「五戸町」の版間の差分
提供: miniwiki
ja>水だらけのプール |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2018/8/8/ (水) 23:11時点における最新版
Contents
地理
三戸郡北部の内陸部に位置する。町内は坂が多い。総面積の半分以上を森林が占める。
土地利用
五戸町は都市計画区域に指定されている。 五戸町の総面積17,782haの内訳は以下の通り。 都市計画区域:8,220ha(そのうち用途地域は325.7ha) 農用地:4,630ha 森林:9,278ha 原野:679ha 河川・水面・水路:228ha 道路:691ha 宅地:638ha その他:1,638ha
気候
青森県農林総合研究センターリンゴ試験場 県南果樹研究センターの資料(平成11年から平成15年までのデータ)から五戸町の気候について述べる。
- 年間平均気温 9.6度(平成11年から平成15年までの平均)
- 最高気温 35.0度(平成11年)
- 最低気温 -12.4度(平成12年)
- 降水量は 1165mm(平成11年から平成15年までの平均)
- 日照時間 1556時間(平成11年から平成15年までの平均)
- 最深積雪 90cm(平成15年)
隣接している自治体
人口
五戸町(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
歴史
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により近世以来の五戸村が単独で自治体として発足。
- 1915年(大正4年)11月1日 - 五戸村が町制を施行し五戸町となる。
- 1955年(昭和30年)7月1日 - 五戸町、浅田村、川内村が合併し五戸町となる。
- 2004年(平成16年)7月1日 - 合併により倉石村を編入。
- 2008年(平成20年)
行政
産業
金融機関
郵便
姉妹都市・提携都市
国外
- フィリピン共和国ヌエバ・ビスカヤ州バヨンボン町 - 1983年(昭和58年)12月22日提携 戦没者慰霊訪問、教育・文化・スポーツの交流
- 大韓民国忠清北道沃川郡(おくちょん) - 1997年(平成9年)8月28日提携 農業技術研修・教育・文化・スポーツの交流
学校
小学校
- 五戸町立上市川小学校
- 五戸町立切谷内小学校
- 五戸町立五戸小学校
- 五戸町立倉石小学校
中学校
- 五戸町立川内中学校
- 五戸町立五戸中学校
- 五戸町立倉石中学校
高等学校
専門学校
交通
路線バス
ほかに、民間団体「五戸循環バス運営委員会」が南部バスに運行委託をしている無料コミュニティバス「五戸ちんちんバス」もあり、病院や薬局など、五戸町中心商店街を運行している。
鉄道
東北新幹線(JR東日本)が八戸駅 - 七戸十和田駅間で約 800m ではあるが当町を通過している。ただし、ほとんどがトンネル区間である。
かつては八戸駅と五戸駅の間を南部鉄道が運行していたが、1968年の十勝沖地震の影響で廃止された。
道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- 江渡家住宅〔荒町〕国の重要文化財[1]
- 寶福寺 〔浅水字浅水〕本堂(県重宝)
- 浅水城跡 〔浅水字浅水〕現八幡宮。四戸城の候補地のひとつ。
- 野沢(ぬさ)城跡 志戸岸地区を四戸とする説を採る際の、四戸城の候補地のひとつ。
- 小渡平公園
- ひばり野公園
- わむら(上村)のカシワの木 〔倉石中市字中市〕県天然記念物、推定樹齢650 - 750年。[2]
- 旧圓子家住宅 〔倉石中市字中市〕県重宝[3]。
- 五戸町消防団第一分団屯所 〔野月〕県重宝、大正11年。[4]
- えんぶり
- 五戸まつり
- 南部駒踊り
- 旧奥州街道 現国道4号線とは別に、三戸本城(聖寿寺館)から五戸町中心部とを結ぶ。
出身有名人
- 木村秀政(博士。航空機設計者)
- 三浦方義(元プロ野球選手)
- 9代式守勘太夫(大相撲行司)
- 太田忍(レスリング2016リオデジャネイロ五輪銀メダリスト)
- 手倉森誠(2016リオデジャネイロ五輪U-23日本代表監督)
- 手倉森浩(前モンテディオ山形ヘッドコーチ)
- 下平隆宏(柏レイソル監督、元サッカー日本代表)
- 古川毅(京都サンガF.C.のU-18コーチ)
四戸(しのへ)について
一戸〜九戸の地名のうち、現在(2015年記述)のところ四戸については地域が判明していない。五戸町内には大字豊間内字志戸岸ならびに大字浅水という候補地がある。ともに浅水川沿岸であり、4kmほどの距離である。南部氏祖先光行の五男宗清から始まる四戸氏も参照のこと。
- 志戸岸 「志」がもともと「四」であったとする説。ただし周辺の丘陵には、山城であったことを推定できる遺構が発見されていない。また、この集落には寺またはその遺構も発見されておらず、根拠が乏しい。五戸町へ到る青森県道214号線はあるが、五戸町中心部からは外れている。この集落の北側には大規模な山城を設置可能な平坦な丘陵があり(現在は畜産施設として利用されているため調査不可)、浅水川上・下流に対する視界は良好である。
- 浅水 「死の辺」から「朝不見」になったという説。浅水城跡が八幡宮として現存する。古陸羽街道沿いにあり、本三戸城(聖寿寺館)と五戸城(詳細地不明、現古舘地区の駒形神社か)の中間に当たる。小規模ながら近世まで宿場町であった。中世のかなり早い時期に四戸城と四戸川が同時に浅水と改名された可能性がある(浅水川上流には他にも集落があるので、中間の集落と同名であることが不自然)。古街道の三戸との峠付近に山姥伝説がある。
- 両者の中間の浅水川南岸には野沢(ぬさ)城跡が稲荷宮として現存する。
- 岩手県二戸市の北部を二戸郡四戸郷とする説がある。四戸氏の入部(浅水より移転)によってこのように呼ばれるようになったのか、それ以前からであったのかは不明。金田一に四戸城址とする箇所がある[2]が、これは「四戸氏の居城」との意味である可能性が高い。「南部光行の五男宗清が浅水に配置され四戸氏と呼ばれるようになり、後に二戸郡北部に移転、その地を四戸郷と呼ぶようになった」とするのが合理的である。
脚注
関連項目
外部リンク
典拠レコード: