自由民主党の派閥
ここでは日本における自由民主党の派閥について記述・説明する。
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概要
かつては派閥内の結束があり、夏は「氷代」、冬は「餅代」などと称して所属議員に資金を援助する派閥も存在し、新人議員は陣笠議員として各派閥に入り、当選回数・職歴を重ね、派閥の意向を酌みつつ政治活動に励んでいた。当時の中選挙区制における自由民主党は各選挙区で複数の候補者を擁立していたが、同一選挙区で同じ派閥に所属する候補者が複数立つことはほぼなかった。同一選挙区における自由民主党の候補者は保守層の票を奪い合うこともあり、極めて険悪な関係にあった(かつては政界で一番仲が悪い者は同一選挙区における自由民主党の議員同士とも言われた)。55年体制、特に1970年代末から1990年代初頭においては、自由民主党の派閥は五大派閥に収斂されていた。当時の中選挙区制における最大定数が5であったことから、デュヴェルジェの法則により候補者も収斂されていったためである。
第44回衆議院選挙の後では新人議員(小泉チルドレン)が派閥入会することを小泉純一郎総裁が禁じ、「新人議員研修会」を開いて党が教育すると述べた。しかし、本来はどの組織にも属さない筈の「無派閥」議員が「新人議員研修会」という形(83会)で組織的なまとまりを帯び出し、マスコミからは「小泉派か?」と評された。そして、1年後には半数近くの新人議員が派閥入会するに至っている。
役職
自由民主党内における派閥の役職は、概ね次のようになっている。
名誉会長
かつての派閥会長であった人などが就く、文字通りの名誉職。ただし、ベテラン政治家あるいは会長の相談役として、派閥内外に影響力を発揮する場合もある。石原派で置かれた最高顧問や麻生派で置かれた顧問もこれと似た性質であった。
会長
派閥のトップ。一般に派のオーナーたる会長は極めて強力な支配権を有するが、前任者より地位を引き継いだ会長はそれほどの力を持たないこともある。政治資金やポストの斡旋などで支援が期待されるため、それができない場合は前尾繁三郎のように地位を追われることもある。会長格に相当する人物の呼称である領袖(りょうしゅう)やオヤジもこれと似た性質であった。
代表
派閥の幹部。会長人事への異論が無視できない場合、旧大平派、旧亀井派、丹羽・古賀派などのように暫定的な性格を強調する意味で会長の代わりに用意される。町村派で置かれた代表世話人もこれと似た性質であった。
会長代行
派閥のナンバー2で運営の中枢を担うポスト。
座長
会合の世話役となるポスト。普段は名誉職だが、派閥のトップが欠けた場合、取りまとめ役として浮上することもある。麻生派で置かれた会長代理もこれと似た性質であった。
副会長
名誉職の意味合いがあるベテラン政治家によるポスト。
事務総長
派閥の資金管理や渉外などの実務を担当する枢要なポスト。
派閥の通称
テレビ・新聞などマスコミにおける派閥の呼称は、総じて各派の会長職にある議員の苗字から、通称で「○○派」と呼ばれる。この通称については報道機関各社独自の判断で決定されており、場合によっては各社において違った呼び方をすることもあるため[注釈 1]、主要派閥を「○○派(○○派閥)」、小派閥を「○○グループ」、派閥横断型連合を「○○政策集団」と呼んで区別することが多い(もっとも、2006年以降は「○○グループ」の呼称を「○○派」に統一する報道機関が多くなった)。派内に次期会長職を引き継ぐものがいない場合は、前会長における苗字の前に「旧」をつけて、「旧○○派」と呼ばれる[注釈 2]。
ほかに、自由民主党則で定められているわけではないが、内閣総理大臣や自由民主党執行部に就いた者はその在任期間は派閥を離脱することが慣例となっており、その間は派閥の最高幹部に会長格ポストを預けることが多い。この場合は復帰を視野に入れ、派閥の呼称の変更は行われない。会長職から離れる例が短期間に留まる場合も同様である。以下に例を挙げる。
- 中曽根康弘の総裁就任による桜内義雄の中曽根派会長就任
- 竹下登の総裁就任による金丸信の竹下派会長就任
- 小渕恵三の総裁就任による綿貫民輔の小渕派会長就任
- 森喜朗の総裁就任による小泉純一郎の森派会長就任
- 二階俊博の総務会長就任による河村建夫の二階派会長代行就任と中曽根弘文・二階派会長代行再任
ただし、高村正彦の副総裁就任により高村派から大島派に変更された例、伊吹文明の衆議院議長就任により伊吹派から二階派に変更された例、大島理森の衆議院議長就任により大島派から山東派に変更された例では、会長への復帰はなされないものと考えられており、派閥呼称は変更されている。なお、河野派会長の河野洋平が衆議院議長に就任した例では、衆議院議員を引退していた相澤英之が座長のままで派閥を取り仕切り、会長は依然河野洋平のままだったほか、麻生派会長の麻生太郎が総裁に就任した例では、中馬弘毅が座長のままで派閥を取り仕切り、会長は依然麻生太郎のままだった。
在任期間を終えてもそのまま派閥に復帰しなかった例としては、小泉純一郎総裁・石破茂政調会長・谷垣禎一総裁などが挙げられる。
特殊な例としては、田中派が挙げられる。田中角栄は1976年にロッキード事件で逮捕されて自由民主党を離党し、田中派も脱会した。田中角栄自身は田中派の会長に就任したことはなく(派閥発足時から西村英一が会長)、逮捕後も西村英一・二階堂進が派閥会長を務めたものの、マスコミにおける呼称は全て「田中派」であった。実際は派閥議員への政治資金や派閥運営の全権を田中角栄が担っており、実質的な派閥のオーナーであることが明らかだったためである。一方で、田中派が1987年に竹下派と二階堂派に分裂した例では、二階堂側が引き続き木曜クラブ(田中派の正式名称)を名乗っていたものの、マスコミでは分裂を境に二階堂グループ・旧田中派二階堂グループなどと呼ぶようになった(もっとも、この時期田中角栄は脳梗塞の後遺症によりほとんど政治活動をしていなかった)。
連立政権と派閥
派閥の俗称は「むら」である。研究者によっては、自由民主党を一つの政党ではなく「派閥と呼ばれる政党が複数集まった、長期連立政権」との見方を採る場合もある。
ここで言及されている連立政権とは、政治において政策や主張に共通点のある政党が集まって統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けて政権の担当を目標とする活動において、議会の運営におけるコミュニケーションの場として働いている組織である。
自由民主党を政党(=派閥)の集合体とみなせば、連立政権と政党における違いが見出せなくなり、政党内に存在する派閥は、連立政権を構成する政党と同様の働きをすると言える。なお、自由民主党則には派閥の規定はない。
評価と弊害
派閥政治は連立政権と同等であり、自由民主党に多様性をもたらす。これにより幾多の政治変動にも対応できる広大な支持基盤を持った政党が誕生した。価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立に至らざるを得ない。その時でも実効性のある政権を運営するのに、連立政権=派閥政治の経験は大きく役立つだろう。派閥同士の関係は険悪であったものの、日本社会党が野党であり続けることを選択した状況の中で、政治の緊張感を維持し、公明党も含めて与党であり続けた側面がある。派閥解消が要求された時期には勉強会や新人議員における教育機関としての役割も無視できず、政策集団という建前で実質的に派閥の維持が図られた。
派閥政治は政党政治の観点から批判されることがある。派閥領袖は政治資金やポストの斡旋などで支援を期待され、資金の不足しがちな若手議員や入閣適齢期の中堅議員は派閥領袖の意向に大きく左右される。これにより総裁の判断を無視した派閥領袖の意向が影響力を持つことが多々あり、密室政治や長老支配の原因となってきた。派閥から閣僚候補として推薦されるためには派閥の資金獲得に大きく貢献する必要があり、派閥の領袖になるためにはその稼ぎ頭ともならなくてはならない。派閥領袖に就くことは総理総裁候補になることの前提条件でもあり、金権政治の温床になるとの指摘もある。角福戦争に代表される派閥抗争が各派閥の行きがかり(「怨念」)を主題に争われ、政策課題が二の次となることもあった。
派閥政治は時折有効な政治ができなくなる恐れがある。派閥力学の影響で内閣総理大臣や自由民主党執行部に就任することとなり、適任とは言えない人が大きな役職を得る恐れがある。
政党間の政権交代を民主政治のあるべき姿とみなす立場からは、派閥間の政権移譲が「疑似政権交代」であり、政党間の政権交代を阻害するとして問題視する傾向もある。
小選挙区比例代表並立制は本来二大政党制による政権交代を前提とした制度であるため、保保連合構想により志帥会が結成されたものの、政治の安定に向けて一大政党制や三大政党制のような二大政党制に代わる体制を構築すべきとする勢力もあり、連立政権運営に長けた自由民主党内で志公会が結成された。
歴史
戦後、保守陣営は離合集散を繰り返しながら激しく争ったものの、最終的に保守本流の旧自由党と保守傍流の旧民主党による保守合同(1955年12月)を経て自由民主党を結成した。これは社会党再統一を経た革新陣営に対抗する必要があり、仕掛け人である三木武吉も「10年持てば」と言ったように、解党・分裂が十分にありえた。将来に備えて旧党派の基盤・人的結合を温存しようと、旧自由党・旧民主党やそれ以前の人脈をベースに経歴・信条・政策などにおいて比較的近い議員が集まることで形成されたのが自由民主党の派閥におけるルーツである。
そして、1956年12月の総裁選挙をきっかけに八派閥(通称は「8個師団」であるものの、石橋派は他派より規模が小さかったため「7個師団1個旅団」と呼ばれたこともあった)が組織され、やがて五大派閥(十日会系の福田派・木曜研究会系の田中派・宏池会系の大平派・春秋会系の中曽根派・政策研究会系の三木派)に収束していった(三角大福もしくは三角大福中も参照)[1]。
各派閥の系列における特徴としてはタカ派色のある十日会系とハト派色のある木曜研究会系が伝統的な二大勢力となっている。ただし、十日会系も財政出動による景気拡大を推進してきた過去を持つなど、多彩な特徴を有している。なお、いずれも鳩山一郎・吉田茂という自由民主党結成前からの保守の源流をそれぞれ軸に発足しているが、二系列を完成させたといえる岸信介・佐藤栄作は実の兄弟である。宏池会系は「公家集団」による名門であるものの、要所要所では潤滑油的な働きをした影の薄い役回りとなっている。春秋会系は挙党態勢を志向してきた歴史があり、政策研究会系は独自路線を志向してきた歴史がある。小派閥の離合集散が必要以上に繰り返された理由は、春秋会系の河野一郎・中曽根康弘・渡辺美智雄などといった面々の支持・被支持を巡って巧みな自由民主党内遊泳が求められたためである。保守本流と保守傍流の区別は意味をなさなくなっており、各派閥の系列(十日会系・木曜研究会系・宏池会系・春秋会系・政策研究会系)で捉えた方が自由民主党の実態に即している[2][3][4]。
派閥の変遷
×は断絶、()は離脱、「」は正式名称、【 】は現存する通称である。
- 保守本流
- 保守傍流
- 旧保守新党
- 旧のぞみ・旧無派閥連絡会
- 無派閥
また、芦田派・大麻派・北村派・広川派などの小派閥も存在した。さらに、砂田重政・賀屋興宣・一万田尚登なども派閥形成を試みている。
1970年代には田中派と福田派による角福戦争が繰り広げられ、田中派が勢力を持つこととなり、調整や根回しなどの人心掌握術により何度も自派閥議員の総裁就任を画策した田中派の政治手法に批判が集まってゆき、打破しようという目的で若手議員により「青嵐会」が結成された。また、河野洋平による「政治工学研究所」、小坂徳三郎による「新風政治研究会」、中川一郎による「自由革新同友会」、石原慎太郎による「黎明の会」、武村正義による「ユートピア政治研究会」、83会に所属する小泉チルドレンを支援した武部勤による「新しい風」などの政策集団は、そのまま代表者を領袖とする派閥に発展する可能性を持っており、石破茂による「さわらび会」と山本有二による「のぞみ」と石破茂を要とする山本有二による「無派閥連絡会」が母体となって石破派が結成された。さらに、春秋会系から離反した議員を中心に、日本のこころが設立された。
系譜図
宏池会系 | 木曜研究会系 | 十日会系 | 春秋会系 | 政策研究会系 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池田派 | 佐藤派 | 岸派 | 河野派 | 松村・三木派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森派 | 中曽根派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前尾派 | 園田派 | 三木派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福田派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大平派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田中派 | 保利派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鈴木派 | 河本派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮澤派 | 竹下派 | 二階堂派 | 安倍派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小渕派 | 三塚派 | 渡辺派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
羽田・小沢派 | 加藤派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
離党→ 新生党 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加藤派 | 河野派 | 新進党→ 自由党 | 森派 | 亀井団 | 村上派 | 山崎派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
村上・亀井派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋本派 | 保守党→ 保守新党 | 民主党→ 民進党 | 高村派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江藤・亀井派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内派 | 小里派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
復党→ 二階派 | 亀井派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹羽・古賀派 | 谷垣派 | 津島派 | 平沼団 | 伊吹派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古賀派 | 麻生派 | 町村派 | 離党→ 日本のこころ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
額賀派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岸田派 | 谷垣団 | 石破団 | 二階派 | 石原派 | 甘利団 | 大島派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石破派 | 細田派 | 山東派 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹下派 | 立憲民主党 | 希望の党 | 麻生派 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
衰退と解消の動き
結党以来、派閥の弊害が指摘されており、1963年10月の「三木答申」により穏やかな派閥解消が成立するか注目されたものの、当時の池田勇人総裁は自由民主党史上初めてとなる試みを受け流した格好となり、結局派閥解消には至らなかった。その後、1977年3月の福田赳夫総裁下と、1994年の河野洋平総裁下での野党時代に派閥解消は行われ、各派が派閥の看板を降ろし、マスコミでも「旧○○派」の通称に統一された。しかし、実質的には派閥は連綿と存続しており、派閥活動が公然と行われて総裁選挙に影響を与えた[5][6]。
脱派閥を訴えた小泉純一郎も、実際には生粋の派閥政治家だとする評価があり、出身派閥の森派を厚く遇し、長年対立関係にあった橋本派を冷遇した。しかし、自由民主党内における派閥は本来中選挙区制を前提にできており、現在の小選挙区比例代表並立制では必ずしも機能していない。一方で、小選挙区比例代表並立制においては党執行部や選挙の顔である総裁の役割が拡大し、派閥は徐々に変質しつつあるとも言われる。
第45回衆議院選挙では自由民主党が大幅に議席を減らしたため、派閥そのものが衰退する可能性もあり、実際に各派閥で退会者が相次いだ。2009年に高村派を退会して「のぞみ」を立ち上げた山本有二は、派閥が昼食を食べるサロンになったと批判した。2010年になってからは、新党結成や公認争いを巡って離党者に歯止めがかからず、派閥の退会にもつながっている。鳩山邦夫、藤井孝男、小池正勝らの離党によって、どの派閥にも属さない「無派閥」議員の人数が33人と、額賀派を抜いて自由民主党内の第二勢力となった。2011年には無派閥の議員が48人となり、自由民主党内の第一勢力となる。
「派閥と領袖」の意義における変遷
自由民主党内における派閥は、戦前の議会活動から保守合同に至る過程で形成された思想的・政策的・党派的・人的な利害関係により結ばれた集団を背景に、1956年12月の総裁選挙で組織された八派閥が原型とされる。特に、新安保発効と国民皆保険制度成立を下支えした岸信介内閣が総辞職し、池田勇人総裁が誕生した際には対立が鮮明になり派閥の再編が急速に進んだ。総裁の座を巡る権力闘争により離合集散は繰り返され、中選挙区制に対応できない小派閥は淘汰されてゆき、1970年代後半には五大派閥に収束した。
五大派閥に至る時代には国務大臣を経験した自由民主党内実力者が派閥領袖に就いており、総裁の座を争った。特に、三木武夫内閣下で発覚したロッキード事件では、田中角栄との三角代理戦争における影響もあり、派閥の争いは熾烈を極めた。
1980年の大平正芳総裁死去を受けた後継総裁に派閥領袖でない鈴木善幸が話し合いで選出され、結党以来初となる異例事態に至り(選出後に大平派を継承し、領袖となる)、総主流派体制を敷いて五大派閥による争いの沈静化に努めることになった。また、竹下登内閣下で発覚したリクルート事件では、総裁を始め派閥領袖を含む自由民主党内実力者たちが軒並み事件に関わっていたことから、1989年に再び派閥領袖でない中曽根派の宇野宗佑総裁が誕生し、宇野内閣崩壊後には河本派の海部俊樹総裁が続いた。さらに、自由民主党が下野した1993年に宮澤派の河野洋平総裁、1995年に小渕派の橋本龍太郎総裁が誕生するに至り、総裁の座は派閥領袖が競うものから選挙における顔としての価値に重きが置かれるものへと変貌した。この間に参議院議員を重視した竹下登がほぼ全派閥から支持を集めるようになり、長期に亘る「経世会支配」とその後に続く「清和会支配」の実現に至った。
そして、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと変わり、候補者選定過程で自由民主党本部の存在価値が高まった。このことにより総裁の座を争うための集団からポスト獲得互助組織へと派閥における存在目的の変質が見て取れるように、会長総裁分離が進行している[7][8]。
現在の主要派閥と展望
名称 | 通称 | 会長 | 勢力 | 衆院 | 参院 | 備考 | 先代会長 | 先々代会長 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
清和政策研究会 | 細田派 | 細田博之 | 96 | 59 | 37 | 日本民主党における岸信介の系譜に連なる第1派閥 概ねタカ派スタンスを採るが経済政策ではハト派スタンスも採る |
町村信孝 | 森喜朗 |
志公会 | 麻生派 | 麻生太郎 | 60 | 45 | 15 | 日本民主党における松村謙三の系譜に連なる第2派閥 麻生派と山東派が合流して岸田派との大宏池会構想も目指す |
麻生太郎 山東昭子 |
河野洋平 大島理森 |
平成研究会 | 竹下派 | 竹下亘 | 55 | 34 | 21 | 自由党における佐藤栄作の系譜に連なる第3派閥 ポスト田中角栄を巡り分裂を繰り返した |
額賀福志郎 | 津島雄二 |
宏池会 | 岸田派 | 岸田文雄 | 48 | 32 | 16 | 自由党における池田勇人の系譜に連なる最古参派閥 調整役に回る例が多く政策に明るいものの政争に暗い |
古賀誠 | 谷垣禎一 古賀誠 |
志帥会 | 二階派 | 二階俊博 | 44 | 36 | 8 | 日本民主党における河野一郎の系譜に連なるタカ派派閥 風見鶏と揶揄された中曽根康弘・亀井静香・二階俊博が三巨頭 |
伊吹文明 | 亀井静香 |
水月会 | 石破派 | 石破茂 | 20 | 18 | 2 | 従来の系譜を汲まないベンチャー派閥 石破茂の首相就任を目指す |
- | - |
近未来政治研究会 | 石原派 | 石原伸晃 | 12 | 11 | 1 | ポスト中曽根康弘を巡って結成された新興派閥 山崎拓がオーナーだった |
山崎拓 | 渡辺美智雄 |
無派閥 | - | - | 72 | 49 | 23 | - | - | - |
計 | 407 | 284 | 123 | - | - | - |
ほかに、「伝統と創造の会(稲田朋美会長)」、「さいこう日本(甘利明代表)」、「きさらぎ会(菅義偉顧問)」、「有隣会」、「無派閥有志の会」など、無派閥議員間での連携を模索する政策集団が様々な形態で見られる。また、第2次安倍内閣では保守系超党派議員連盟(政党横断型連合)として『創生「日本」(安倍晋三会長)』に参加する議員が多く登用されている。さらに、青年局が主として無派閥の1年生議員向けに主催する勉強会も開かれており、かつての派閥が果たした役割は分担されている。これらの政策集団には派閥と重複して参加している議員もいる。派閥には一長一短があり、教訓として生かされている。
一覧から見て取れるように、第46回衆議院選挙で自由民主党が大勝したことにより議員数が飛躍的に増加し、派閥の内実に大きな変化が生じた[9][10][11][12][13]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 自民党は決して一枚岩ではない
- ↑ 保守本流の外交とは何か(2/4ページ)
- ↑ 色あせた「保守本流」、現実は「安倍カラー」一色(2/3ページ)
- ↑ 色あせた「保守本流」、現実は「安倍カラー」一色(3/3ページ)
- ↑ 親台湾派議員の総帥に 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(4)
- ↑ 自由民主党の組織と機能
- ↑ 1980年代の自民党の派閥政治
- ↑ 経世会支配と政治改革
- ↑ 麻生太郎会長「安倍政権を力強く支えていく」 新派閥「志公会」設立記者会見詳報(5/6ページ)
- ↑ 新麻生派「第2派閥」に 山東派など合流で59人
- ↑ 自民党:石破派「水月会」20人で正式結成 総裁選に意欲
- ↑ 「石破派」が旗揚げ、安倍後継へ 派閥名「水月会」、20人参加
- ↑ 井上氏、細田派に正式入会
参考文献
- 渡邉恒雄 「保守党の解剖」『派閥』 弘文堂。
- 戸川猪佐武 「保守本流」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「党人山脈」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「角福火山」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「金脈政変」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「保守新流」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「田中軍団」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「四十日戦争」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 戸川猪佐武 「保守回生」『小説吉田学校』 学陽書房。
- 山本七平 『「派閥」の研究』 文芸春秋社。
- 朝日新聞政治部 『竹下派支配』 朝日新聞社。
- 朝日新聞政治部 『権力の代償』 朝日新聞社。
- 大家清二 『経世会死闘の七十日』 講談社。
- 石原慎太郎 「わが政治への反回想」『国家なる幻影』 文芸春秋社。
- 岩瀬達哉 「ドキュメント竹下登」『われ万死に値す』 新潮社。
- 田崎史郎 『竹下派死闘の七十日』 文芸春秋社。
- 竹下登 「竹下登回顧録」『政治とは何か』 講談社。
- 浅川博忠 『三代にわたる「変革」の血』 講談社。
- 田崎史郎 「死に顔に笑みをたたえて」『梶山静六』 講談社。
- 石原慎太郎 『天才』 幻冬舎。
- 村上誠一郎 『自民党ひとり良識派』 講談社。