的身分制度こそ不平等の根源であり、ひいては国家の腐敗、衰退の主因と主張している[8]。
朝鮮半島で実質的に奴隷制度が廃止されたのは、日韓併合の前年1909年である。この年に韓国統監府は戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない賤民階層にも姓を許可した[9]。これにより、彼らの子供たちは学校に通えるようになり、身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[9]。
だが、1980年にソウルで発行された本には「奴婢の制度は支配階級のひどい虐待のもとで、ごく最近まで続いた。1920年代においても朝鮮の家庭ではほとんど例外なく、聴直・床奴・上直・住込み女中などという奴婢を置いていた。」と記されている[7]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 中国
- 仁井田陞、国立国会図書館デジタルコレクション 「部曲・奴婢法」 『支那身分法史』 東方文化学院 、1942年 。
- 日本
- 瀧川政次郎、国立国会図書館デジタルコレクション 「奴婢階級」 『律令時代の農民生活』 刀江書院 、1944年 。
- 小島憲、国立国会図書館デジタルコレクション 「奴婢制度と人身売買の遺風」 『文化の特質と社会問題』 有斐閣 、1926年 。
- 朝鮮
- 稲葉君山 国立国会図書館デジタルコレクション 『朝鮮文化史研究』 雄山閣 、1925年 。
- 朝鮮古書刊行会 (漢文) 国立国会図書館デジタルコレクション 『朝鮮群書大系』 朝鮮古書刊行会 、1909年 。