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近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、映画監督。新潟県五泉市出身。名前は有職読みできぶんとも呼ばれる。愛称は近ちゃん(こんちゃん)。
妻は『ルパン三世 1stシリーズ』、『ルパン三世 カリオストロの城』、『パンダコパンダ』、『名探偵ホームズ』などで色彩設計を担当したアニメーション色彩設計者の近藤浩子(旧名:山浦浩子、1974年結婚)。1子あり。
経歴
1965年4月、新潟県立村松高等学校に入学し、美術部に所属。先輩には漫画家の柳沢きみおがいた。1968年4月、高校を卒業して上京。東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学。講師には大塚康生がいたが、大塚は記憶にないという。同年10月1日、大塚康生に懇願し、Aプロダクション(現:シンエイ動画)に入社し、『巨人の星』、『ルパン三世』などに参加した。
1976年、日本共産党に入党。居住地の住民運動に尽力[1]。
1978年6月20日、日本アニメーションに移籍。『未来少年コナン』(宮崎駿監督)、『赤毛のアン』(高畑勲監督)などに参加した。日本アニメーションに移籍した年に、新人養成テキストブック「アニメーションの本」を共著で出版する。
1980年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムに移籍。『名探偵ホームズ』のキャラクターデザインなどを担当した。
1984年9月より、劇場アニメ『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルムを友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。1985年3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。6月から8月まで自然気胸で入院した。
1986年1月、日本アニメーションの契約社員となる。1987年1月、スタジオジブリに移籍。引き続き宮崎駿や高畑勲の監督作品で作画スタッフとして活動する。1995年、『耳をすませば』で映画監督デビュー。結果的に生涯唯一の監督作となる。作画監督を務めた『もののけ姫』(1997年)が最後の参加作品となった。
1997年の暮れに解離性大動脈瘤で倒れ、1998年1月21日に死去。満47歳没。次回作では灰谷健次郎の小説『天の瞳』のようなアニメーション作品を構想していた[2]。葬儀の出棺の際に『耳をすませば』の主題歌である「カントリー・ロード」が流された。
没後の 2014年7月4日 - 8月31日の間、新潟県立万代島美術館において、「新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展」が開催された。この後も副題を変えて各地で開催されている[3]。
宮崎駿・高畑勲との関係
前記のように、1970年代半ば以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。
高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の、宮崎は自分で絵が描けるからという助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった)[4]。米をよそう際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作、など高畑アニメが追求する実にリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。
それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。『耳をすませば』の制作中に近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、ときには宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。近藤の没後、このことについて宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている。
一方、鈴木敏夫は2018年のインタビューで、生前の近藤から「高畑さんは僕を殺そうとした。高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」という言葉を涙とともに聞いたと述べている[5]。鈴木によると、葬儀の際に火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(引用者注:高畑勲の愛称)よね」というつぶやきを漏らし、間を置いて高畑は無言でうなずいたという[5]。
表現
近藤は自分の作ったキャラクターならば、斜め仰向きの顔などどんなにむずかしいアングルでも感じよく描いてみせた。普通の口まわりの表現でもあごや頬の筋肉や骨を上手く使って自由に動かして表現を作った。口の線もただの線でなく線に表情をもたせながら、俯瞰か仰角かで基本の湾曲を定めつねに立体を意識していた。しかしその意識の仕方は、顔を石膏のような固い立体として律儀に捉えるのとは違いキャラクターを柔軟な肉でできた生身の存在として感じ、線と動きでその「実感を出す」ためだった[6]。
整理された線の達人であり洗練されたデザインセンスの持ち主であった。それは『おもひでぽろぽろ』の回想編のマンガキャラクターのアレンジなどに見られる[6]。
『赤毛のアン』では「キャラクターアニメーション」(人物の性格・ひととなりの活写)を見事に表現した[6]。
人物
好きな漫画家に高野文子、画家にはノーマン・ロックウェルなどを挙げている。
代表作
テレビ
- 巨人の星(1968年 - 1971年)動画・原画
- ルパン三世(1971年 - 1972年)パイロットフィルム、オープニング原画・原画
- ど根性ガエル(1972年 - 1974年)原画
- ガンバの冒険(1975年)原画
- 元祖天才バカボン(1975年 - 1977年)原画
- まんが日本昔ばなし・十二支の由来(1977年)作画
- 未来少年コナン(1978年)原画
- 赤毛のアン(1979年)キャラクターデザイン・作画監督
- トム・ソーヤーの冒険(1980年)原画
- 名探偵ホームズ(1984年 - 1985年)キャラクターデザイン・作画監督
- 愛少女ポリアンナ物語(1986年)原画
- 愛の若草物語(1987年)キャラクターデザイン・原画
- そらいろのたね(1992年)監督
- 海がきこえる(1993年)原画
- 金曜ロードショー 2代目オープニング(1997年 - 2009年)作画・演出
映画
- パンダコパンダ(1972年)原画
- パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻(1973年)原画
- 火垂るの墓(1988年)キャラクターデザイン・作画監督
- 魔女の宅急便(1989年)絵コンテ・作画監督
- おもひでぽろぽろ(1991年)キャラクターデザイン・作画監督
- 紅の豚(1992年)原画
- 平成狸合戦ぽんぽこ(1994年)原画
- 耳をすませば(1995年)監督
- もののけ姫(1997年)作画監督
画集
- 近藤喜文 『ふとふり返ると-近藤喜文画文集-』 徳間書店、スタジオジブリ、21.483870967742年。ISBN 4198608326。
受賞歴
- 第13回ゴールデングロス賞マネーメイキング監督賞
出典・参考文献
- アニメ6人の会 『アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際』 合同出版、494.5年。ISBN 4772600795。
- アニメージュ編集部編 『ジブリロマンアルバム・おもひでぽろぽろ』 徳間書店、1991年。ISBN 4197201591。
- 高畑・宮崎作品研究所編 『近藤喜文さん追悼文集 近藤さんのいた風景』 RST出版、95.190476190476年。
- 安藤雅司編集 『近藤喜文の仕事-動画で表現できること-』 徳間書店、64.516129032258年。
- 叶精二 『日本のアニメーションを築いた人々』 若草書房、71.571428571429年。ISBN 4948755788。
- 新潟日報 2003年9月7日掲載記事「アニメーター近藤喜文」
脚注
- ↑ 近藤喜文さんのこと2010年7月7日 土筆塾ブログ
- ↑ 機関紙『国公労新聞』第943号のインタビュー
- ↑ 近藤喜文展‐スタジオジブリ
- ↑ 高畑は後年の回想の中で「近ちゃん(近藤喜文氏)を獲得することが私の最優先、いや絶対的な課題だった」と述べ、それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している(「『火垂るの墓』から、はや二十四年」『アニメーション、折にふれて』岩波書店、2013年、pp.122 - 123。初出は『百瀬義行 スタジオジブリワークス』一迅社、2011年)
- ↑ 5.0 5.1 鈴木敏夫「高畑さんとの勝負だったこの映画。いまでも緊張の人はほどけない」『ジブリの教科書 かぐや姫の物語』文藝春秋<文春ジブリ文庫>、2018年、pp.39 - 56
- ↑ 6.0 6.1 6.2 『アニメーション、折にふれて』高畑勲 2013年12月5日 岩波書店 p.88