遠江国

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遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)

日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。

沿革

律令時代

7世紀に、地方豪族であった遠淡海国造久努国造素賀国造の領域を合併して遠江国が設置された。

国府所在地は、中世に「見付」と呼ばれたところで、現在の磐田市にあった。国府は磐田郡にあり。

東隣の駿河国との境は大井川であった。奈良時代には、大井川の流路が現在より北を流れていたため、今の栃山川以南が遠江国に含まれていた。具体的には島田市の南部・藤枝市の南部、および焼津市の南部で合併前の大井川町である[1]。大井川町の全域は、明治初期まで遠江国榛原郡であった。

中世後期から近世

室町時代には斯波氏今川氏が守護に補任される。斯波氏の遠江支配は弱く、戦国時代に元来強固な地盤をもつ東の駿河国今川氏に併呑され領国化した。今川氏は甲斐国武田氏による駿河侵攻で滅亡し、遠江の今川領国は武田氏と三河国徳川家康により分割された。武田氏はさらに遠江・三河方面への侵攻を志向する西上作戦を行い、家康は浜松城を築いて居城を移し武田氏と対峙した。武田軍と徳川軍が交戦した遠江国の地としては、二俣城高天神城三方ヶ原が有名である。武田軍が伊那地方から遠江国に入る際には、兵越峠経由の連絡線が整備された。

安土桃山時代になると、武田氏滅亡跡に武田領国を確保した家康は関東八カ国に移転し、代わって遠江国には豊臣系大名が配置され、浜松城に堀尾吉晴が、掛川城山内一豊が転入する。

江戸時代になると、吉晴は松江城に、一豊は高知城に移転する。代わって、遠江国には浜松藩掛川藩が設置され、譜代大名が入れ替わりで入った。また、江戸時代には、伊那盆地水窪木材が、天竜川の舟運を利用して遠江国平野部に運搬された。

明治維新以後

明治維新を迎えると、廃藩置県で遠江国は浜松県となった。しかし、1876年明治9年)8月21日の県合併で、浜松県は静岡県(駿河国)や足柄県の一部(伊豆国)と合併した。この決定に怒った遠江地方民は、何度か遠江国の分離を明治政府に懇願したが、いずれも却下されて終わった。

また、廃藩置県によって武士たちが失業すると、牧之原台地の開拓が実施され、緑茶畑が造成された。これ以後、小笠山周辺には、緑茶畑が多く見られる。

1889年(明治22年)に東海道本線が開通すると、江戸時代の天竜川の舟運とも重なって、浜松には綿織物工場や楽器工場が多く立地するようになった。

第二次大戦後になると、東海道新幹線東名高速道路が建設され、遠江地方は、東海地方における農業と工業の要衝となっている。

近代以降の沿革

脚注

  1. 『静岡県史』通史編 1(原始・古代篇)481-484頁。





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