横浜F・マリノス
横浜F・マリノス | |
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原語表記 | 横浜F・マリノス |
呼称 | 横浜F・マリノス |
愛称 | F・マリノス、マリノス |
クラブカラー |
ブルー[1] レッド[1] ホワイト[1] |
創設年 | 1972年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | J1リーグ |
クラブライセンス | J1 |
ホームタウン | 神奈川県横浜市[1]、横須賀市[1]、大和市[1] |
ホームスタジアム |
250px 横浜国際総合競技場(日産スタジアム)[1] |
収容人数 | 72,327[1] |
運営法人 | 横浜マリノス株式会社[1] |
代表者 | 古川宏一郎[1] |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート |
横浜F・マリノス(よこはま エフ・マリノス、Yokohama F・Marinos)は、日本の神奈川県横浜市[1] および横須賀市[1]、大和市[1] をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
Contents
概要
日産自動車サッカー部を前身として1991年に創設された、Jリーグ創設時からの加盟チーム(いわゆるオリジナル10)の一つで、元々のチーム名は「横浜マリノス」だったが、1999年に同じく横浜を本拠地としたオリジナル10の横浜フリューゲルスを吸収合併した際に、フリューゲルスを表す「F」の文字を入れた。チーム名の「マリノス (Marinos)」は、スペイン語で船乗り・水夫・海兵隊員などを意味する[1]。Jリーグ公式サイト及びテレビ中継では「横浜FM」、スポーツ振興くじ(toto)では「横浜M」と略される。
チームカラーは「青・白・赤」[1] の三色(トリコロール)。この三色は元々日産自動車のコーポレートカラーであった。各色の意味合いは、青「冷静さと港町・横浜の海」、赤「スポーツに触れ合う場をつくり、皆が誇れるクラブを目指す」、白「皆に支えられ、息の長い活動を続ける、自立したサッカークラブを目指す」[2]。
ホームタウンは神奈川県横浜市、横須賀市、大和市[1]。横須賀市では1987年より夏島町追浜地区にてサッカースクールを開講している縁で2005年1月25日に、大和市は2006年より市内にてサッカースクールを開講している縁で2017年4月27日に、それぞれホームタウンへの追加が認められた[3][4]。ホームスタジアムは横浜市港北区の日産スタジアム(横浜国際総合競技場)[1]。Jリーグ発足当初より横浜市神奈川区のニッパツ三ツ沢球技場(三ツ沢公園球技場)を使用していたが、2016年よりJリーグへの届け出上の本拠地を日産スタジアムに一本化した(詳細後述)。
クラブマスコットは、カモメをモチーフとした「マリノス君」と「マリノスケ」である[1]。マリノスケは『月刊コロコロコミック』誌上で誕生、マリノス君の甥という設定。マリノスケはホームゲーム以外に地域のイベントにも参加している。2008年に横浜FM非公認のマスコットとして「ワルノス」が誕生し、「ワルノスクイーン」と共に行動している[5]。2008年の開幕戦は「トリコロールランド」でダンスを披露。2008レジェンド・オブ・F・マリノスのトレーディングカードにも登場、非売品のグッズ(バンダナなど)のプレゼントや広報活動を行っている。2010年にチームよりTシャツとコインパースが公式グッズとして発売。
クラブ増加、さらに近年オリジナル10のチームのJ2降格が相次ぐ中、下位リーグが創設後も1度も降格経験が無いクラブである。2018年現在、創設メンバーで一度も降格がないクラブは他に鹿島アントラーズのみ(合併で消滅した横浜フリューゲルスを除く)。
運営会社
運営会社である横浜マリノス株式会社は、元々は日産自動車の全額出資により設立・運営されていた(当時の商号は日産フットボールクラブ株式会社)が、横浜フリューゲルスとの経営統合時に、フリューゲルスの運営母体であった全日空スポーツを合併しており、全日空スポーツの親会社である全日本空輸 (ANA) が資本参加して「日産70%・ANA30%」の資本構成となった。2002年2月1日付でANA出資分を日産が買い取り、再び日産の完全子会社となったが、2005年2月1日付で第三者割当増資を行い、神奈川県に本社を置く7社[注 1] から0.98%ずつの出資を受けた[6]。
2014年7月、マンチェスター・シティFCを運営するシティ・フットボール・グループ (CFG) が日産自動車と「グローバルサッカーパートナーシップ」を締結[7]。これに伴い、日産自動車の保有株式(全体の約93%)のうち20%弱を取得し、日産に次ぐ第2位の株主となった[8]。なお、実際のマネジメントはCFGの全額出資により設立された日本法人「シティ・フットボール・ジャパン」となり[9]、2016年には同社社長である利重孝夫がチーム統括本部長に就任している。
歴史
前身
- 1972年創部の日産自動車サッカー部が前身[1]。
- 1979年に日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格[1]。
- 1988年-1989年のJSL1部リーグ、JSL杯、天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成。
1990年代
- 1991年にJリーグ加盟[1]。
- 1993年5月15日のJリーグの開幕試合(V川崎戦)に勝利。
- 1993年は年間4位、1994年は年間6位。
- 1993年はラモン・ディアスが28得点でJリーグ初代得点王となった。
- 1995年は1stステージで優勝。JリーグチャンピオンシップでもV川崎を下し、リーグ初優勝。
- 1999年のシーズンから、横浜フリューゲルスと合併、横浜F・マリノスへ名称を変更。
- 天皇杯は1994年がC大阪、1995年が福岡ブルックス、1996年が大塚製薬サッカー部、1997年が東京ガスサッカー部、1998年がブランメル仙台といずれもジャパンフットボールリーグ所属チームに敗北。
2000年代
オズワルド・アルディレスが監督に就任。5年ぶりに1stステージで優勝、2ndステージ優勝の鹿島とのチャンピオンシップに敗れた。中村俊輔が史上最年少でMVPを受賞。
三浦淳宏、柳想鉄等が移籍。ファーストステージ途中にアルディレス監督が解任。セカンドステージから、セバスティアン・ラザロニが監督に就任。ナビスコカップで初優勝。リーグ戦は1stステージが15位、2ndステージが10位、年間順位13位。
東京Vから日本代表の中澤佑二、磐田から奥大介(レンタル)、清水範久、札幌からウィルなどを獲得。1stステージは2位、2ndステージは6位、年間順位2位。セカンドステージ途中に成績不振を理由にラザロニ監督を解任。
2003年基本フォーメーション <4-4-2> |
監督に岡田武史が就任。広島から日本代表の久保竜彦を獲得。1stステージおよび2ndステージ共に優勝、完全優勝で年間王者を獲得。
岡田体制2年目。清水から韓国代表FWの安貞桓等を補強。昨年度の2ndステージに続きこの年の1stステージでも優勝、3ステージ連続優勝を達成。2ndステージは6位、サントリーチャンピオンシップで2ndステージ優勝の浦和と対戦、ホームは1 - 0で勝利、アウェイは0 - 1で敗退、PK戦で勝利し2年連続の年間王者となった。天皇杯は5回戦でJFL草津にVゴール負け。
岡田体制3年目。AFCチャンピオンズリーグ2005はグループステージで敗退。リーグ戦9位。
岡田体制4年目。元名古屋のFWマルケスを補強、開幕4連勝で首位に立ったが、第5節(浦和戦)以降の15試合で2勝と低迷。8月に岡田が監督を辞任、水沼貴史が後任監督に就任、前年と同じ9位で終了。この年が最後の年間負け越しシーズンである。
みなとみらいの『マリノスタウン』へクラブ事務所などを移転。奥大介、久保竜彦、ドゥトラなどのベテラン選手が退団、ユース・高校・大学からの若手選手が加入。監督に早野宏史が11年振りに就任し、前監督の水沼はコーチ就任。
FWの大島秀夫と坂田大輔、トップ下の山瀬功治が2ケタ得点をマーク。大島は日本人最多得点、坂田はフェアプレー個人賞受賞、山瀬は日本代表にも選出。前年度を上回る7位でリーグ戦を終了したが、目標とした3位以内には届かなかった。天皇杯終了後に監督の早野、コーチの水沼・高橋真一郎・武藤覚らが退任。横浜FCとの横浜ダービーが開催され、横浜FCホームの第2節は0-1で敗れたが、横浜FMホームの第19節はチーム新記録の1試合8得点を記録し、8 - 1で勝利。なお同試合の前夜に日産スタジアム付近で「JUST GEDO」という名称のサポーター団体が横浜FCサポーターを暴行するという事件を起こし逮捕されている。[11]
磐田元監督の桑原隆が監督就任。4月に3位につけたが、第9節の東京V戦から第19節のFC東京戦まで10試合連続で勝利無し(クラブタイ記録の公式戦6連敗も記録)で、第16節時点で16位へ転落。7月に桑原が解任、後任に統制本部長の木村浩吉が就任。第20節のG大阪戦で勝利を挙げると、第22節の札幌戦の勝利で降格圏を脱出した。年間順位は9位。天皇杯は準決勝でG大阪に敗退。
- 2009年
- チームスローガン:Enjoy・Growing・Victory
木村吉体制2年目。田中隼磨が名古屋、乾貴士がC大阪、大島秀夫が新潟に移籍した。
リーグ戦13得点を挙げた渡邉千真や天野貴史、飯倉大樹などの抜擢・台頭、長谷川アーリアジャスールの成長、坂田大輔、狩野健太らの復調など、上位の鹿島、川崎、清水、名古屋にホームゲームで勝利している一方、下位の山形に逆転負けを喫し、この年J2に降格となった柏、千葉に2引き分けした。結局18チーム中10位に終わり、3年契約だった木村は監督契約を解除。
2010年代
- 2010年
- チームスローガン:ACTIVE
元日本代表でクラブOBの木村和司が監督就任。6年ぶり復帰の波戸康広、エスパニョールから8年ぶりの復帰の中村俊輔、藤田優人、バスティアニーニが入団。本シーズンは入場者数が前年比17.6%の増加となった。リーグ戦は一時上位争いに加わったが、最終順位8位。
最終節前に松田直樹や山瀬功治などと契約更新しないと発表。最終節の大宮戦に敗北した後、この決定に反発したサポーターの前で社長の嘉悦朗が「2011年シーズンで3位以内でなければ辞任する」と発表。
シーズン終了後、松田(JFL・松本へ移籍)、山瀬(川崎へ移籍)のほか、田中裕介(川崎)、河合竜二(札幌)、清水範久(福岡)、坂田大輔(ギリシャ1部・アリス・テッサロニキ)、浦田延尚(鳥栖)、JFL金沢に期限付き移籍していた斎藤陽介(新潟S)がそれぞれ移籍、草津に期限付移籍していた梅井大輝が退団、藤田優人が横浜FC、齋藤学が愛媛FC、田代真一がJFL・町田に1年間の期限付移籍をし、シーズン途中に栃木SCに期限付移籍した水沼宏太が、同クラブへの期限付移籍期間を1年延長した。
- 2011年
- チームスローガン:進化する心・技・体 ACTIVE 2011
木村和体制2年目。清水から青山直晃、川崎からユース出身の谷口博之、柏から小林祐三、東京Vから昨シーズンFC東京にレンタル移籍していた大黒将志を獲得、昨シーズン山形にレンタル移籍していた金根煥が復帰。4月30日付けで阿部陽輔が退団した。
リーグ戦は前半戦を首位で折り返した。後半戦も川崎に4 - 0で勝利する(9月14日、ナビスコカップ第1回戦)などしたが、やがて優勝争いからも脱落。最終順位5位。天皇杯は準決勝で京都に延長戦で敗退。12月30日、監督の木村和司を解任。
8月12日に松田直樹(8月4日死去)が在籍時に使用していた背番号3を永久欠番にすると発表[12]。Jリーグ創設以来、サポーターナンバーを除いて初の永久欠番となった。
シーズン終了後、波戸康広が現役を引退、横浜FCへ期限付移籍中の藤田優人(柏へ移籍)、秋元陽太(愛媛FCへ移籍)、渡辺千真、長谷川アーリアジャスール(共にFC東京へ移籍)、端戸仁(北九州へ期限付き移籍)、武田英二郎(千葉へ期限付き移籍)、金根煥(鳥栖へ期限付き移籍)がそれぞれ移籍、田代真一が、町田への期限付き移籍期間を1年延長。
- 2012年
- チームスローガン:All for Win
樋口靖洋が監督に就任。東京Vから富澤清太郎、福岡から六反勇治と中町公祐、アトレチコ・ミネイロから2003年に在籍していたマルキーニョスを獲得、愛媛FCへ期限付き移籍していた齋藤学が復帰。シーズン開幕後の3月23日、かつて6シーズン在籍したドゥトラが、約6年ぶりに復帰。
序盤はチームワーストの開幕7戦未勝利であったが、第8節(神戸戦)から第22節(川崎戦)まで15戦無敗の成績。シーズン中はマルキーニョスと富澤清太郎らのプレッシングに長けた移籍組が年間を通して活躍をみせ、秋口の連敗を経て再度順位をあげてゆき年間最少敗戦、最少失点を含めた4位でシーズンを終えた。天皇杯は準決勝で柏に敗退。
シーズン終了後、松本怜(大分へ期限付き移籍)、松本翔(愛媛FCへ期限付き移籍)、金井貢史(鳥栖へ期限付き移籍)、大黒将志(杭州緑城へ期限付き移籍)、青山直晃(甲府へ移籍)、森谷賢太郎(川崎へ移籍)、小野裕二(スタンダール・リエージュへ移籍)、谷口博之、狩野健太(共に柏へ移籍)、水沼宏太(期限付き移籍先の鳥栖へ移籍)、金根煥(新潟へ移籍)がそれぞれ移籍し、千葉へ期限付き移籍していた武田英二郎が鳥取に期限付き移籍。
- 2013年
- チームスローガン:All for Win -Realize-
樋口体制2年目。SAGAWA SHIGA FCから奈良輪雄太、千葉から藤田祥史、相模原からファビオを獲得し、町田へ期限付き移籍していた田代真一、北九州へ期限付き移籍していた端戸仁、中国スーパーリーグ・杭州緑城へ期限付き移籍していた丁東浩が復帰。開幕から6連勝で第1節から第7節まで首位をキープ。第15、16節で4位に順位を下げたが、第21節で首位に浮上。第23節からは第28節を除いて第33節まで首位に立ったが、第33節、第34節(ホームの新潟戦、アウェーの川崎戦)と勝てば優勝という残り2節を続け様に落とし、残り2節を連勝した広島に優勝を奪われリーグ戦2位の成績。
ナビスコ杯は準決勝で柏に敗退。天皇杯は決勝で広島に勝利。日産FC横浜マリノスの名称であった第72回大会以来の優勝(日産自動車時代を含めて7度目の優勝)[13]。
シーズン終了前に、マルキーニョス(後に神戸へ移籍)、丁東浩(蔚山現代へ移籍)が退団。
シーズン終了後に、天野貴史(千葉へ期限付き移籍)、田代真一(千葉へ移籍)、比嘉祐介(京都へ期限付き移籍)、金井貢史(期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍)、鳥取へ期限付き移籍中の武田英二郎(福岡へ期限付き移籍)がそれぞれ移籍した。
更に、中村俊輔がMVPを史上最年長で受賞した。
- 2014年
- チームスローガン:All For Win -Fight it out!-
樋口体制3年目。新潟から三門雄大、大宮から下平匠、名古屋から藤本淳吾、清水から伊藤翔、川崎から矢島卓郎を獲得。愛媛FCへ期限付き移籍していた松本翔が復帰。
FUJI XEROX SUPER CUPでは2013年シーズンの公式戦は3戦全勝していた広島に0-2で敗れ、初優勝を逃す。
9年ぶりに出場したAFCチャンピオンズリーグ2014では、第5節まで全チーム勝ち点7にひしめく大混戦、最終節で前年王者の広州恒大に敗れ、決勝トーナメント進出を逃す。
リーグ戦、マルキーニョス退団の穴を埋められず得点力不足に陥り、W杯中断中まで12と低迷。得点力不足打破のため、群馬・G大阪にも在籍したラフィーニャをKリーグ・蔚山現代FCから完全移籍で獲得。
天皇杯3回戦では、J2北九州に延長戦を含めシュート30本を浴びせ(北九州は9本)圧倒しながら、延長後半アディショナルタイムに渡大生に逆転ゴールを許し2-3で敗退[14]、また4月から、天皇杯優勝マークをつけた2014年度版の特別ユニフォームをサポーター向けに販売していたが、生産上の理由から発送は9月上旬となっており、サポーターが着用する機会がないまま大会を終えることとなった[15]。
8月23日に三ツ沢で行われた神奈川ダービー、川崎戦では、横浜FMゴール裏で観戦していたサポーターが川崎の選手の前でバナナを振り回す差別的行為を行う事件が起きた。クラブ側は当該サポーターに対し、無期限入場禁止処分を下し[16]、Jリーグからはけん責及び制裁金500万円の処分が下された[17]。最終順位7位。
シーズン終了後、樋口監督が退任。小椋祥平(G大阪)、藤田祥史、鳥取へ期限付き移籍中の武田英二郎(湘南)、六反勇治(仙台)、松本怜(期限付き移籍先の大分に完全移籍)、松本翔(山口へ期限付き移籍)がそれぞれ移籍。
- 2015年
- チームスローガン:Integral Goal - All for Win -
フランス人のエリク・モンバエルツが監督就任[18]。
期限付き移籍していた熊谷アンドリュー、比嘉祐介、天野貴史が復帰、田口潤人がユースから昇格、中島賢星、仲川輝人、サンパウロFCからアデミウソンが期限付き移籍で新加入。
4月4日に日立柏サッカー場で、J1 1stステージ第4節が行われ、柏レイソルと対戦し勝利を収めた、柏と対戦し勝利したのは2008年10月25日以来約6年半振り。
5月27日にヤマザキナビスコカップグループB第6節がニッパツ三ツ沢球技場で行われた。結果は川崎フロンターレに1-2で敗戦、決勝トーナメント進出を逃した。シーズンも7位で終えることになった。
シーズン終了後、端戸仁、奈良輪雄太(湘南)、比嘉祐介(千葉)、天野貴史(長野)、シーズン途中に新潟へ期限付き移籍していた佐藤優平(山形)、藤本淳吾(G大阪)、鈴木椋大(東京Vへ期限付き移籍)、熊谷アンドリュー(金沢へ期限付き移籍)、アデミウソン(期限付き移籍期間満了→G大阪)がそれぞれ移籍した。
- 2016年
- チームスローガン:Integral Goal - All for Win -
モンバエルツ体制2年目。東京Vから前田直輝、千葉から金井貢史、Y.S.C.C.横浜から高橋拓也が新加入。開幕後、ラフィーニャの登録を抹消し、代わりにブラジル・フラメンゴからカイケ、ルーマニア・FCボトシャニからキュラソー島代表のマルティノスが加入。
2016シーズンはJ1リーグは年間順位10位。
ヤマザキナビスコカップから名称が変わったルヴァンカップではBグループ1位で準々決勝進出を果たすと準々決勝では大宮アルディージャと対戦、アウェイ1-2、ホーム1-0とアウェイゴール差で勝り、2013シーズン以来のベスト4進出を果たした。準決勝ではガンバ大阪と対戦した、結果はアウェイ0-0、ホーム1-1と引き分けにもつれ込んだが、アウェイゴールの差で準決勝で敗退となった。
天皇杯では2回戦で福島ユナイテッドに延長までいかれたが2-0で勝利して3回戦進出、3回戦ではJリーグ創設期にしのぎを削りあった東京ヴェルディと対戦、結果は4-0で圧勝し昨季と同じく4回戦(ベスト16)進出となった。4回戦ではアルビレックス新潟と対戦、後半ATに天野純の直接フリーキックが決まり勝利した、準々決勝ではガンバ大阪と対戦、今季5度目の顔合わせとなった。準決勝では鹿島アントラーズに0-2で敗戦し、2016年のシーズンは終わった。
シーズン後、中村俊輔が磐田へ移籍、ラフィーニャ、小林祐三(鳥栖へ移籍)、山口へ期限付き移籍していた北谷史孝(長崎へ移籍)が契約満了で退団。榎本哲也が浦和へ、9年間在籍していた兵藤慎剛が札幌へ、ファビオと東京Vへ期限付き移籍していた鈴木椋大がG大阪へ、高橋拓也が北九州へそれぞれ完全移籍。金沢に期限付き移籍していた熊谷アンドリューが千葉へ、和田昌士が山口へ、田口潤人が藤枝へそれぞれ期限付き移籍した。
また、小林の契約満了に伴う退団、3年連続でフルタイム出場した中澤佑二やベテラン栗原勇蔵に対して来季年俸の大幅ダウン提示[19]、モンバエルツ監督の去就などの報道を受けサポーターが反発、チームはホームページ上にお詫びを掲載する[20] 異例の事態に追われた。また、中村の移籍に関して移籍までの経緯をホームページ上に掲載した[21]。
- 2017年
- チームスローガン:Integral Goal - All for Win -
モンバエルツ体制3年目。新たにCFGの情報網から選ばれ就任したアイザック・ドルが早くから補強に向けて動き、柏から山中亮輔、新潟から松原健、名古屋から扇原貴宏、京都から杉本大地、北九州から鈴木彩貴、レッドスターからセルビアリーグで20得点を挙げMVPを獲得したウーゴ・ヴィエイラ、名門バルセロナのカンテラで育ちイニエスタの後継者と呼ばれたマケドニア代表ダビド・バブンスキー、1860ミュンヘンからオーストラリア代表のミロシュ・デゲネクが加入。ウーゴ・ヴィエイラ獲得の際に彼の市場価値からすると格安の移籍金を払った以外、新加入選手はフリーでの移籍となった。齋藤学が10番を自ら志願、モンバエルツ監督からキャプテンに任命され、新生マリノスのリーダーとなった。
4月27日にホームタウンを横浜市と横須賀市に加え、新たに大和市も追加された事がJリーグ理事会から承認され、同時にクラブ公式ホームページより発表された[22]。
ルヴァンカップは予選Bグループに入り、第1節でC大阪戦、第2節神戸戦で2連敗した後、新潟、甲府、鳥栖に3連勝し、5月31日に広島と対戦した。引き分けでもプレーオフに進出出来る状況であったが逆転負けを喫し敗退となった[23]。
中断期間中に新井一耀が名古屋、中島賢星がFC岐阜に、仲川輝人が福岡に期限付き移籍した。
中断期間に新潟で行われた短期キャンプにサイ・ゴダード、イッペイ・シノヅカが練習生として参加。良いパフォーマンスを発揮したシノヅカが加入した。ペルーのアンダー世代の代表キャプテンの経験のある日系ペルー人のアオキ・アンソニーが練習に参加した。
天皇杯は2回戦でFC大阪を、3回戦でアスルクラロ沼津を下し、4回戦で広島と対戦した。広島に前半で2失点し、敗退の危機にさらされたが、後半にウーゴ・ヴィエイラが2得点し、延長後半終了間際にウーゴ・ヴィエイラがコーナー付近の角度のないところからハットトリックとなるゴールを決めて3対2で劇的に勝利した。準々決勝では磐田と対戦し、後半ダビド・バブンスキ―のパスを受けた遠藤渓太のクロスが磐田のオウンゴールを誘い、1対0で勝利した。等々力陸上競技場で行われた準決勝では柏と対戦した。前半にハモン・ロペスのロングシュートで失点したが、後半に伊藤翔の得点により試合を振り出しに戻し、試合は延長戦にもつれ込んだ。一進一退の攻防が続いた後、延長後半終了直前に松原健、遠藤渓太と繋ぎ、最後はウーゴ・ヴィエイラが遠藤のパスを右足で決め、またしても延長戦を制し、2013年以来の決勝戦進出を果たした。決勝戦はC大阪と対戦した。前半8分に伊藤翔が先制点を決めるも、後半に山村、延長前半に水沼宏太にゴールを決められて敗北し、準優勝に終わった。
11月2日にエリク モンバエルツ監督の退任が発表された。
シーズン後、キャプテンであった齋藤学が川崎、攻撃の核であったマルティノスが浦和、パク・ジョンスが柏、前田直輝が松本にそれぞれ完全移籍した。また、期限付き移籍中であった新井一耀が名古屋、熊谷アンドリューが千葉、中島賢星が岐阜、田口潤人が新潟に完全移籍した。
富樫敬真がFC東京に期限付き移籍した。
- 2018年
- チームスローガン:Brave and Challenging ~勇猛果敢~
アンジェ・ポステコグルー監督が監督就任。
柏から大津祐樹、FCソウルからユン・イルロク、鹿児島城西高校から生駒仁、履正社高校から町野修斗を獲得。ユースから西山大雅、堀研太、山田康太が昇格。また、期限付き移籍していた仲川輝人と和田昌士が復帰した。遠藤渓太の背番号が11番に変更された。キャプテンには07年以来三度目、中澤佑二が就任した。3月4日に遼寧宏運足球倶楽部からオリヴィエ・ブマルを獲得した。5月12日に行われたG大阪戦において飯倉大樹がJ1通算200試合出場を達成した。
成績
タイトル
国内タイトル
- 日本サッカーリーグ1部 2回
- JSLカップ 3回
- Jリーグ ディビジョン1
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:7回
- Jリーグカップ:1回
国際タイトル
- アジアカップウィナーズカップ:2回
- 1992年, 1993年
個人別タイトル
J1リーグ
- 最優秀選手 (MVP)
- ベストイレブン
- 得点王
- ベストヤングプレーヤー賞
- フェアプレー個人賞
- 月間MVP
- 2013年3月 中村俊輔
- 2013年10月 榎本哲也
- 2015年8月 齋藤学
- 2015年10月 中村俊輔
- 2016年10月、11月 齋藤学
- 2017年6月 中澤佑二
Jリーグカップ
ユニフォーム
チームカラー
ユニフォームデザイン
- 左胸のエンブレム上の星3つ(★)は、1995年・2003年・2004年の各リーグ戦での優勝を表す[24]。
- 2ndユニフォームは、原則上:白、下:青、靴下:白。
- 2003年から2006年はグレー。
- 2011年 上/黄色、下/黒、靴下/黄色。
- 2013年 上:白/グレー、下:ダークネイビー、靴下:白/グレー。
- 2014年 上:オレンジ、下:オレンジ、靴下:オレンジ。
- 2015年 上:金、下:黒、靴下:黒
- 2016年 上:ピンク、下:ピンク、靴下:ピンク
- 2001年は3rdユニフォームを制作(配色は黒)したが、2002年までで3rdユニフォームの採用を取り止めた。
- 2002年は上衣が青と紺のツートンのユニフォームを採用した(上:青/紺、下:白、靴下:赤) これは横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC & AC)で使われた紺と白の概念を取り入れた。
- 2003年は上下靴下全て紺、副は上:白/シルバー、下:黒(チェンジショーツはシルバー)、靴下:シルバー。
- 2009年は期間限定で、横浜港開港150周年記念として、青と白の2色横じま模様(NISSANのロゴ、背番号と選手名ローマ字は赤文字、全日空ロゴは企業カラーの青地に白文字)であしらった特別ユニフォームを制作・着用。
- 2009年より背番号に選手名を記入。その中で中澤佑二は「BOMBER」、清水範久は「JIRO」と表記されるなど、姓名に捉われないニックネーム表記のものも登場(由来についてはそれぞれの項で参照)。
- 2012年は、前身の日産自動車サッカー部の80年代後半およびJリーグ発足当初のデザインを現代風にアレンジした、クラブ創設20周年記念の復刻ユニフォームを制作・着用した。ベースカラーに鮮やかなブルー、白い襟にピンポイントのトリコロール。また、2000年モデル以来、胸に黄色の「NISSAN」の文字が入ったものである[25]。このユニフォームはいずれも横浜FMホームゲームの鹿島アントラーズ、ガンバ大阪、名古屋グランパス、清水エスパルスおよびサガン鳥栖戦で着用。
スポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | 日産自動車 | NISSAN | 1993年 - | |
鎖骨 | なし | |||
背中上部 | ムゲンエステート | MUGEN ESTATE | 2016年 - | |
背中下部 | ムンディファーマ | イソジン | 2017年7月[26] - | |
袖 | 日清オイリオグループ | 日清オイリオ | 2017年 - | |
パンツ | なし |
ユニフォームサプライ遍歴
- 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダス(デサント)
- 1997年 - 2007年:リーグ戦・カップ戦ともにアディダスに統一(厳密には1998年まではデサント、1999年以降はアディダス・ジャパン)
- 2008年 - 2011年:ナイキ
- 2012年 - 現在:アディダス
歴代ユニフォーム
FP 1st | ||||
---|---|---|---|---|
1999-2000 |
2001 |
2002 |
2003 |
2004-2005 |
2006 |
2007 |
2008-2009 |
2010 |
2011 |
2012 |
2013 |
2014 |
2015 |
2016 |
2017 |
FP 2nd | ||||
---|---|---|---|---|
1999-2000 |
2001-2002 |
2001-2002 3rd |
2003-2004 |
2005-2006 |
2007 |
2008-2009 |
2010 |
2011 |
2012 |
2013 |
2014 |
2015 |
2016 |
2017 |
FP Other | ||||
---|---|---|---|---|
2004 ACL |
2009 SP |
2012 SP |
2014 ACL 1st |
2014 ACL 2nd |
2014 天皇杯 |
2015 CUP 1st |
2015 CUP 2nd |
2016 CUP 1st |
2016 CUP 2nd |
2016 SP |
2017 CUP 1st |
2017 CUP 2nd |
2017 SP |
2018 SP |
歴代スポンサー年表
年度 | 胸 | 鎖骨 | 背中上部 | 背中下部 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1992 | - | 解禁前 | - | 解禁前 | - | Mizuno / adidas | |
1993 | NISSAN | Kodak | BP | - | |||
1994 | |||||||
1995 | |||||||
1996 | xanavi | ||||||
1997 | adidas | ||||||
1998 | |||||||
1999 | ANA | - | |||||
2000 | |||||||
2001 | |||||||
2002 | |||||||
2003 | GE | - / NATURALLY PLUS | |||||
2004 | - | ||||||
2005 | MLJ | ||||||
2006 | |||||||
2007 | |||||||
2008 | メガネスーパー | Nike | |||||
2009 | |||||||
2010 | ELGRAND[注 2] | KARADA factory | |||||
2011 | - | ANA | - | ||||
2012 | 三栄建築設計 | ほけんの窓口 | adidas | ||||
2013 | - | ||||||
2014 | 日本化成 | ||||||
2015 | |||||||
2016 | MUGEN ESTATE | - | |||||
2017 | - / イソジン |
日清オイリオ | EZインベスト証券 | ||||
2018 | - | イソジン | - |
スタジアム・練習場
スタジアム
ホームスタジアムは横浜国際総合競技場(日産スタジアム、横浜市港北区)。Jリーグ発足当初より三ツ沢公園球技場(横浜市神奈川区)をホームスタジアムとして使用していたが、1999年に横浜国際総合競技場が完成すると主催試合の大半をそちらに移している。以後、両スタジアムを本拠地として併用する形としていたが、Jリーグクラブライセンス制度の兼ね合い[29] もあり、2016年よりJリーグへの届け出上の本拠地を日産スタジアムに一本化している(ただし同年も三ツ沢での開催も継続)。
ホームゲーム開催試合数
- Jリーグ杯=Jリーグカップ
- ACL=AFCチャンピオンズリーグ
- (ACWC)=アジアカップウィナーズ選手権
- (ACC)=アジアクラブ選手権
年度 | リーグ戦 | Jリーグ杯 | ACL | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
横浜国 (日産ス) |
三ツ沢球 (ニッパ球) |
その他 | ||||
1992 | - | - | - | 国立2 平塚2 |
(ACWC) 会場不明3[注 3] |
国内大会はJリーグカップのみ 天皇杯優勝 |
1993 | - | 15 | 国立1 博多陸2 |
三ツ沢球2 国立1 |
(ACWC) 三ツ沢球2[注 4] |
|
1994 | - | 16 | 国立3 栃木1 博多陸1 平塚1 |
博多陸1 | 不参加 | |
1995 | - | 21 | 国立5 札幌厚別1 |
非開催 | (リーグ戦)国立=チャンピオンシップ(年間決勝)1を含む サントリーS(年間前期)・チャンピオンシップ優勝 | |
1996 | - | 10 | 国立3 新潟市陸1 長崎1 |
三ツ沢球7 | (ACC) 三ツ沢球1[注 5] |
|
1997 | - | 15 | 山形県1 | 三ツ沢球3 | 不参加 | |
1998 | 9 | 7 | 山形県1 国立1 |
三ツ沢球2 | 横浜国完成。この年より横浜国・三ツ沢球の2か所を本拠として登録 | |
1999 | 14 | 0 | 新潟市陸1 | 横浜国1 三ツ沢球1 丸亀1 |
||
2000 | 9 | 5 | 国立2 | 三ツ沢球2 山形県1 |
(リーグ戦)チャンピオンシップ1を含む 第1S(年間前期)優勝 | |
2001 | 13 | 1 | 国立1 | 三ツ沢球4[注 6] | ||
2002 | 8 | 2 | 国立4 熊本陸1 |
横浜国2 三ツ沢球1 |
||
2003 | 14 | 0 | 国立1 | 横浜国4 | (リーグ戦)第1・2S(年間前後期)完全優勝 | |
2004 | 14 | 0 | 国立2 | 横浜国1 三ツ沢球2 |
横浜国1 三ツ沢球2 |
(リーグ戦)横浜国=チャンピオンシップ1を含む 第1S・チャンピオンシップ優勝(リーグ連覇) (Jリーグ杯)=ACL進出につき決勝Tよりシード |
2005 | 15 | 1 | 国立1 | 日産ス1 三ツ沢球1 |
三ツ沢球3 | 横浜国=命名権採用により「日産ス」に変更 (Jリーグ杯)=ACL進出につき決勝Tよりシード |
2006 | 15 | 2 | 日産ス3 三ツ沢球2 |
不参加 | (Jリーグ杯)日産ス=決勝T2含む | |
2007 | 15 | 2 | 日産ス1 三ツ沢球4 |
(Jリーグ杯)日産ス・三ツ沢球=決勝T1ずつ含む | ||
2008 | 14 | 3 | ニッパ球4 | 三ツ沢球=命名権採用により「ニッパ球」に変更 (Jリーグ杯)ニッパ球=決勝T1含む | ||
2009 | 13 | 4 | 日産ス3 ニッパ球2 |
(Jリーグ杯)日産ス・ニッパ球=決勝T1ずつ含む | ||
2010 | 14 | 3 | 日産ス1 ニッパ球2 |
|||
2011 | 14 | 3 | ニッパ球2 | |||
2012 | 14 | 3 | ニッパ球3 | |||
2013 | 14 | 3 | 日産ス1 ニッパ球4 |
(Jリーグ杯)日産ス・ニッパ球=決勝T1ずつ含む(予選はニッパ球のみ) 天皇杯優勝 | ||
2014 | 13 | 4 | ニッパ球1 | 横浜国[注 7] 3 | (Jリーグ杯)ACL出場のため決勝トーナメントのみ | |
2015 | 15 | 2 | ニッパツ3 | 不参加 | 三ツ沢球=命名権呼称を「ニッパツ」に変更[31] | |
2016 | 15 | 2 | ニッパツ3 | 不参加 | 登録上本拠地を日産Sのみにする |
練習場
練習場は日産スタジアムと同じ新横浜公園内にある小机競技場(日産フィールド小机)および新横浜公園球技場を使用する[32]。
F・マリノスになってからの練習場は戸塚トレーニングセンター(戸塚区、元々はフリューゲルスの練習施設、現在は横浜FCが練習施設として使用)、クラブオフィスは神奈川区新子安にあったが、2005年に両者を横浜市西区のみなとみらい地区61街区に移転集約[33]、「マリノスタウン」(横浜F・マリノスMM21トレーニングセンター)として運用してきたが、2016年5月にみなとみらい地区の定期借地契約が満了となることを受け、2015年12月末をもってマリノスタウンにおけるクラブの活動を終了することが発表され[34]、本社も新横浜に移転した[1]。
2018年1月25日、クラブは練習場の新設・拡充方針を発表。JR久里浜駅(神奈川県横須賀市)近くの公園に観客席やクラブハウスを備えた練習施設を新設。本拠地の日産スタジアムがある、新横浜公園でも練習用グラウンドを整備する。一部は地元住民に開放し、地域への浸透を深める。
計画では、横須賀市所有で約2.2ヘクタールの規模である、くりはまみんなの公園とその周辺を再整備。コート2面とハーフコート1面に加え、1,000席程度の観客席、トレーニングルームなどを備えたクラブハウスも新設する。この施設は、一部を周辺住民も使えるように貸し出し、周辺商店街などとの賑わい活性化につなげていく。一方、新横浜公園では、現在は土のグラウンドとして活用している部分に、コートを2面整備する予定。横須賀市の上地克明市長は、同日の記者会見で「2022年を施設稼働の目標にしていきたい」と表明。横浜市の林文子市長も「チームの一層の強化につながることを願っている」とコメント。古川宏一郎社長は、記者団の取材に「総投資額は現時点で未定。できるだけ早く(両市と)基本協定を結び、具体化を進めたい」と語った[35][36]。
所属メンバー
- 参照: 横浜F・マリノスの選手一覧
永久欠番
- #3 松田直樹
エピソード
- 新設または大幅改修後のスタジアムのこけら落とし試合をアウェイチームとして迎えた試合は以下の通り。
年度 | 試合会場 | 対戦相手 | スコア | 備考 |
---|---|---|---|---|
1993年 | 国立霞ヶ丘陸上競技場 | ヴェルディ川崎 | ○2-1 | Jリーグ開幕戦 |
1998年 | 横浜国際総合競技場 | 横浜フリューゲルス | ●1-2 | 会場自体のこけら落としはダイナスティカップ1998(日本代表vs韓国代表) |
2001年 | 埼玉スタジアム2002 | 浦和レッドダイヤモンズ | ○2-0 | |
札幌ドーム | コンサドーレ札幌 | △1-1 | ||
御崎公園球技場 | ヴィッセル神戸 | △1-1 | ||
2005年 | 千葉市蘇我球技場 (フクダ電子アリーナ) |
ジェフユナイテッド市原・千葉 | △2-2 | |
2012年 | 日立柏サッカー場 | 柏レイソル | △3-3 | 改修後のオープニングゲーム |
育成組織
横浜F・マリノスの育成組織はトップチームを頂点としたピラミッド型となっており、第2種(高校生世代)のユース、第3種(中学生世代)のジュニアユースとジュニアユース追浜、第4種(小学生世代)の選抜クラスであるプライマリー、プライマリー追浜がある。
また、日産自動車サッカー部時代の1985年に発足したサッカースクールは、対象の年代は幼児から中学生で、女子は小学生から中学生以上までとなっている。2015年時点で、3500人を超えるスクール生がいた[37]。2017年現在では、次の8校で活動している。