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地理 | |
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場所 | 瀬戸内海 |
主要な島 | 能美島・大崎上島・向島・因島・大三島 |
行政 | |
都道府県 | 広島県 愛媛県 |
市町村 | 江田島市・呉市・東広島市・大崎上島町・竹原市・三原市・尾道市・福山市・今治市・上島町・新居浜市・松山市 |
芸予諸島(げいよしょとう)は、日本の瀬戸内海西部に位置する諸島。広島県と愛媛県に属しているため、両県の旧国名である安芸国と伊予国から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。
Contents
概要
芸予諸島は広島県本土(本州)と愛媛県本土(四国)の間に位置する。広島県(旧備後国を含む)呉市から東の島すべてと、愛媛県旧越智郡島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百の島から成る[1]。目安としては、東端が広島県福山市鞆の浦と愛媛県今治市を結ぶ線、西端が能美島・倉橋島までで狭義においては広島湾内は含まない[1]。西に防予諸島、東に笠岡諸島がある。かつては下蒲刈島から大崎上島・大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった[1]。また、芸備群島の一部と備後群島・走島群島は厳密に言えば旧備後国に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。
平成の大合併の結果、芸予諸島の島々からなる市町村の多くは、本州・四国本土を中心とする広島県呉市・尾道市、愛媛県今治市などに組み込まれた。現在、芸予諸島に市役所・町役所・村役所を置く自治体には江田島市・大崎上島町・上島町がある。
芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から安芸群島(江田島周辺のみ)・蒲刈群島・下大崎群島・上大崎群島・関前諸島・来島群島・越智諸島・芸備群島・上島諸島・備後群島・走島群島とする。
有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島・因島・向島・倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも1万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島・生口島、愛媛県大島・伯方島・大三島の5島がある。2010年の国勢調査によれば向島(尾道市市街)・因島に人口集中地区が存在している[2]。ほとんどの島で本土より早いペースで過疎化・高齢化が進行している。
自然環境
芸予諸島に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた[3]。
瀬戸内海は地形の複雑さと干満の差の激しさが流れの速い潮を生み出した。大正時代の物理学者・文学者である寺田寅彦は、「広い灘と灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、岩波書店、1997年)と記した[3]。なかでも、四国と大島とに挟まれた来島海峡はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるように潮の流れが速く瀬戸内海有数の難所であった[4]。こうした地形を巧みな操船技術を持つ者が支配権を握るようになる[3]。
元々陸地として繋がっていたものを、航路として用いるため開削したところも存在する。例えば、呉市本土と倉橋島の海峡である音戸の瀬戸には日宋貿易の航路として用いるため平清盛が沈む夕日を扇で招いて1日で開削したとの伝承「日招き伝説」が残る(実際に掘削したかは不明)[5]。
地形的特徴としては、どの島も平野部が狭く急峻な山あるいは丘陵地で占められている[6]。芸予諸島最高峰は生口島の観音山で標高472.3m [7]。
気候は瀬戸内海式気候である。丘陵地で温暖な気候を活かした農業が展開されている。
植生で特徴的なのは、ほぼ広葉樹による代償植生で占められている点である。これはこの地で古くから製塩業が盛んで、製塩の際に熱源を必要としたことから燃料用に大量に木々が伐採されたことによりはげ山となり、そこで繁殖力旺盛なアカマツが植えられていったことによる[3]。
イノシシが生息しており、海を泳いで島から島へ渡る様子が住民たちによって度々目撃されている。芸予諸島では、ドングリが少なく田畑が休む冬場でも、柑橘類が豊富でイノシシが餌に困ることがない。近年では皮を剥いて食べた痕跡も発見されている[8]
半無人島の上島町赤穂根島では、タヌキ・ハツカネズミなどの哺乳類、イシガメ・クサガメ・ニホンヤモリ・ニホントカゲなどの爬虫類、モツゴ・ドジョウ・メダカなどの淡水魚などが調査によって見つかっている。このうち、ドジョウは愛媛県で準絶滅危惧種となっているが、水田の整備が進んでいないため赤穂根島では豊富に生息している。またモツゴは人の手によって導入された。[9]
歴史
先史時代
縄文時代における芸予諸島の遺跡は海岸に集中している。製塩や海上交通とのかかわりも指摘されている[10]。
芸予諸島の島々は平野部が狭く、温暖小雨であることから古くから製塩が盛んであった。古くは小型の土器に海水・海藻を入れ煮沸させて製塩しており、芸予諸島近辺では椋の原清水遺跡(松山市)から出土した3世紀末弥生時代中期末の製塩土器が最古のものになる[11][12]。製法が発明あるいは伝達したルートは不明であり、一説では岡山県児島地域から山陽側を伝わり芸予諸島の島々に広がっていったとしている[11]。
芸予諸島で最も古い製塩土器は、馬島のハゼヶ浦遺跡と亀ヶ浦遺跡から出土したもので、時期は弥生時代末頃(3世紀末)。伯方島の袈裟丸遺跡からは、4世紀末頃の製塩土器が出土している。この後、伯方島では、少なくとも7世紀初め頃まで製塩が続けられた。また、豊島・津波島など、今では無人島の状態に近いような島からも製塩土器が出ている。このような小さな島にも弥生時代以来人が住み、製塩が行われていたことを意味する[10]。
芸予諸島とその周辺沿岸部地域では、弥生時代の製塩遺跡数は少ないが、古墳時代前半(4世紀頃)になると、数多く出土している。古墳時代後半(6世紀後半)になると、従来とは比較にならない程の最大規模の生産が行われた。塩は地元やその近辺のみならず、新たに成立したヤマト王権の関与の元、近畿地方にも運ばれたと考えられている。この時期は、和歌山県・大阪府の沿岸部などの近畿地方周辺部では、土器製塩が衰え、それまで頼っていた福井県・兵庫県の生産量でも足らず、瀬戸内中部地域からのも潮がもたらされた[13][11]。藤原京・平城京跡などから出土した木簡には、塩に関係するものが多い。考古学的な証拠はないが、伊予製の塩も運ばれていたと思われる[10]。
なお、庄原市・三次市・東広島市など、海から離れた内陸部から製塩土器が見つかることもあるため、製塩土器は塩の運搬容器にも使われたとみられている[13]。
芸予諸島(広島県側)の主な遺跡[13]
- 宇治島 - 宇治島北の浜遺跡
- 小細島 - 小細島I遺跡、小細島II遺跡、小細島III遺跡
- 宿祢島 - 宿祢島遺跡
- 佐木島 - 須波遺跡、佐木島東遺跡
- 小佐木島 - 北浦遺跡、清水谷遺跡、西谷遺跡
- 生野島 - 小馬取遺跡、大馬取遺跡、榎迫遺跡、観音浦遺跡、月の浦3号遺跡、かんね1号遺跡、かんね2号遺跡、七谷遺跡、福浦2号遺跡、草の浦1号遺跡、大がね遺跡
- 臼島 - 臼島牛ヶ首遺跡
- 折免島 - 折免島南遺跡
- 長島 - 長島布浦遺跡
- 向島 - 古江波貝塚
- 大崎上島 - 長松遺跡、瀬井遺跡
- 因島 - 大浜広畠遺跡
- 細島 - 細島I遺跡、細島II遺跡
- 上蒲刈島 - 沖浦遺跡
- 斎島遺跡 - 豊田郡豊浜町斎島
神話
大山祇神社と河野氏
芸予諸島のほぼ中央である大三島には、大山積神を祭神とする一の宮大山祇神社が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた[14]。神社は宝亀9年(778年)光仁天皇が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった[14][15]。
大宮司は代々越智氏、そして越智氏を出自とする大祝氏が務めた。彼らが後に三島水軍となる[14]。そして越智氏を出自として河野氏が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した[14]。平安時代末期の源平合戦で源氏方に呼応し、壇ノ浦の戦いでは150艘もの水軍を編成し勝利に導いた[16]。鎌倉時代の元寇の役では河野通有が水軍勢として活躍した[16]。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる[14]。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。
大山祇神社領は三島領七島と呼ばれ、室町時代前期時点で生奈島(現在の生名島)・岩城島・大三島・大下島・岡村島・御手洗島(あるいは下島・現在の大崎下島)・豊島で構成されていた[17]。つまり現在の広島県側である大崎下島・豊島・斎島は、中世においては伊予国側であった。
水軍の勢力争い
律令国家は陸路を重視し、大宰府から都につながる大宰府道・山陽道を交通の中心としたが、平安時代以降は、平安京で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな潮汐差を船の推進力に利用できる瀬戸内海には多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、畿内の貴族・大寺社などによって荘園化が進められた。国司や荘園領主は徴税を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した[3]。
中世の荘園時代でも塩の生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内に送られていた[18]。『万葉集』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている[3]。応安4年(1371年)今川貞世(了俊)の紀行文『道ゆきぶり』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている[19]。
当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、室町時代に朝鮮使節として来日した宋希璟の『老松堂日本行録』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊に遭遇し、船中の礼物や食糧・衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に関所を設定して船舶から関銭を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる[3]。
こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった[16]。そして戦国大名は彼らと対立、あるいは“警固衆”として味方に引き入れようと画策していった[20]。
芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが村上水軍(村上海賊)である。南北朝時代に南朝方として活躍した村上義弘が祖と伝えられ、この時代に東寺弓削島荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている[3]。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した[3]。
- 能島村上氏 - 芸予諸島の大島-伯方島間の船折の瀬戸の真ん中にある能島城・大三島と伯方島間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ甘崎城などを築いて活動した。能島城には居館・家臣屋敷・職人屋敷が、隣接する鵜島には造船所・船奉行屋敷・船大工屋敷などが存在した。
- 来島村上氏 - 高縄半島-大島間の来島瀬戸に来島・中渡島・武志島の砦を築く
- 因島村上氏 - 因島南端にあり燧灘に対する基地となった長崎城、尾道水道への抑えとして築かれた青木城、島の中央の青陰城などを拠点に活動
宣教師ルイス・フロイスは、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した[21]。
また南北朝時代、北朝方として備後沼田(三原市)を拠点とした小早川氏が南下してくる[20]。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆(小早川水軍)を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる[22]。その庶家の一つ生口氏の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)兵庫湊(神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている[23]。室町時代前期に伊予国であった大崎下島・豊島は室町後半ごろに小早川氏が掌握、ここから安芸国に属するようになった[17]。彼ら小早川一門はのちに安芸の戦国大名・毛利元就の傘下に入ることになる。
そして、西側は南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ多賀谷氏(倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が、現在の呉市中心部には呉衆とよばれる連合水軍がおり、戦国時代中期にはそれらは大内氏警固衆として活躍している[24]。
1551年、大内義隆に仕えていた陶晴賢は主君を倒し、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した1555年の厳島の戦いでは、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる[3]。
ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)豊臣秀吉の海賊停止令により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという[25]。
交易路としての発展
近世に入ると瀬戸内海一体では木綿帆が普及しており、水主の労働力の省力化と高速化を可能にする帆走専用の弁財船が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。特に古くから造船業で栄えていた広島藩倉橋島では「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに船が造られ、全国各地から注文が殺到したといわれる[3]。
江戸幕府は各地に海駅(海路における公認宿場)を置き、芸予諸島内では三之瀬(下蒲刈島)と鞆の浦が整備された。江戸時代の1605年以後、将軍代替わりを慶賀して朝鮮王朝から朝鮮通信使が1811年まで計12回来日した。通信使は瀬戸内海を通り、芸予諸島で接待を受けた。特に三之瀬は評判がよく、通信使一行から「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛された。また、鞆の浦からながめた瀬戸内海の風景は「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛された[3]。
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大崎上島にあった和船の造船場
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(復元)蒲刈島御番所
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御手洗の町並み