塩野義製薬

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塩野義製薬株式会社(しおのぎせいやく、英語: SHIONOGI & CO., LTD.)は、大阪府大阪市中央区道修町に本社を置く、日本国内の大手製薬会社企業であり、処方箋医薬品医療用医薬品を主とする製薬企業である。公式の社名略称として「シオノギ製薬」あるいは「シオノギ」も用いられている[1][2]

社名の由来は、創業者の塩野義三郎の名に因むもの[3]。ロゴマークは、天秤で薬量を正確に計量するために用いられた分銅に由来している[4]

会社概要

2017年7月時点の時価総額は、武田薬品、アステラス製薬、大塚ホールディングス、中外製薬に次いで医薬品セクターで5位。

日経平均株価JPX日経インデックス400の構成銘柄である。

初代・塩野義三郎により創業

創業者の塩野義三郎が、1878年(明治11年)3月17日に、大阪・道修町にて薬種問屋「塩野義三郎商店」を開く。なおこの店の商号は、正確には個人名のみの「塩野義三郎」であった。ただし、義三郎個人と店に関する事柄を区別するため、「シオノギ百年」(脚注参照)などに見られるように、通常はこれを「塩野義三郎商店」としている[5]。塩野家と道修町との関係は、義三郎の祖父・初代吉兵衛[6]が、1789年(寛政元年)、道修町の薬種商「塩野屋藤兵衛」家に12歳で奉公に出た時に始まる。初代吉兵衛は、1808年(文化5年)、塩野屋藤兵衛の別家として、言わば「のれん分け」というカタチで、塩野屋吉兵衛を名乗ることとなる。"塩野"姓を名乗るのは、続く二代目吉兵衛の時である(1872年(明治5年))。なお、塩野屋という屋号自体は、道修町に残る最も古い文書(1658年(明暦4年))にも記載されており、道修町でも古いのれんを誇っていた。

和漢薬問屋から洋薬専門メーカーへ

創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後の西洋医学普及に伴い、洋薬の需要が高まると共に、1886年(明治19年)、和漢薬専門から洋薬のみを取り扱う方針に切り替える。そして1909年(明治42年)には、自家新薬第一号として「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売する。翌1911年(明治44年)には、1909年にドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)を輸入販売している。さらに1912年(大正元年)には強心剤「ヂギタミン」、1917年(大正6年)には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年(大正7年)には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売する。また家庭用医薬品として、1926年(大正15年)に皮膚病新薬「オイロ」、1929年(昭和4年)に水虫専用薬「ポンホリン」、1931年(昭和6年)に薬「カヴィドール」、1933年(昭和8年)に狭心症薬「ハセスロール」などの製品を販売する。この他、大日本臓器研究所(現:日本臓器製薬)が製造していた増血薬「マスチゲン」を取り扱ったり、また独・バイエル社の代表的薬品として知られるアスピリンのライセンスを得て、「シオノアスピリン錠」として、国内で製造販売するなどしていたことがある。

工場竣工・法人化

医薬品製造工場として、1892年(明治25年)に、相生工場[7]、1910年(明治43年)には塩野製薬所[8]1921年(大正10年)には浦江試験所[9]1922年(大正11年)には杭瀬工場[10]を建設する。同時に販路を全国に拡大するための営業活動を展開しつつ、1919年(大正8年)法人としての、株式会社 塩野義商店への改組を経て、1943年(昭和18年)に現商号に変更、総合的な医薬品製造販売メーカーとしての基礎を固めた。

抗生物質へ本格参入

第二次世界大戦直後、シオノギは製薬業界の花形商品となった抗生物質ペニシリンの開発を試みたが、技術面・資金面ともに力不足だったため、止む無く断念した。しかしその後も抗菌薬の研究をおこたることなく、医療用医薬品市場が、抗生物質全盛時代を迎えた1980年代後半にかけて、抗生物質で売上高首位を記録する[11]

主力となったのは、1960年代に新たに開発されたセファロスポリン系(セフェム系)抗生物質である。シオノギでは、製造元の米・イーライ・リリー社から、発売間もない新製品を次々と導入し、自社で製品化していった。また自社研究所で新薬の創製に成功したことで、シオノギは輸入商社としての機能に加えて、製造(製剤)能力および研究能力を兼ね備える一大医療薬品メーカーに成長した。

抗生物質薬市場衰退

シオノギは、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていた。

一方で、感染症治療薬の使用量は1980年代に入ると、耐性菌に対する懸念などから横ばい状態となり、1990年以降大幅に減少した。それに伴い、抗生物質依存度の高かったシオノギの業績は急激に落ち込んだ。それを救ったのが、クレストールである。

クレストールは、1991年(平成3年)にシオノギで創製後、1998年(平成10年)に、英・アストラゼネカ社が開発を引き継いだHMG-CoA還元酵素阻害剤(脂質異常症治療薬)である。日本での発売は2005年(平成17年)であり、2009年(平成21年)10月現在、100か国以上で承認及び80か国以上で販売されている。シオノギに入るロイヤリティーも大きく、同社は2010年以降業績を大きく持ち直した。

シオノギと医療用麻薬とのつながりは、麻薬生産者協会5社のうちの一社として、1948年昭和23年)に、モルヒネなどオピオイドの製造販売を開始したことに始まる。1989年平成元年)には、「WHO方式がん疼痛治療法」で必要な、MSコンチン錠(モルヒネ徐放錠)[12]を発売。2003年(平成15年)には、オキシコンチン錠(オキシコドン徐放錠)、さらに2007年(平成19年)には、オキノーム散(オキシコドン散剤)を発売する[13]。MSコンチン錠とオキシコドン各製剤は、共に「がん性疼痛治療薬」として、基本となる薬剤(成分および剤型)である。

業界屈指の営業部隊

種々の方法で製品化された有用な医薬品を、医療の最前線に届けるのは営業マン(プロパー)の仕事である。シオノギの営業と言えば、抗生物質全盛時代には最強の営業部隊として知られていた。文献検索や学会発表用のスライド作成だけではなく、学術的な発展のためにも処方元の医者のために限界までつくしたと言われている。そのプロパーのことを、シオノギでは当時すでにディテールマン[14][15]と呼んでいた。例えば、自社抗菌薬の特性を論理的に説明(ディテール)する手助けとして、「PK/PD理論」のさきがけともなる考え方を世界に先駆けていち早く採用[16]していた。

製薬業界全体で、プロパーの呼称をMR(医薬情報担当者)と改めたのは1993年(平成5年)のことである。そしてその後の、国家公務員倫理規程の強化、女性MRの台頭、さらには接待行為の全面的禁止が2012年(平成24年)4月から実施されるなど、医療関係者(特に医師)とMRとの関係は急速に変化してきている。そうした中で、シオノギでは2012年初頭から、ディテールマン(医科向け営業マン)の属していた「学術部」の呼称を廃止している。

1886年(明治19年)の洋薬転換後、「シオノギ」ブランド[17]で数多くの家庭用医薬品を取り扱っている。戦後に入ると、これら戦前からの家庭用薬品からは撤退し、1961年(昭和36年)大阪市福島区の工場を研究所に格上げすると共に、病院向け抗生物質へ本格参入。抗生物質分野でのシェアを不動のものとする。

現在は取り扱う医薬品の97%が医療用医薬品で占めており、主力は、高脂血症治療薬・抗生物質・癌性の疼痛治療薬である。かつては医薬品業界における同社のイメージと言えば、「抗生物質(抗菌剤)」と「強力な営業部隊」で知られ、かつて、抗生物質全盛の時代には、快進撃を続けていた医薬品メーカーであった(規模の点では、昔から武田薬品工業[18]の方が大きかったが、武田は幅広い分野に満遍なく製品を揃えるという全方位的なメーカーであると言う大きな違いがある)。しかし近年、耐性菌の問題が取り沙汰され、抗生物質自体の売れ行きが鈍くなると共に、抗生物質に大きく依存していたため、一時急激な減益で先行きが危ぶまれたが、高脂血薬のクレストール開発販売が成功した、2010年(平成22年)以降急速に業績を回復しつつある。

沿革

  • 1878年(明治11年)3月17日 - 大阪・道修町にて和漢薬問屋「塩野義三郎商店」として創業される
  • 1886年(明治19年) - 洋薬問屋へ移行
  • 1910年(明治43年) - 大阪府大阪市福島区鷺洲に工場(現:中央研究所)を竣工
  • 1919年(大正8年)6月5日 - 塩野義三郎商店と塩野製作所を合併し、株式会社塩野義商店として法人化
  • 1922年(大正11年) - 兵庫県尼崎市杭瀬に工場を竣工
  • 1944年(昭和19年) - 大阪府豊中市に神崎川工場(現:新薬研究所)を竣工
  • 1943年(昭和18年) - 現商号に変更
  • 1945年(昭和20年) - 塩野義化学工業株式会社を合併、当社の赤穂工場となる
  • 1948年(昭和23年) - 薬用歯磨きの販売で、現在のサンスターと提携
  • 1949年(昭和24年) - 東京証券取引所並びに大阪証券取引所株式上場
  • 1957年(昭和32年) - 向精神薬の合剤「ベゲタミン」を発売
  • 1963年(昭和38年) - 動物薬品部・植物薬品部を設置
  • 1964年(昭和39年)8月31日 - 一社提供番組『シオノギ・ミュージックフェア』放送開始
  • 1968年(昭和43年) - 大阪府摂津市に物流センターを備えた摂津工場を竣工
  • 1969年(昭和44年) - サンスターとの提携解消
  • 1983年(昭和58年) - 岩手県胆沢郡に金ヶ崎工場を竣工
  • 1998年(平成10年)7月1日 - 卸子会社11社を合併・再編し、オオモリ薬品株式会社となる。
  • 1998年(平成10年)8月3日 - 医薬品の製造受託を行う完全子会社武州製薬株式会社を設立(同社はノバルティス・ファーマ埼玉工場の土地・建物・設備を取得し、1999年(平成11年)1月に営業開始)。
  • 2001年(平成13年) - アメリカに子会社、シオノギUSAを設立
  • 2001年(平成13年)10月1日 - 植物薬品事業をアベンティス クロップサイエンス シオノギ株式会社(現:バイエルクロップサイエンス株式会社)へ業務移管
  • 2002年(平成14年)4月1日 - 動物薬品事業をベーリンガーインゲルハイム シオノギ ベトメディカ株式会社(現:ベーリンガーインゲルハイム ベトメディカ ジャパン株式会社)へ、臨床検査部門を株式会社シオノギバイオメディカルラボラトリーズへそれぞれ業務移管
  • 2002年(平成14年)10月1日 - 子会社のオオモリ薬品株式会社が株式会社スズケンとの統合(吸収合併)により解散
  • 2003年(平成15年)
    • 4月1日 - 不動産関連、資産管理等を行っていた子会社6社を吸収合併
    • 10月1日 - 工業薬品事業をDSL.ジャパン株式会社へ移管
  • 2004年(平成16年)4月1日 - 植物薬品・動物薬品の製造事業をハヤシアグロサイエンス株式会社へ譲渡
  • 2007年(平成19年)6月29日 - 株式会社シオノギバイオメディカルラボラトリーズの当社保有株式を株式会社エスアールエルへ売却(同社は同年8月1日に株式会社エスアールエル関西に商号変更)
  • 2008年(平成20年)
    • 4月1日 - 創業家以外で初めての代表取締役社長(プロパー社長)が誕生
    • 8月1日 - アメリカの大手製薬会社、サイエル・ファーマを買収
  • 2010年(平成22年)
  • 2014年(平成26年)
    • 5月9日 - 4番目の中期経営計画となるSGS2020(Shionogi Growth Strategy 2020)を発表。
    • 9月12日 - 大阪国税局から約400億円の申告漏れを指摘され、承服できないとして異議を申し立てることが明らかとなる[19][20]
  • 2016年(平成28年)
  • 2017年(平成29年)
  • 2018年(平成30年)
    • 6月25日 - 子会社のシオノギヘルスケア株式会社がロート製薬株式会社との間で協業に向けた資本提携が発表され、当社が保有していたシオノギヘルスケアの株式の15%を同社が取得した[23]

シオノギの感染症治療薬

サルバルサンの輸入

シオノギが感染症治療薬を取り扱う様になったのは相当古く、1910年(明治43年)に学会発表された梅毒治療薬「サルバルサン」をその年の末には開発元の独・ヘキスト社から輸入販売している。その後もシオノギは、世界の製薬企業から効能のある新薬の輸入販売を継続し、ことに米の医薬品大手のイーライ・リリー社とは、1909年(明治42年)にゼラチン・カプセルの輸入に始まり、1923年(大正12年)にはインスリンの輸入、1953年(昭和28年)にはアイロタイシン・アイロゾンの独占的販売権の締結を経て、1966年(昭和41年)ケフリンの取り扱いの他、1991年(平成3年)の塩酸バンコマイシンの輸入まで長い関係を持っていた。

ペニシリン開発失敗からシノミン(サルファ剤)開発へ

20世紀に於いて製薬業界の転機とも言えるのがペニシリンを始めとした抗生物質の発見・開発だったが、ことペリシニンに関しては第二次世界大戦直後の日本の製薬業界にとっては花形とも言え、シオノギを始め多くの会社が開発・製造に着手した。だが前述の様に、発酵技術の未熟や資金不足からシオノギは1949年(昭和24年)に開発を断念する。自社でのペニシリン開発こそ頓挫したものの、抗菌薬そのものの基礎研究はそれ以降も継続され、1953年(昭和28年)には、前出のイーライ・リリー社から導入した、マクロライド系抗生物質のアイロタイシンを、自社で製品化した。

さらに自社研究所で、持続性サルファ剤シノミン(スルファメトキサゾール)を新たに創製、1959年(昭和34年)に販売を開始した。シノミンは、翌1960年(昭和35年)には、瑞・ロシュ社へ技術導出[24]された。そしてその後、同研究所と英・ウエルカム社研究所の合同基礎研究によって、新たにST合剤(バクタ:スルファメトキサゾール・トリメトプリム製剤)として創製[25]され、今日まで世界中で広く使われている。

抗生物質最大手として

1980年代後半に医療用医薬品市場は、抗生物質全盛時代を迎える。それと共にシオノギの抗生物質の売り上げもピークに達した。その当時のシオノギの売上高の概略は以下のとおりである。総売り上げ約2,000億円[26](市場シェア5%強)で、売り上げ全体の約3分の2近くを抗生物質が占めていた(市場シェア約25%)。その中で、代表的な抗生物質の売り上げ高は、ケフラール(内服)約600億円、シオマリン(注射)約400億円であった。この2品目だけで、売り上げ全体のほぼ半分を占めていたことになる。なお、薬局薬店向け医薬品の割合は約3.5%である。「シオノギの経営」(脚注参照)

同社の主力となったのは、主にセファロスポリン系抗生物質である。セファロスポリン系(セフェム系)抗生物質は、1960年代に米・イーライ・リリー社によって製品化された新しい抗生物質である。シオノギでは、注射用剤として1965年(昭和40年)にケフリン、1967年(昭和42年)にケフロジン、そして1970年(昭和45年)に内服のケフレックスを次々と同社から導入して、自社で製品化していった。そしてその後、自社研究所で新薬創製に成功する。1981年(昭和56年)に発売されたシオマリン(世界初のオキサセフェム系抗生物質)と、1988年(昭和63年)に発売されたフルマリン(これもオキサセフェム系)であり、いずれも注射用製剤である。また内服では、ケフレックス(前述)に引き続いて、1981年発売のケフラールをイーライ・リリー社から導入、さらに自社研究所で1997年(平成9年)発売のフロモックスを創製している。これらもすべてセフェム系抗生物質である。

セフェム系抗生物質以外の、主な抗微生物薬としては、1991年(平成3年)に、イーライ・リリー社から塩酸バンコマイシン(グリコペプチド系抗生物質)を導入して販売開始。さらに自社研究所で、フィニバックス(カルバペネム系抗生物質)の創製に成功、2005年(平成17年)に販売を開始している。また2010年(平成22年)末には、ラピアクタ(抗インフルエンザウイルス剤)の販売を開始している。シオノギが米国のベンチャー企業(バイオクリスト)から導入して、日本国内で開発を行ったもので、世界初の注射用ノイラミニダーゼ阻害剤である。

その他にフラジール(メトロニダゾール)がある。1957年、仏・ローヌ・プーラン・ローラー社研究所で開発された抗トリコモナス剤である。1961年(昭和36年)国内にて販売開始、2005年(平成17年)になって、「ヘリコバクター・ピロリ除菌」(二次除菌)に関する効能・効果及び用法・用量が追加承認され、2010年(平成22年)には、除菌に関する効能・効果の範囲が拡大された。さらに2012年(平成24年)には、公知申請によって「細菌性腟症」の効能・効果及び用法・用量が追加承認された。

感染症薬適正使用推進室を創設

シオノギでは、2010年(平成22年)7月に“抗菌薬の適正使用を推進することで、耐性菌の出現を抑制し、既存抗菌薬が有効活用できる環境作りを支援する”との目的で、「感染症薬適正使用推進室」[27]を創設している。感染症治療の領域は、新薬の発売とそれに対する耐性菌の出現という、いわば“いたちごっこ”を繰り返してきた。1980年代になると、薬の使い過ぎと耐性菌の出現との関係が懸念され始め、感染症薬の使用量は、1980年代後半をピークに2010年頃には半分以下となった。そうした中で、世界中の大手企業が抗菌薬市場から撤退し、新薬の発売がほとんど見込めないという状況になっている(その半面、生活習慣病領域の規模が大きくなっている)。

しかし、耐性菌の脅威はむしろ増加している。例えば、多剤耐性菌による院内感染の社会問題化、あるいは新型インフルエンザウイルスの出現などである。シオノギは今や世界でも数少ない感染症治療薬の開発メーカーである。「感染症薬適正使用推進室」の今後の動向が注目される。

スポンサー活動

ミュージックフェア

1964年(昭和39年)の放送開始からフジテレビ系列の一部(2016年4月現在17局ネット、11局非放送)で、今日まで放送されている音楽番組『ミュージックフェア』(2001年(平成13年)4月7日から2008年(平成20年)9月27日までは『ミュージックフェア21』)のスポンサーを40年以上にわたって継続している。但し、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響から2011年(平成23年)3月19日放送分のみスポンサー自粛を行い、ACジャパンのCMで穴埋めをすることとなった。

長きにわたって、企業CM中心で放送しており、1970年代からは、声優でナレーターの野田圭一仲村秀生を起用し「シオノギはあなたの健康に奉仕するため 今日もたゆみない努力をつづけています」と銘打ち、総合ビタミン剤のポポンS、総合感冒薬(カプセル剤)のパイロンカプセル(現在はパイロンMX。なお、風邪が比較的少ない冬以外の季節は放送がなかったこともある)、解熱鎮痛剤のセデスA錠(現在は新セデス錠)の3つをセットとして、薬店で手に入る市販薬(OTC医薬品)の宣伝をミニ・インフォマーシャル形式でオンエアしていた(薬の紹介についてのナレーションは宮崎総子北浜晴子が担当した)。本編終了後のエンディングでは、シオノギの社章である分銅マークについての説明を述べるCM、という構成になっていた。

1970年代当時、日本のテレビ業界では、まだCMにおけるBGMの必要性を認識していた人物が少なかったことや、映像機材が高価であったことに加え、宣伝にも多額の費用がかかる時代だったこともあり、この番組でのシオノギのスポンサークレジットの読み上げや、CMは全て無音映像ならびに、スチル画像の連続による映像の構成、野田圭一 → 仲村秀生と宮崎総子 → 北浜晴子によるナレーションのみで放送されていた。

番組内で流れるCMは、1984年(昭和59年)の放送から、現在の放送まで一般的なCM放映に変更されたが、1997年(平成9年)3月までの番組開始ならびに番組終了の際のスポンサークレジットの読み上げは、2001年(平成13年)4月に「ミュージックフェア21」として土曜18時枠へ移動するまで、依然として無音ならびに固定画面映像という状況が続いた。

更に2009年(平成21年)10月以降、番組終了の際のスポンサークレジットの読み上げは、地上アナログ放送セミレターボックスでの放送に移行後も、依然として歌手シンガーソングライターアーティストなどの人たちがスタジオで歌っている固定画面映像、という状況が今も続いている。

なお、2001年(平成13年)の『ミュージックフェア21』のスタートと同時に、同社のローマ字表記であるSHIONOGIから「SONG(ソング)」を取り上げた、歌とクスリをテーマにした「SONG For You(ソング・フォー・ユー)」という企業CMを放送中である(三原徹司磯部弘のナレーション付)。この時はこれに加え、「SONG For You」のキャッチフレーズが、個々の製品CMにも使用されていたが、2013年6月に当社の公式サイト及びセデス・ハイのCMがリニューアルしたことを皮切りに、この前述の企業CM及びポポンSプラスのCMを除いてキャッチフレーズを外していた。2015年3月以降は「クッションコレクトEZ」のみだったが、同年11月は「コレクトXYLクリーム/さわやかコレクトW抗菌」のCMにもキャッチフレーズを付加しており、2016年4月以降はシオノギ製薬のロゴ部分をシオノギヘルスケアに差し替えしただけであるためキャッチフレーズはそのままである。

当番組の出演では、同業他社のCM出演中の歌手は原則として出演していないが、同業他社契約中であってもシオノギが手がけていない製品の場合、歌手の出演は可能となっている。また、2001年から2016年3月までの司会者だったホンジャマカ恵俊彰の場合は、相方の石塚英彦が同業他社(第一三共ヘルスケア)の一般用胃腸薬のCMに出演しているものの、グループではなく個人で扱っている関係上、恵が出演していないため問題はないとしている。

前述の『ミュージックフェア』のスポンサーを長年にわたって担当していることもあり、フジテレビとの関係[28]は非常に密接で、『ミュージックフェア』以外にも、現在も提供している『FNSの日(タイトルはその年により異なるが、2002年以降は基本的に『FNS27時間テレビ』と称している)』や、過去には『笑っていいとも!』や『クイズ!ヘキサゴン』などのスポンサーを担当したこともあった。

なお、コンシューマーヘルスケア事業がシオノギヘルスケアへ分社化された2016年4月以降、『ミュージックフェア』のスポンサークレジットは従来通り「シオノギ製薬」のままだが、同年7月に放送された30回目の『FNSの日』である『FNS27時間テレビフェスティバル!』のスポンサークレジットは「シオノギヘルスケア」となった。

人に歴史あり

『ミュージックフェア』に続き、1968年(昭和43年)から1981年(昭和56年)まで、東京12チャンネル(現:テレビ東京)系列局にて、文藝春秋の協力により、各界著名人の生涯を八木治郎の司会で紹介した『人に歴史あり』の一社提供を務めた。

モータースポーツ

1992年(平成4年)-1994年(平成6年)までF1チーム・ロータスのスポンサーとなり、1995年(平成7年)からは全日本F3000(翌年よりフォーミュラ・ニッポンに移行)のノバエンジニアリングのメインスポンサーを務め、「SHIONOGI TEAM NOVA」として1999年(平成11年)まで参戦している。

マシンには“SHIONOGI”のロゴが貼られていたが、“新ポポンS”という日本語のロゴを貼ることもあった。また、その当時の「ポポンS」のテレビCMにマシンの走行シーンを使用している。当時チーム・ロータスのドライバーだったミカ・ハッキネンジョニー・ハーバートがCMの走行シーンに登場している。

その他

1966年、「シオノギ・テレビ劇場」と「ミュージックフェア」の提供に対し、第3回ギャラクシー賞 テレビ・個人部門を受賞[29]

同社が本社を置く大阪のFM局として知られる、FM802で土曜朝6時から12時まで放送されている『SATURDAY AMUSIC ISLANDS』で午前8時から9時半までのパート、「SHINOGI SOUND FREEWAY」のスポンサーを担当していた(1990年代から2005年(平成17年)頃まで)。もともとFM802は関西のテレビ局、毎日放送が主要株主であることもあり(同社は関西の放送局の中では、毎日放送との関係が密接で、平日昼の時間にはCMが多数放送されている)、その経緯でスポンサーを担当しており、他にも毎日放送の制作で、TBS系列局で全国放映されていた『すてきな出逢い いい朝8時』、1994年(平成6年)から1999年(平成11年)までの『毎日甲子園ボウル』(全国ネットでの放送は2007年(平成19年)まで続いた)のスポンサーを担当していた事もある。

近年では時代の変化もあり、かつてから付き合いの深いフジテレビと毎日放送との関係のみならず、他のテレビ局でも同社のテレビCMが積極的に放映されるようになっており、最近では朝日放送で長年に渡り、関西ローカルで放送され続けている『おはよう朝日です[30]でスポンサーを担当するなどしている。

主な商品

医療用医薬品

CM出演者

シオノギヘルスケアに承継した一般用医薬品・医薬部外品等のCMについては、塩野義製薬時代も含めて、シオノギヘルスケア#CM出演者を参照。
  • 現在
  • 過去の出演者
    • 柳原可奈子(ニキビは皮フ科へシリーズ) - 2010年度版の30秒バージョンはアニメーション付き。このバージョンは「ミュージックフェア」限定であるため、オチは「また来週、ピンポ〜ン」で締める。
    • バナナマン(同上)
    • ブラックマヨネーズ(ニキビは皮フ科へシリーズ)
    • 尾木直樹(インフルエンザ治療) - 30秒バージョンでの当社ロゴは最後ではなく中盤で登場する。
    • 藤村俊二(がんの痛み)

製造・研究拠点

ファイル:Shionogi 01.jpg
塩野義製薬 医薬研究センター SPRC4

研究所

  • 中央研究所(大阪府大阪市福島区
    • かつては、工場だった。
  • 新薬研究所(大阪府豊中市
    • かつては神崎川工場だったが、摂津工場開設後は、研究所に建て替えた。
  • 医科学研究所(大阪府摂津市
  • 油日ラボラトリーズ(滋賀県甲賀市
    • 医療用医薬品の合成・探索・薬効評価を中心とした創薬研究、ならびに実験用動物の育成を行う。

工場・事業所

  • 杭瀬事業所(兵庫県尼崎市
    • かつては医薬品製造の拠点だったが、新薬開発や治験薬製造を中心とした医薬品開発拠点へと転換を図っている。
  • 摂津工場(大阪府摂津市)
    • バイアル注射剤をはじめ、シオノギ主力製品の製剤や小分包装などを行う。
  • 金ケ崎工場(岩手県胆沢郡金ケ崎町
    • 自社開発の抗生物質の原末から製剤・包装までの一貫製造と、開発された抗生物質の新薬のパイロット製造を行う。

脚注

  1. 『シオノギ百年』塩野義製薬株式会社、非売品(1978年3月17日
  2. 社名のカナ書きは、3代社長・塩野孝太郎就任(1953年)以来慣用化されている
  3. 塩野義のように、姓+名前一文字の形は、伊藤忠兵衛が興した伊藤忠商事や、伊藤 喜十郎が興した伊藤喜商店(現:イトーキ)などの企業のように、江戸時代から大正時代までに創業された、個人商店より始まった企業の中に多い社名である。
  4. シオノギでは、社章の分銅マークの由来を説明した上で、「分銅は、「正確」「正直」「信頼」の象徴です」と記載している。「What is SHIONOGI」 SHIONOGI & CO.,LTD.(2011年3月からシリーズで発行)
  5. 1910年(明治43年)からの広告で、店名を「薬種貿易商 塩野義三郎商店」と表示するようになっている
  6. 旧・摂津国西成郡海老江村(現在の大阪府大阪市福島区海老江)の大百姓、松中家の三男
  7. 旧:大阪府大阪市北区相生町(現在の大阪府大阪市都島区片町)に所在した。1899年(明治32年)に一旦廃業するも、1908年(明治41年)再開される。
  8. のちの淀川工場。現在の同社の中央研究所でもある。
  9. 同じく現在の中央研究所の所在する同地に所在した。
  10. 旧・兵庫県川辺郡小田村今福(現在の兵庫県尼崎市今福)
  11. 最盛期の1980年代後半、同社の抗生物質のシェアは約25%を占めていた。
  12. 「がんの痛みとの闘い」『What is SHIONOGI(第2集)』SHIONOGI & CO.,LTD.(2011年10月)、pp.28-9.
  13. MSコンチン錠、オキシコドン製剤のいずれもムンディファーマ社から導入
  14. 「薬は情報つきの化学物質である」『シオノギの経営』シオノギ製薬”神戸大学特別講座編集委員会”編、中央経済社(1989年11月20日)、p.103. ISBN 4-502-50694-X
  15. 性別には関係なく、女性MRも含めて現在もディテールマンと呼称されている
  16. 「感染症への取組み」『What is SHIONOGI(第1集)』SHIONOGI & CO.,LTD.(2011年3月)、pp.4-5.
  17. 当時はまだ家庭用洋薬そのものが少なかったため、新しく販売されたものも多く、これらの薬の中には「シオノ新薬」という表記のものも多数存在していた
  18. シオノギは1927年(昭和2年)に消炎・鎮痛用の薬を患部に塗って治療する、いわゆる現在の巴布剤を「エキシカ」と名付けて売り出し、これが大いに売れると、一方のタケダも同年同種の巴布剤を「ホスビン」と名付けて売り出すようになり、両社の間で苛烈な競争が起こると共に、激しい消耗戦に発展した。その後しばらくして、巴布剤の売れ行きも落ち着くと、両社が本社を置く道修町で肝油事業をおこなっていた伊藤千太郎商会(現:ワカサ)の創業者、伊藤千太郎の手により、1929年(昭和4年)に協定が結ばれ、両者のそれぞれの製品名をとって「エキホス」という名で販売されることになり、両社の出資により設立された二巴合名会社を通じて、製造されることになった、という事例がある。
  19. 大阪国税局からの更正通知書の受領について (PDF)”. 塩野義製薬株式会社 (2014年9月12日). . 2014閲覧.
  20. “塩野義製薬に400億円申告漏れ指摘 異議申し立てへ”. 日本経済新聞. (2014年9月13日). http://www.nikkei.com/article/DGXLZO77044500T10C14A9CC1000/ . 2014閲覧. 
  21. “シオノギヘルスケア株式会社 営業開始と人事のお知らせ” (PDF) (プレスリリース), 塩野義製薬株式会社, (2016年3月28日), http://www.shionogi.co.jp/company/news/2016/qdv9fu000000wcs9-att/160328.pdf . 2016閲覧. 
  22. 塩野義が400億円の申告漏れで提訴 追徴課税に不服 産経新聞 2016年9月2日
  23. “シオノギヘルスケアとロート製薬との協業に向けた資本提携について” (PDF) (プレスリリース), 塩野義製薬株式会社, (2018年6月25日), http://www.shionogi.co.jp/company/news/qdv9fu000001d6ay-att/180625.pdf . 2018閲覧. 
  24. シノミンは、シオノギの海外導出第一号である。
  25. 医薬品インタビューフォーム「バクタ配合錠・バクタ配合顆粒」2009年9月(改訂第8版)塩野義製薬株式会社
  26. 1987年の"医科向け"医薬品の日本における市場規模は約4.2兆円
  27. NHKクローズアップ現代「多剤耐性菌に立ち向かえ!」(2010年10月20日放送)で大きく取り上げられた。
  28. フジテレビでは『ミュージックフェア』の他に、1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)頃まで放送されていた『シオノギテレビ劇場』でもスポンサーを担当している。
  29. 第3回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
  30. 2012年4月より月曜午前7時20分台に放映中の一コーナー、「トレンド・エクスプレス」でスポンサーを担当している。

関連項目

  • 健康経営銘柄2016 -経済産業省と東京証券取引所が選定する健康経営銘柄に選定。選定は一業種一社のみ。
  • 健康経営銘柄2017 -経済産業省も東京証券取引所が選定する健康経営銘柄に2年連続で選定。選定は一業種一社のみ。
  • 医薬品
  • 医薬品卸
  • 薬品
  • 日本の企業一覧 (医薬品)
  • サンスター - 同社製歯磨き粉の販売を受託していた。商品名「サンスターシオノギ」。なお『ペンギン』印は塩野義製薬が考案した。
  • パンテーン - 現在はP&Gが販売しているヘアケア製品(女性用シャンプー・コンディショナー(リンス)製品)。元はロシュ社の製品で日本での独占販売権を所有していた。
  • 乙卯研究所 - 塩野義製薬の資金援助によって創立・運営。初代所長の近藤平三郎は塩野義商店顧問も務めた。
  • 細胞科学財団 - 塩野義製薬の資金援助によって設立・運営。塩野元三が代表を務める。
  • シオノギ製薬女子ソフトボール部

外部リンク