富山県

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とやまけん
富山県
地方 中部地方北陸地方
団体コード 16000-8
ISO 3166-2:JP JP-16
面積 4,247.61km2
(境界未定部分あり)
総人口 1,051,289
推計人口、2018年4月1日)
人口密度 248人/km2
隣接都道府県 石川県岐阜県新潟県長野県
県の木 タテヤマスギ
県の花 チューリップ
県の鳥 ライチョウ
他のシンボル 県の獣:ニホンカモシカ
県の魚:ブリシロエビホタルイカ
県の歌:富山県民の歌
マスコット:きときと君
富山県庁
所在地 930-8501
富山県富山市新総曲輪1番7号
北緯36度41分43.1秒東経137度12分40.7秒
富山県庁
外部リンク 富山県
富山県の位置

富山県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

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富山県(とやまけん)は、日本都道府県の一つ。中部地方日本海側、北陸地方のほぼ中央に位置する。県庁所在地富山市

Contents

概要

ファイル:五箇山相倉合掌集落02.jpg
世界遺産 五箇山合掌造り集落
ファイル:富山湾岸サイクリングロード(魚津市 しんきろうロード付近).JPG
富山湾岸のドライブ・サイクリングコース(しんきろうロード)
ファイル:Kitokito montage 001.png
きときとな海の幸

富山県は、北方を海、他三方を山脈で区切られた令制国越中国と領域を同じくする。

東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。長野県との県境には北アルプスが聳える。

西は倶利伽羅峠を挟んで石川県と接しており、経済的・文化的結び付きは強い。戦国末期には越中の佐々成政加賀前田利長が争った。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に富山県(旧県)及び新川県が成立するも、人口が過小と見なされたことと歴史的経緯により、同じく人口が過小と見なされた石川県に併合されてしまう。しかし、石川県議会では富山の水害復旧が放置された上に必要経費を石川側が独占する形となり、治水はおろか生活や教育も苦しい状況となっていた。このような富山軽視の姿勢が目立ったことから分県運動が起こり[1]、旧越中国全域が分離独立する形で現在の富山県が成立した。

南には飛騨山脈(日本アルプス)や飛騨高地が控え、山間部には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産文化遺産)に登録されている五箇山立山信仰などの山岳信仰で有名な立山連峰、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートなどがあり、日本で唯一氷河が現存する[2]。隣接する岐阜県飛騨地方は、山々に遮られる形で岐阜市名古屋市との交通の便が悪く、比較的近距離である富山県南部との経済的・文化的な結び付きが強い。そのため、富山(越中)と飛騨をあわせて飛越地方と呼ばれる事がある[3]

北は世界で最も美しい湾クラブに加盟する富山湾日本海)に面している。国際拠点港湾伏木富山港は、北陸工業地域や環日本海貿易の拠点として発達した伏木港、富山港、富山新港の総称である。また、魚津滑川氷見などでは豊富な海産物が水揚げされる。うち、魚津から滑川にかけてはホタルイカの群遊海面、蜃気楼の見える海岸で有名である。

石川県からの独立を果たした明治から産業の発展が続き、北陸工業地帯を形成。YKK三協立山などの発祥の地として知られる。北陸3県を中心に展開する北陸銀行北陸電力などの本拠地でもある。

既に世界遺産(文化遺産)に登録されている「白川郷・五箇山の合掌造り集落」のほか、「近世高岡の文化遺産群」と「立山黒部~防災大国日本のモデル-信仰・砂防・発電-~」の世界遺産(文化遺産)登録を目指す動きがある。「立山・黒部」については自然遺産、あるいは複合遺産としての登録を目指す可能性もある。

方言としては富山弁があり、地域によって呉東方言、呉西方言、魚津弁などに分かれる。富山弁は北陸方言に属し、特に石川県の能登弁と類似性がある。「新鮮」を意味する「きときと」をはじめ、広辞苑に収められている言葉もある。

前述の「きときと」と表現される魚介類に加え、名水百選平成の名水百選にそれぞれ県内から4か所が選ばれるなど、名水の産地として知名度が高い。

「富山」の地名は、全国的には「やま」と発音されるが、富山県全域、新潟県の上越市以西および岐阜県飛騨地方北部では「とやま」と平板に発音する。また、石川県加賀地方では「とま」と発音する(太字はアクセントを置く部分)。

「富山」の地名の由来についてはこちらを参照されたい。

地理・地域

広袤

重心
北緯36度38分21秒東経137度15分54秒

北端
北緯36度58分49秒東経137度38分06秒
人口重心
北緯36度43分05.37秒東経137度09分46.52秒
西端
北緯36度25分25秒東経136度46分06秒
富山県庁舎所在地
北緯36度41分43秒東経137度12分41秒
東端
北緯36度46分06秒東経137度45分48秒
 
南端
北緯36度16分28秒東経136度58分31秒
 

地理

※長野県とは険しい山脈に阻まれていて直結道がなく直接的な行き来が出来ない。しかし新潟県糸魚川市経由などで道路が確保されているため長野県へのアクセスはそれほど困難ではない。また1971年には富山県と長野県を直接結ぶ立山黒部アルペンルートが開通したが、運賃などの面で実用的な利用には向いておらず主に観光ルートとなっている。
県の中部には、概ね複数の河川が形作った沖積平野富山平野があり、山麓部には複数の川の扇状地が重なり合ってできた「複合扇状地」が見られる。

自然公園


気候

富山県は日本海側気候であり、県内全域が豪雪地帯(一部地域は特別豪雪地帯)に指定されている[5]。夏はフェーン現象の影響で気温が上がり、高温多湿。標高の高い南部の山岳地帯は亜寒帯湿潤気候に属し寒さが厳しい。特に立山連峰は世界有数の豪雪地帯であり、立山および剱岳周辺には、日本では唯一の現存する氷河が確認されている。

富山県内各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報
平年値
(月単位)
沿岸部 内陸部
氷見 高岡市
伏木
富山 魚津 朝日町
富山市
秋ケ島
上市 富山市
八尾
砺波 南砺市
南砺高宮
平均
気温
(°C)
最暖月 25.4
(8月)
26.3
(8月)
26.1
(8月)
25.5
(8月)
26.1
(8月)
23.9
(8月)
25.6
(8月)
25.4
(8月)
25.0
(8月)
最寒月 2.1
(2月)
2.6
(2月)
2.5
(1,2月)
2.4
(2月)
3.0
(2月)
0.2
(2月)
1.8
(2月)
1.8
(2月)
1.6
(2月)
降水量
(mm)
最多月 245.3
(12月)
249.4
(12月)
255.4
(1月)
265.8
(7月)
295.5
(11月)
330.9
(7月)
304.7
(1月)
265.8
(1月)
302.3
(1月)
最少月 111.1
(4月)
115.7
(4月)
122.5
(4月)
145.5
(4月)
141.2
(4月)
181.7
(4月)
127.4
(4月)
115.6
(4月)
126.6
(5月)

地域区分

伝統的に富山平野の中央部にある呉羽丘陵を境に東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と呼んでいた。現在では市町村界によって区切った県東部・県西部という名称も使われている[6]。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市の呉羽地区及び婦負地区(旧婦負郡)の一部は呉西でありながら県東部に属する。また、富山市婦負地区は、かつて気象庁の地方区分では県西部(西部婦負)に属していたが、行政区分との統一を図るため2006年3月1日より同市他地区と同じ県東部(東部南)へ管轄変更となった。

県東部から新川地区と富山地区、県西部を高岡・砺波地区とする3区分と南北に更に高岡・射水地域と砺波・小矢部地域として4地域にする表記がある[7][8]

  • 以下の10市(2郡)4町1村の自治体がある(平成の大合併以前は9市(7郡)18町8村(2003年時点))。「町」の読みは全て「まち」だが、地元の人々の中で「ちょう」と読む人が多くいる。「村」の読みは全て「むら」。ちなみに自治体の数は日本の都道府県で一番少ない。

自治体

富山県東部(呉東)

富山地区
新川地区

富山県西部(呉西)

高岡地区
砺波地区

歴史

先史

  • 富山県では旧石器時代遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前頃までの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。本県では、東西の石器文化の影響を受けたことが分かる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。
  • 縄文時代 - 氷見市大境洞窟で新石器時代の遺物が発見される。

上代

  • 崇神天皇10年7月 - 四道将軍大彦命高志道を綏撫したといわれる[9]
  • 垂仁天皇23年 - 山辺之大鶙が垂仁天皇の命ずるところによって鵠を追うて高志国に至ったといわれる[10][11][12]
  • 景行天皇25年7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う[13]
  • 成務天皇年間 - 高志国造に市入命を、伊弥頭国造として大河音足尼を任ずる[14]
  • 仲哀天皇元年閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる[15]。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わしこれを誅殺した[15]
  • 573年(敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる[16]
  • 574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる[17]
  • 588年(崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する[18]
  • 642年(皇極天皇元年)9月21日 - 越国蝦夷が帰順したといわれる[19]
  • 白雉年間 - この頃、鵜坂神社創建という[20]
  • 658年(斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫粛慎の征討を開始し[21]、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥・渡島まで遠征したという[22]
  • 698年(文武天皇2年) - 伝承によればこの年、旧婦負郡婦中町各願寺が創建されたという[23]。『肯構泉達録』曰く、「婦負郡長澤山各願寺の草創は文武帝御宇なり越中は天武帝第九皇子経宮の御領地にて経宮又越の宮とも称せり皇子浮屠に帰依まし〳〵て祝髪し給ひ女犯肉食を断ち自仏の像を刻み朝昏供養し給ふ御年三十にして越へ下らせ三川島といふ所に宮を造り暫く爰に在し文武帝即位の年長澤山に伽藍を建立し給ふ是れ各願寺開山自信院一品親王仏性聖人なり」[24]
  • 大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前越中越後とする[25]。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献白蛾」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている[23]。また、婦負郡新川郡射水郡礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡古志郡蒲原郡魚沼郡も越中の版図に含まれていた[23]
  • 701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる[23]。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない[26]。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し諸寺を建立したということになっているが[27]、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており[28][29]、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている[30]。また『神道集』は立山開山は大宝3年に教導聖人によって行われたとしている[31]。かくの如く立山開山譚は一様ではないが、佐伯有頼を開山の祖とする縁起が多い[23][32]
  • 703年(大宝2年)
    • 3月甲申 - 越中国に属していた四郡(頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡)を越後国に所属させる[33]
    • この年、婦負郡常楽寺に文武天皇の勅願によって常楽寺が創建されたという[23]。本尊は行基の作と伝え、『越中旧事記』に「縁起云、文武天皇御勅願、大宝壬寅二年御建立也。本尊十一面観音行基師の作、御堂十一間四面観音を安置す」という[34]
  • 706年(慶雲3年)2月26日 - 越中国の神社が祈年幣帛の例に入る[35]
  • 709年(和銅2年)3月5日 - 越中等諸国より兵を徴発して越後の蝦夷征討を行う[36]
  • 718年(養老2年) - 伝承によればこの年、天竺より僧善無畏三蔵来朝し、礪波郡安居寺を創建したという[23]。『越中旧事記』に「縁起に云、この寺は善無畏三蔵、此所に紫雲立をみて、この寺を発起すとなり。善無畏三蔵は、北天竺の甘露飯王の後胤なり」という[34]
  • 719年(養老3年)
    • 7月9日 - 北陸道等の民二百戸を遷し出羽柵に配する[37]
    • 7月13日 - 初めて按察使を置き、越前国守正五位下多治比広成に能登、越中、越後を管轄させる[38]
  • 725年(神亀2年) - 寺伝によると、北陸巡錫中の僧侶行基によって国内最大の石仏である不動明王像が彫られ真言密宗大岩山日石寺が開かれたという[23][39]。『越中旧事記』曰く、「伝云、昔行基法師諸国に遊行して、仏像を造り給ふ、然るに越中白石と云處にて、東方を臨み見るに、東山の麓に火上石見ゆ、行基直に行て此不動尊を彫刻すといへり」[34]
  • 732年(天平4年)9月5日 - 越中守として田口年足を任ずる(文献上初の越中国国司)[40]
  • 741年(天平13年)
  • 744年(天平16年)9月15日 - 初めて巡察使を畿内七道に派し、従五位下石川東人を北陸道使となす[44]
  • 746年(天平18年)
    • 4月5日 - 初めて鎮撫使を置き、北陸山陰両道に巨勢奈氐麻呂を任ずる[45]
    • 6月21日 - 越中国の国司として歌人でもある大伴家持が任ぜられる[46]。後に大伴家持が中心となり編纂した『万葉集』には富山県の風景や伝説を詠んだ歌が全4536首のうち337首収められている[47]
    • 8月7日 - 家持邸にて歌会を開き、史生土師宿祢道良が「ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山に月傾きぬ」(巻十七)と作歌する[48]
    • 8月15日 - 家持、宇佐八幡宮の神霊を勧請し奈呉八幡宮と称して、この日放生会を行う[23]。これが放生津八幡宮の創始であるといわれる[23]。『越中国神社由来』曰く、「同郡放生津八幡宮、往古大社ニ而北条時政再興之由申伝候得共、寄進状等無御座候、古来ゟ奈古浦与申祭礼、八月十五日幸放生会ニ付、嘉暦三年ゟ放生津与改申由」云々[49]
    • 9月25日 - 弟の卒去したのを聞き、これを悲しんで家持が「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七)と作歌する[48]
  • 747年(天平19年)2月20日 - 家持病臥して国守の館に「山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ」(巻十七〉と作歌する[48]
  • 748年(天平20年)
    • 1月29日 - 家持、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」と作歌する[48]。この「あゆの風」というのは鹿持雅澄が『万葉集古義』に「安由能加是は、下の自註に、越俗語、東風之安由之可是也とあり、今も安以乃可是と云由、契沖云り」というように[50]、元来越中において東風を意味する語であって、あいの風とやま鉄道株式会社の社名はこれに由来している[51]
    • 春 - 出挙のため家持が諸郡を巡行し「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも」や「雄神川紅にほふ娘子らし葦付取ると瀬に立たすらし」(巻十七)などの歌を作る[52][48]
    • 3月23日 - 左大臣橘家より使者あり、大伴家持を訪う[48]。家持饗応して作歌あり、「奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」(巻十八)[48]
  • 749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)5月5日 - 大伴家持が東大寺占墾地視察のため、東大寺占墾地使僧平栄を饗し、「焼き太刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ」(巻十八)の歌をなす[48]
  • 751年(天平勝宝3年)7月17日 - 大伴家持が少納言に任ぜられ、越中より離れる[48]。悲別の歌を作って曰く、「しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき夕かも」(巻十九)[48]
  • 757年(天平宝字元年)5月8日 - 越中国より能登国を分離する[53]
  • 758年(天平宝字2年)9月28日 - 初めて越中国に駅鈴を頒つ[54]
  • 759年(天平宝宇3年)11月14日 - 往時の越中における東大寺の庄園の規模等を示す「東大寺越中国諸郡荘園惣券」が成る[55]
  • 775年(宝亀6年)3月2日 - 初めて越中に大少のを置く[56]
  • 780年(宝亀10年)12月14日 - 射水郡二上神社及び礪波郡高瀬神社を従五位下に叙する[57]
  • 784年(延暦3年)3月3日 - 気多神社を正三位に叙する[58]
  • 795年(延暦14年)8月18日 - 高瀬神社、雄神神社、二上神社を従五位上に叙する[59]
  • 804年(延暦23年)6月10日 - 越中国を上国とする[60]

中古

  • 806年(大同元年)5月24日 - 初めて観察使を置き、秋篠安人が北陸道観察使に任ぜられる[61][62]
  • 810年(弘仁元年)5月27日 - 越中国に滞在した渤海国使首領である高多仏により、習語生等に対する渤海語の修習が行われる[63]
  • 815年(弘仁6年)2月9日 - 越中国介大伴黒成、越中国多治比清雄、越中国少目和邇真嗣等を官物を横領した罪により免官する[64]。なお、当時越中国司であった藤原鷹養及び越中国大目上村主加豆良は既に卒去していたため罪を問われなかった[64]
  • 840年(承和7年)9月29日 - 高瀬神社及び二上神社を従四位上に叙する[65]
  • 845年(承和12年)9月1日 - 婦負郡鵜坂神社及び新川郡日置神社を従五位下に叙する[66]
  • 854年(斉衡元年)
    • 3月7日 - 高瀬神社及び二上神社を従三位に叙する[67]
    • 12月27日 - 高瀬神社及び二上神社の禰宜及びに笏を把るを勅許する[68]
  • 859年(貞観元年)1月27日 - 高瀬神社及び二上神社を正三位に叙する[69]
  • 860年(貞観2年)5月29日 - 鵜坂神社を従四位下、日置神社を正五位上に叙する[70]
  • 862年(貞観4年)10月9日 - 鵜坂神社を従四位上に叙する[71]
  • 863年(貞観5年)
    • 6月17日 - 越中、越後で大地震が発生し、圧死者多数[72]
    • 8月15日 - 鵜坂姉比咩神社を正六位に、鵜坂妻比咩神社及び杉原神社を従五位下に叙する[73]
    • 9月25日 - 雄山神社を正五位下に叙する[74]
  • 864年(貞観6年)3月23日 - 楯桙神社を従五位下に叙する[75]
  • 867年(貞観9年)
    • 2月27日 - 鵜坂神社を従三位に、日置神社を従四位上に、新川神社を従四位下に叙する[76]
    • 10月5日 - 御田神社を従五位上に叙する[77]
  • 873年(貞観15年)12月15日 - 賀積(加積)神社を従五位下に叙する[78]
  • 876年(貞観18年)7月11日 - 新川神社を従四位上、櫛田神社を従五位下に叙する[79]
  • 878年(元慶2年)5月8日 - 手向神社を従五位下に叙する[80]
  • 879年(元慶3年)
    • 2月8日 - 御田神社を正五位下に叙する[81]
    • 10月29日 - 雄神神社を従四位上、石武雄神社を従五位下に叙する[82]
  • 883年(元慶7年)1月26日 - 新治神社を従五位下に叙する[83]
  • 886年(仁和2年)12月18日 - 新川郡擬大領伊禰頭真益が私物を以て官用を助けた功により従五位下に叙せらる[84]
  • 889年(寛平元年)8月22日 - 雄山神社を従四位下、熊野神社及び脇子八幡宮を従五位下に叙する[85]
  • 894年(寛平6年)7月16日 - 越中等諸国において諸院宮の使等、及び往還の人馬舟車を無理やり雇うことを禁ずる[86]
  • 897年(寛平9年)12月 - 射水神社(二上神社)を従二位に、鵜坂神社を正三位に陞叙する[87]
  • 延喜年間 - この頃『延喜式』成り、越中国の税率及びその期限(巻24主計寮上及び巻26主税寮上)、健児の人員及び武器、また各駅の地所とその伝馬数(巻28兵部省)等を定める[88]。また『延喜式神名帳』には越中国における34社の掲載がある(越中国の式内社一覧[89]
  • 908年(延喜8年)8月16日 - 気多神社官幣に預る[58]
  • 970年(天禄元年) - 『今昔物語集』巻十四所載の越中国僧海蓮が寂滅する[90]
  • 1017年(寛仁元年)8月5日 - 越中の百姓が国司の善状(重任要望)を提出する[91]
  • 1038年(長暦2年)8月25日 - 伊勢斎王の大神宮参入に伴い、北陸道諸国司に太政官符を宛て大中臣為輔を派す[25]
  • 1064年(康平7年) - 源義家征夷の功により越中守に任ぜられることを請う[92]
  • 1065年(治暦元年)9月1日 - 太政官符を越中国司に下し新たに荘園を立てることを停める旨令する[25]
  • 1067年(治暦3年)10月7日 - 越中国司豊原奉季が橋を造った功績によりその任期を延長される[93]
  • 1080年(承暦4年)
    • 6月10日 - 白河天皇不予あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては鵜坂、気多、白鳥、三宅の諸社が指定される[94]
  • 1081年(承暦5年)2月 - 二上神社(射水神社)を正二位に、高瀬神社及び鵜坂神社を従二位に陞叙する[87]
  • 1090年(寛治4年)7月13日 - 賀茂別雷神社(上賀茂神社)及び賀茂御祖神社(下鴨神社)に各600余町ずつ旧射水郡下村を中心とする不輸田寄進される(倉垣荘[23]
  • 1103年(康和5年)6月10日 - 堀河天皇不例あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては高瀬、鵜坂、白鳥、速川の諸社が指定される[94]
  • 1139年(保延5年)8月4日 - 『朝野群載』や『懐中暦』を著した越中国射水郡出身の算博士三善為康が卒去する[95][12]
  • 1141年(保延7年・永治元年)7月 - 二上神社(射水神社)及び高瀬神社を従一位に、鵜坂神社を正二位に陞叙する[87]
  • 1154年(久寿元年)8月10日 - 新川郡新治村、津波によって水没する[12]。『大日本史』曰く「久寿中海溢れて全村海に没す。纔かに社址(引用者註:新治神社)見ゆ。後世退潮し、乃ち更に荒蕪を治め、生地村と名づく」と[96]
  • 1180年(治承4年)12月 - 二上神社(射水神社)、及び高瀬神社を正一位に、鵜坂神社を従一位に陞叙する[87]

近古

鎌倉時代

  • 1183年(寿永2年)
    • 5月9日 - 越中国礪波郡般若野において今井兼平が6千騎を以て平家と戦いこれを破る(般若野の戦い[12]
    • 5月11日 - 源義仲が越中国豪族石黒太郎光弘らを従えて越中国礪波山の倶利伽羅峠平維盛を破る(倶利伽羅峠の戦い[12][97][98]。『平家物語』には「源氏はか様にして日をくらし、平家の大勢を倶利伽羅が谷へ追ひおとさうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、共にあひしらひ日をくらすこそはかなけれ。次第にくらうなりければ、北南よりまはツつる搦手の勢一万余騎、倶利伽羅の堂の辺にまはりあひ、箙の方立打ちたゝき、時をどツとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり(中略)平家、したいにくらうはなる。前後より敵はせめ来る。「きたなしや、かへせ〳〵」といふやからおほかりけれども、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとツてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へわれ先にとぞおとしける。まツさきにすすんだる者が見えねば、此谷の底に道のあるにこそとて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく」と、平家の軍勢が谷底へ落ちていった描写はあるものの有名なる火牛の計の話はみえない[99]。火牛の話がみえるのは『源平盛衰記』であり、「四五百余頭ノ牛ノ角ニ松明ヲ燃シテ、平家ノ陣ヘ追入、胡頽子木原柳原上野辺ニ扣ヘタル軍兵三万余騎、鬨ヲ合喚叫、黒坂表ヘ押寄ル。前後四万騎ガ鬨山モ崩岩モ摧ラント夥シ。(中略)我先我先ト諍ヘ共、西ハ搦手也。東ハ追手也。北ハ岩石高シテ上ルヘキ様ナシ。南ハ深キ谷也、下スヘキ便ナシ。闇サハクラシ案内ハ知ラス、如何カスヘキト方角ヲ失ヘリ(中略)爰ニ不思議ソ有ケル。白装束シタル人三十騎ハカリ南黒坂ノ谷ヘ向テ落セ殿原、アヤマチスナ〳〵トテ深谷ヘコソ打入ケレ、平家是ヲ見テ五百余騎連テ落シタリケレハ、後陣ノ大勢是ヲ見テ、落足カヨケレハコソ先陣モ引カヘサザルラメトテ劣シ劣シト父落セハ子モ落ス云々」とある[12]。巷説に旧東礪波郡五箇山地方はこの戦いに敗れた平家が陰遁した地と言い[23][100]、当地の民謡たる麦屋節及びこきりこ節には「波の屋島をとくのがれ来て薪伐るてふ深山辺に烏帽子狩衣脱ぎ打棄てゝいまは越路の杣刀」という歌詞が残っている[101]
    • 5月12日 - 義仲、2万の軍勢を以て氷見湊を渡り志保山に平家を追撃する(志保山の戦い[99]
    • 8月18日 - 義仲、越中国宮崎に居た北陸宮を皇儲につけようと謀るも失敗する[102][98][103]。この宮は往時、越中国新川郡宮崎にあったといい、『越中旧事記』には「宮崎南山上、後白河院第二の御子以仁親王の御子をは、治承の乱の時、以仁親王の御めのと讃岐前司重秀が北国へぐしまいらせたりけるを、木曽義仲もてなし奉りて、越中の国宮崎といふ所に御所をつくりてすへまいらせ、御元服ありけれは、木曽か宮とも申」と伝える[34]
  • 1185年(元暦2年・文治元年/寿永4年)3月 - 鵜坂神社を正一位に陞叙する[87]
  • 1186年(文治2年)
    • 6月21日 - 頼朝義経及び行家捜索のための越中含む諸国における武士の濫行を禁ずる旨訓令する[104]
    • 11月26日 - 義経を捕縛する旨、令下る[105]。『義経記』によれば義経一行は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、如意の渡しにおいてその渡の守に一行が義経を引連れているのではないかと嫌疑をかけられた[106]。そこで武蔵坊弁慶は「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山に戻り候へ」と言って、義経を船から引き摺り下ろし、扇を以て散々に打ちのめした[106]。渡の頭はこれを見て「判官殿にてましまさずは、さにてこそあるべきよ。か程いたはしげもなく、散々に当たり申されし事、併ら私が打ち申したるなり。御いたはしくこそ候へ」と言ってあわれがり、一行は無事渡海して彼岸の六渡寺に着くことができたが、そこで弁慶は「何時まで君を庇ひ申さんとて、現在の御主を打ち奉りつるぞ。天の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩も許し御納受し給へ」といって号泣したと言われている[106]。その後、義経等は「いかせ(岩瀬)の渡り、宮崎の岩戸の崎」を経て越後に入ったという[106]
  • 1187年(文治3年)3月2日 - 頼朝が吉田経房より院旨を伝える書状のあったのを以て、越中国吉岡庄の地頭を交替するよう令する[107][108]
  • 1200年(正治2年) - 院宣を以て越中国堀江荘を不輸の地とし神事に勤行させる[109]
  • 1205年(元久2年)9月16日 - 太政官符を以て祇園社領であった越中国黒川郷堀江保の国役等を免ずる[110]
  • 1207年(建永2年・承元元年)2月28日 - 『高田開山親鸞聖人正統伝』によると、この日親鸞に越後へ流罪の宣旨下り、同年3月28日に到着したという(承元の法難[111]。この途上、越中を経由したと伝えられ、『遺徳法輪集』には射水郡光久寺、極性寺、新川郡三日市村徳法寺及びその三本柿に関する縁起を載せており[112]、また浜黒崎の松並木の内には「親鸞上人腰掛け」と伝える松が残る[23]
  • 1221年(承久3年)
    • 5月30日 - 承久の変による戦乱で京方の市河六郎刑部の軍勢を越後国蒲原において鎌倉方が撃破し、越中国宮崎を攻略したという[113]
    • 6月8日 - 同日般若野荘、のち礪波山において官軍賊軍相戦う[25][113]。『吾妻鏡』によると鎌倉方は北条朝時を北陸道大将軍として4万余騎を率いたといい[114]、京方は宮崎定範等北陸の国人が参加していたという[115]。『承久記』曰く、「越中ト加賀ノ堺ニ砥並山ト云所有。黒坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山ヘハ仁科次郎・宮崎左衛門向ケリ。志保ヘハ糟屋有名左衛門・伊王左衛門向ケリ。加賀国住人林・富樫・井上・津旗、越中国住人野尻・河上・石黒ノ者共、少々都ノ御方人申テ相戦フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ」と[116]
  • 1299年(正安元年) - 慈雲妙意によって臨済宗国泰寺派摩頂山国泰寺が開かれる[117]。初め1296年(永仁4年)慈雲妙意が射水郡二上山に菴居していたところへ孤峯覚明の来り、相伴って紀伊国興国寺に参禅したのを契機に開山されたという[117]
  • 1316年(正和5年) - この年、日印越中に巡錫あり、僧日順を帰依せしめ、婦負郡に本法寺を創建する[23]。当寺の「絹本著色法華経曼荼羅」(国の重要文化財)は、『越中旧事記』によれば「伝て云、此絵図は後醍醐天皇の嘉暦元年の春、越中放生津の浦に夜々光暉あり、是によつて、漁人網をおろして、彼波の下を探りもとむるに、浮木のことくなるものを得たり。破りて是をみるに、二十二の巻軸有、則越中富崎の城主神保八郎左衛門尉に是を献す。時の人何の図会と知ものなし、爰に本法寺の日順法印一々是を演説す。是に依て本法寺に寄附して、永く宝物となれり」という縁起が伝えられている[23][34]
  • 1333年(元弘3年/正慶2年)
    • 2月19日 - 北条高時恒性皇子を越中国に配流しまた同地において守護名越によって弑される[12][118]
    • 5月17日 - 二塚に官軍を邀撃しようと企図した越中国守護名越時有が、大軍来襲の報に接した郎党の落伍によりこれを断念し放生津城に自刃する[119]。『太平記』曰く、「去程ニ、敵ノ早寄来ルヤラン、馬煙ノ東西ニ揚テ候ト騒ゲバ、女房・少キ人々ハ、泣々皆舟ニ取乗テ、遥ノ澳ニ漕出ヌ。ウラメシノ追風ヤ、シバシモヤマデ、行人ヲ波路遙ニ吹送ル。情ナノ引塩ヤ、立モ帰ラデ、漕舟ヲ浦ヨリ外ニ誘ラン。彼松浦佐用姫ガ、玉嶋山ニヒレフリテ、澳行舟ヲ招シモ、今ノ哀ニ被知タリ。水手櫓ヲカイテ、船ヲ浪間ニ差留メタレバ、一人ノ女房ハ二人ノ子ヲ左右ノ脇ニ抱キ、二人ノ女房ハ手ニ手ヲ取組デ、同身ヲゾ投タリケル。紅ノ衣絳袴ノ暫浪ニ漂シハ、吉野・立田ノ河水ニ、落花紅葉ノ散乱タル如ニ見ヘケルガ、寄来ル浪ニ紛レテ、次第ニ沈ムヲ見ハテヽ後、城ニ残留タル人々上下七十九人、同時ニ腹ヲ掻切テ、兵火ノ底ニゾ焼死ケル」と[119]

南北朝時代

  • 1334年(建武元年)4月12日 - 建武の新政により旧規に従って諸国にを課し、為に蔵人所よりその旨書状いたる[12]
  • 1335年(建武2年)
    • 8月18日 - 越中国国司たる源定清が北条時行に呼応して挙兵した名越時兼を加賀に討つ(中先代の乱[12][120]。この時、時兼が新川郡針原郷大野に鎮座していた日枝神社に放火したため、神主たる平尾氏はこれを逃れて隠土山に逃れたという[23]
    • 12月12日 - 越中国守護普門利清が足利高氏の叛乱に呼応して越中国国司源定清(中院定清)を石動山に攻殺する(延元の乱[120]。『太平記』曰く「越中守護普門蔵人利清、并井上、野尻、長澤、波多野ノ者共、将軍ノ御教書ヲ以テ両国ノ勢ヲ集、叛逆ヲ企ル間、国司中院少将定清、要害ニ就テ、当山ニ楯籠ラルヽニ、今月十二日彼逆徒等雲霞ノ勢ヲ以テ押寄ル間、衆徒等義卒ニ与シテ、身命ヲ軽ストイヘトモ、一陣全キ事ヲ得スシテ遂ニ定清戦場ニ於テ命ヲ隕サル」[120]
    • この年、魚津に松倉城魚津城の築城ありと伝え、『三州志』松倉城條に「元弘中椎名孫八入道居タリ(一作孫六太平記)、建武二年乙亥名越時兼越中ニ起ル時野尻尻玄畜允ヲ嘱ミ兵子ヲ募キ杉本城(此城地新川郡杉本カ然レトモ今無遺蹟)ニ據テ椎名孫八ノ魚津城ヲ攻ムトアリ魚津城ハ松倉城ト云説アリ」といい、また魚津城條に「建武二年名越兼時起ル時椎名孫八入道一城ヲ築キ南朝方ニテ保ム」とある[121][100]
  • 1341年(興国2年/暦応4年)8月12日 - 護国興化寺の開基僧運良寂す[122]
  • 1342年(興国3年/暦応5年・康永元年)春 - 宗良親王越中国名子に駐留され、同地における作歌たる「かへる雁こしぢの嶺のへだてをも我こえてこそ思しりぬれ」、「今は又とひくる人もなこの浦にしほたれて住あまとしら南」などの歌が『李花集』に収められている[123]
  • 1344年(興国5年/康永3年)10月25日 - 幕府が越中国にあった南軍の攻撃を吉見頼隆に命ずる[124]
  • 1345年(興国6年/貞和元年)
    • 3月10日 - 吉見頼隆、越中国に発向する[124]
    • 6月3日 - 国泰寺開基僧妙意寂す[125]
    • 7月11日 - 南軍井上俊清、越中国滑川において吉見頼隆と戦い敗れる[125]
  • 1346年(正平元年/貞和2年)3月6日 - 越中国の南軍井上俊清、新田貞員、粟澤政景等が能登国に入り木尾嶽城に據る[125]。幕軍吉見氏頼これを攻め、同年3月16日より相戦い、同年5月4日落城する[125]
  • 1350年(正平5年/観応元年)
    • 10月23日 - 直義方の桃井直常、越中国氷見湊を攻略し能登に進撃する(観応の擾乱[126]
    • 11月3日 - 桃井直常に和した井上布袋丸、富来彦十郎等が能登国花見槻に戦って敗れ越中に遁走する[126]
  • 1351年(正平6年/観応2年)1月15日 - 桃井直常、越中国人等を率いて上洛し、四条河原に高氏及び義詮と戦ってこれを破る[127]
  • 1352年(正平7年/観応3年・文和元年)6月6日 - 高氏方の吉見氏頼、能登国より越中国に攻入るを、桃井直常・直信邀撃して敗れる[128]
  • 1362年(正平17年/康安2年・貞治元年)
    • 1月23日 - 桃井直和越中に所在の北軍を攻撃する[129]
    • 5月22日 - 桃井直常等石動山に北軍と戦う[129]。激戦による損耗のため、北軍は義詮が援軍を派遣してこれを督励し、7月に至って桃井直広その軍門に降る[129]
  • 1368年(正平23年/応安元年)2月24日 - 桃井直常、再び越中に帰る[130]
  • 1369年(正平24年/応安2年)4月12日 - 桃井直常挙兵して能登に進み、吉見氏頼配下の頼顕伊予入道及び富樫昌家の軍と戦って越中に敗走する[130]
  • 1370年(正平25年・建徳元年/応安3年)
    • 3月16日 - 桃井直和、越中国婦負郡長沢に布陣して越中国守護斯波義将及び富樫昌家と戦い敗死する[131]
    • この年、大徹宗令によって眼目山立山寺が開山されたという[23]。『越中旧事記』には「大徹和尚は、能登の総持寺の開山瑩山和尚の第五弟子の其一人なり。此寺の材木は、悉立山権現の寄進し給ふといへり」という[34]
  • 1371年(建徳2年/応安4年)7月18日 - 桃井直常及び飛彈国司藤原家綱の軍、越中国礪波郡後位荘において斯波義将と戦い敗れる[132]
  • 1390年(元中7年/康応2年・明応元年) - 本願寺5代目法主僧綽如によって瑞泉寺が創建される[133]。『和漢三才図会』曰く、「綽如本寺ヲ巧如ニ譲リ当国礪波郡杉谷ニ幽居ス。時ニ異国ノ書簡京師ニ来リテ文義暁(サトシ)難キ者有リ。博識ヲ以テ綽如ヲ勅シテ召シ之ヲ読マシム。文文句句水ノ流レルカ如シ。叡感最モ甚シ。嘗テ一宇ヲ越中ニ建テント欲シテ之ヲ奏シ勅許アリテ下向ス。此所ニ乗馬俄ニ嘶キ留リ行カズ、其地清泉湧出ヅル。此ニ於テ寺ヲ建テ勅ヲ賜ヒテ瑞泉寺周円上人ト号シ、又礪波ヲ改メテ井波ト為ス」[134]

室町時代

  • 1397年(応永4年)5月2日 - 幕府、越中国守護畠山基国山城国東岩蔵寺領であった越中国太田保内富山郷に諸公事守護役の催促を停止させる[135]。坂井誠一によるとこれが「富山」という地名の初見であるという[136]
  • 1430年(永享2年)6月9日 - 足利義教、正親町三条尹子に越中国富山柳町を与える[25]
  • 1440年(永享12年) - この年、礪波郡福岡に巌照寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「巌照寺 在福岡村。永享十二年本願寺綽如子僧周覚創建」と[87]
  • 1441年(嘉吉元年)1月29日 - 嘉吉の乱によって義教の寵愛を受けていた畠山持永畠山持国より逃れて越中国に没落する[12][137]。同年8月に至り持国越中に派兵して持永これに敗れ、僧となって河内国に逃れるも同地において土民に討たれる[12]
  • 1443年(嘉吉3年)10月28日 - 正親町三条尹子、越中国富山柳町を二尊院に寄附し亡き義教等の冥福を祈る[138]
  • 1450年(宝徳2年)7月16日 - この日越中国に大嵐来り、婦負郡牛岳に怪光あり[12]。『康富記』に「大風大雨雲中牛嶽ト云所ヨリ光物出(其体雲中鬼形有之)、指艮飛行、其間十里許也(山河草木悉損失云々)」という[139]

戦国時代

  • 1468年(応仁2年) - この年、飛彈国より聞名寺が婦負郡土村に遷る[23]
  • 1471年(文明3年)
    • 3月 - 蓮如来って土山坊を礪波郡土山に開創する[136]。のち1517年(永正14年)7月2日、これを勝興寺と改む[140][141]。『勝興寺文書』曰く、「其御坊御寺号之儀祖師北地御在居之時分於佐渡国順徳院御帰依御建立之寺号断絶有之儀ニ候之間此度為相続其御坊被勝興寺与候様ニ被仰候此段難有可思召旨御申入可之候恐々謹言」と[140]
    • この年、礪波郡福光に僧道乗によって光徳寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「光徳寺 在法林寺村、文明三年僧光乗創建」[87]
  • 1475年(文明7年)7月16日 - 礪波郡瑞泉寺に蓮如の巡錫あり、越中における浄土真宗伝播の一契機となる[25]。『賢心物語』曰く、「蓮如上人当寺(瑞泉寺)ヘ文明七年七月十六日御下向ノ時、蓮乗時ノ御住持ナリ、河上ノ衆ヲ始トシテ、当国ノ御門徒衆ウチヨリマカナイ申サレ候、順如ハハジメ申御兄弟衆男女トモニミナ々々御下向候ツルヨシ、了如御物語アリケリ」[25]。またこの年、 富樫政親と争う加賀国一向一揆衆が敗れて井波瑞泉寺に遁走する[142]
  • 1481年(文明13年)春 - 瑞泉寺に據る一向一揆衆、福光城主石黒光義と礪波郡田屋河原に戦って勝し、石黒光義は戦死する(越中一向一揆[32][142]。東大寺文書中に「高瀬地頭方去年御年貢事、連〻地下人一向衆以同心之儀、年〻過分無沙汰候、殊去年中未進分、春中可致沙汰之由、地下人申候間、其趣内〻申処、去三月郡内土一揆不思議企候、地頭方百姓為本人、造意事候間、去年未進之儀一向不及沙汰候、余不可然存条、其後度〻指下人、堅申付半候、未一途候、猶〻無疎略之儀可申下候、委細安楽坊申入候、此才趣可得尊意候」とあり[143]、この頃当該地域において一向一揆のあったことが窺える[32]
  • 文明年間 - この頃、加賀国河北郡に北陸巡錫中の蓮如が坊舎を建て、後代の実円に至ってこれを礪波郡城端に遷し、善徳寺と号したという[23]。『三州地理誌稿』は1446年(文安3年)に僧実圓が礪波郡城端に善徳寺を創建したという説を載せている[87]
  • 1488年(長享2年)6月9日 - 石川郡高尾城に據る富樫政親を加越能の百姓攻めて政親が城内において自害する(加賀一向一揆[12]。『後法興院記』曰く「伝聞、去八日於加州冨樫介生涯云々、加賀国一揆衆、其外能登越中之一揆衆相加間及数万人云々」[144]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く「長享二年ニ、賀州ハ申ニ不及、能登越中諸国ノ類葉ニ籌策ヲ廻(メグラシ)、一揆悉ク打莅(ウチノゾン)デ、富樫ガ城ノ四面ヲ取巻キ、昼夜数日火水ニナレト攻ケル程ニ、富樫既ニ負テ、城中ニ於テ、九月九日ニ腹ヲゾキラレケル」[145]
  • 1493年(明応2年)6月28日 - 明応の政変に伴い室町幕府10代将軍足利義材が下向し、放生津城主神保長誠の支援を受け5年間滞在する[25][146]。『後法興院記』(明応二年七月十六日条)曰く、「伝聞、今出川殿下向越中云々、神保致警固間近国少々申御体云々、高運之至也、天下安危在此時乎」[147]。『親長卿記』(明応二年七月一日条)曰く、「陰晴、今日或仁云、去夜将軍(義材、当時人々号正覚寺御所)俄御逐電、不知其行方、去四月自河州陣御上洛之後、奉押籠上原左衛門大夫許了、後聞、落留越中給云々」[148]。これより1498年(明応7年)まで義材を中心とする政権が越中国射水郡放生津正光寺にあったがこれを越中公方と称し[32]、往時小幕府の体をなしたりといわれる[23]
  • 1494年(明応3年) - この年、「貞享二年寺社由緒書上」によると礪波郡に万福寺が創建されたという[23][149]
  • 1498年(明応7年)9月2日 - 足利義材上洛を図って越中国より越前国朝倉氏邸に至る[25]。『後法興院記』(明応七年九月五日条)曰く、「伝聞、越中大樹近日可有上洛云々、去二日越前朝倉館ニテ被越云々、和睦之儀云々」[147]
  • 1502年(文亀2年) - この年、旧東礪波郡平村上梨に鎮座する白山宮本殿が創建される[23]。建築年次の明らかなる建築物としては県内最古のものであるという[23][150]
  • 1506年(永正3年)
    • 7月15日 - 加越能の一向宗門徒、一統に蜂起して越前に来襲する[25]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く、「去程ニ「悪将ハ悪鬼ヲ請ジ、悪鬼ハ災異ヲ生(シヤウズ)」ト云ヘバ、時日ヲ不レ移、類葉馳集ル。然則、去永正三年七月十五日ニ、越前国中ノ一揆、越中・能登一統ニ蜂起シテ、川ヨリ北ニ打入、在々処々ヲ放火シテ兵庫・長崎、村々里々ニ陣ヲ取ル」[145]
    • 9月19日 - 越中一向一揆勢が越後の上杉房能配下なる長尾能景の軍を破り、能景は同地において敗死する(栴檀野の戦い[25]
  • 1509年(永正6年)7月28日 - 上杉顕定上杉憲房の軍、坂東の兵を率いて越後の長尾為景を攻め、為影は越中に逃れて幕府及び伊達尚宗に援軍を請う[151]
  • 1516年(永正13年)9月9日 - 越後国守護代長尾為景、越中国において神保慶宗と相戦う[152]
  • 1519年(永正16年)10月6日 - 再び越後国守護代長尾為景、加賀の畠山勝王と提携し越中国新川郡境川において神保慶宗と戦って勝ち、進んで婦負郡二上城に至る[153]
  • 1520年(永正17年)
    • 4月24日 - 長尾為景、畠山尚順に越中の情況を報じ、尚順は能登の畠山義総と共に為景を越中国平定に努めさせる[154]
    • 8月3日 - 再び長尾為景、越中境川城に神保慶宗と戦いこれを陥落させる[154]。ついで為景は同年12月21日に新川郡新庄城に進撃しこれを落城せしめ、遂に神保慶宗を討つ(永正の乱[154]。畠山尚順、その功を賞す[154]
  • 1536年(天文5年)12月24日 - 越中国礪波郡栴檀野において長尾為影死す[155]
  • 1543年(天文12年) - この頃神保長職、水越勝重に命じて富山城を築かせる[23]。『三州志』曰く、「富山城ハ新川郡ニ在テ平城也西ハ神通川ヲ帯フ其城築ハ水越越前守勝重経始シ(中略)戦史ニ富山ノ字顕ルヽハ天文十四年長尾為景礪波郡栴檀野ニテ戦死後神保氏富山城ニ徒リ婦負新川二郡ニ威ヲ振フ是最モ始也」[156]
  • 1545年(天文14年)4月9日 - 正二位権大納言・右大将徳大寺実通、下向先の越中において害せらる[157]。『言継卿記』(天文十四年四月十六日条)曰く、「従広橋使有之、徳大寺(実通卿)雑談有之、如何之由被申候、不知之由申之、重使者有之尋遣之処、去七日に下国之処、八日暁天押寄、右大将、物加波蔵人(懐世)以下十三人悉生害、云々、人数一人逃上洛、云々、越中国於知行分之事也、先代未聞之儀、言語道断之儀、不能分別題目也」[158]
  • 1556年(弘治2年)8月23日 - 大熊朝秀長尾景虎に叛いて武田晴信に内通し越中に奔る[159]
  • 1560年(永禄3年)
    • 4月28日 - .長尾景虎、椎名康胤を援けて神保長職を富山城に攻めこれを破り、長職は新川郡増山城に逃れる[23]。景虎、再び増山城に兵を差し向け、同年3月30日、長職その城を拋棄して再び逃れる[25]
    • 10月17日 - 武田晴信、書を一向一揆の徒に致し、長尾景虎の背後を窺わせる[12]
    • この年、椎名・井口・轡田氏及び一向一揆衆間においても婦負新川に争闘あり[12]。『三州志』曰く、「三年庚申椎名井口(中略)轡田(中略)婦負新川ノ地ヲ角ソヒ礪波郡ニ於テ石黒左近勝興寺(中略)瑞泉寺(中略)善徳寺(中略)等ト交刃ス」[160]
  • 1565年(永禄8年)6月 - 武田晴信属将山縣昌景、兵を率いて越中に入る[12]。『甲陽軍鑑』(巻十下品第卅三永禄八年八月条)曰く、「山縣三郎兵衛御先を仕り、越中へ御馬を出され、飛驒国侍大将江間常陸守才覚仕、越中の一郡あまり持候、椎名と云ふ侍大将人数三千五百余持候者降参仕り、二番目の子幼少成を人質として御目にかけ、信玄公を主君とあふぎ奉るなり、彼人質勝頼公は御預け被成、伊奈にさしをかるゝなり」[161]
  • 1566年(永禄9年)5月 - 上杉輝虎、自ら率兵して越中に入り、諸所の城邑を攻略する[12]。『北越軍記』(巻之四、永禄九年五月条)曰く、「謙信越後ヲ打立越中ヘ被攻入、神保越中守長氏ガ籠候増山ノ城ヲ被攻、上杉弥五郎義春ヲ遣小出城揖美庄助五郎ヲ攻落サレ候。国中方々働キ、取出共仕置有テ、七月ニ謙信越後ヘ帰陣」[162]
  • 1567年(永禄10年)5月18日 - 武田晴信、越中国境附近に出張、椎名・江間と会談する[12]。『甲陽軍鑑』(巻十下品第卅三永禄九年五月十八日条)曰く、「信玄公甲府を御立あり。越中へ御馬を向けられ、飛驒の江間、越中椎名此両人に彼筋御仕置様子被仰付[161]
  • 1568年(永禄11年)
    • 3月16日 - 射水郡放生津に陣を構えていた上杉輝虎、本庄繁長叛乱の報に接し、即ち越後へ軍を帰す(本庄繁長の乱[12]
    • 8月18日 - 越中国松倉城主椎名康胤、輝虎に背いて本願寺顕如、本庄繁長と共に武田晴信に通ずる[163]
  • 1569年(永禄12年)10月27日 - 上杉輝虎、越中国へ進んで椎名康胤の征討を開始し、新庄城・金山城を陥落させ、松倉城を攻撃する(松倉城の戦い[164]
  • 1571年(元亀2年)
    • 2月28日 - 上杉謙信、再び越中に入って椎名康胤を攻め、富山城・魚津城その他十数ヶ城を陥落させ、同年4月1日、越後へ凱旋する。[165][166]
    • 4月22日 - 三木自綱の属将塩屋秋貞越中猿倉城へ入るを長尾景直怪しみ謙信に秋貞を召喚することを請う[166]
  • 1572年(元亀3年)
    • 6月15日 - 本願寺顕如麾下の越中国一向一揆衆、射水郡日宮城を攻めてこれを危殆に陥らしむるを聞き、上杉謙信属将新庄城城主鰺坂長実山本寺定長等これが救援のため呉福山に布陣し、同日一向一揆衆に敗戦する[167]。この戦いにおいて山本寺定長は戦死し、日宮城の守備に当っていた神保覚広等は石動方面へ撤退した[167]
    • 8月18日 - 上杉謙信、越中国一向一揆衆平定のため、自ら率兵して越中国新庄城に至り、諸所に一向一揆衆を追散して富山城を攻めこれを落す(尻垂坂の戦い[168]
  • 1574年(天正2年)7月28日 - 謙信、また西征して神保長純據る越中木舟城を陥落させる[169]
  • 1576年(天正4年)3月17日 - 謙信、この日より再び越中に入り椎名康胤の籠城する蓮沼城を陥落せしめ、康胤は同城において自害する[12]。また神保氏張據る富山城を抛棄せしめ、進んで守山城を囲み、射水にその郎党を討つ[12]。『北越軍記』(天正四年謙信四十七歳三月条)曰く、「謙信越府ヲ立テ、越中ヘ発向。椎名泰種カ籠ル所蓮沼城ヲ攻落。泰種自害。ソレヨリ謙信ハ飛驒国ヘ打入ル」[162]。『三州志』曰く、「今年三月謙信越中ニ出陣蓮沼ヲ攻ム。城主椎名肥前守泰種自害シテ城陥ル(中略)頃年越中瑞泉寺勝興寺善徳寺得成寺等礪波郡ニ在テ兇威ヲ振フ。射水郡土旧ノ民モ之ニ随ヒ謙信ニ内応シテ信長公ニ敵セントス。因テ今年七月甲兵二万ヲ提テ越中ニ来リ魚津ニ陣シ河田豊前守有坂備中長澤筑前平子和泉ヲシテ婦負郡加賀澤ヨリ飛州ヘ襲入リ姉小路(按スルニ是頼綱カ)等ヲ降シ夫ヨリ又越中ニ来リテ富山城ヲ攻ム。城主神保安芸守氏春其男清十郎同姓越中守正武富山城ヲ棄テ守山城ニ保ミ城辺ニ湖水ヲ激入シテ固守ス。石黒左近ハ木舟城ニ在テ之カ援勢ヲナス。神保兵庫氏信増山城ヲ守ル。因テ謙信小笠原右馬助上杉民部ヲシテ富山ヲ守ラシメ神通川ヲ渉リテ射水郡ヘ乱入ス。神保ノ党久世但馬益木中務回游佐信濃小島倉光鞍智寺崎唐人等関野ニ出張シテ之ヲ拒ム。謙信夜之ヲ撃テ追払ヒ賀州ヘ向フ」[160]

近世

織豊時代

  • 1578年(天正6年)
    • 4月7日 - 織田信長、配下の佐々長龝に命じて神保長住を打具し越中に入らせる[12]。『信長公記』(巻十一、天正六年戊寅四月七日条)曰く、「越中神保殿二条御新造へ被召寄、此比御対面無御座、子細二位法印佐々権左衛門を以て被仰出、黄金百枚並志々良百端被参、輝虎被相果付て飛驒国司へ被仰出、佐々権左衛門相添、越中へ入国候也」[170]
    • 10月4日 - 同年9月24日より信長の命によって越中征討を行い、津毛城を落した齋藤利治が、越中月岡野において上杉の手勢を破る(月岡野の戦い[12]。『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」[170]
  • 1579年(天正7年)閏3月 - 織田信長により佐々成政が越中に封ぜられ富山城に入る[171]。『三州志』曰く、「七年己卯佐佐内蔵助成政越中一国ヲ賜リ富山城ヘ徒ル」[172]
  • 1580年(天正8年)
    • 4月15日 - 本願寺顕如、勝興寺及びその門徒に信長と和睦した旨を通達する[25]
    • 秋 - この頃大雨あり[171]。国内の河川洪水して、神通川は旧来の呉福山麓の河流を改め富山城東を流れるようになり、常願寺川は大いに出水して富山城下を浸し家屋流出数知れず[171]。佐々成政、これを憂いて治水に尽力し築堤、また洪水によって新たに生れた支川を鼬川と名付け、周辺を開墾して禾穀を植えて田地となす[171]。この時、築かれた堤を「佐々堤」と称し、常西用水川底にのぞく天端部にその痕跡を見ることができるという[173]
    • 11月 - 佐々成政、神通川渡船場の制度を定め、過当なる運賃を禁じ、また過載を戒む[171]
  • 1581年(天正9年)
    • 3月24日 - 越中松倉城に據る河田長親が小井手城を囲み、信長方の佐々成政及び神保長住等はこれが救援のため出兵したので、上杉景勝はその兵を撤せしめる[174]。『信長公記』(巻十四)曰く、「三月六日、神保越中佐々内蔵助幷国衆上国候、加賀越前越中三ヶ国之大名衆今度之御馬揃に各在京也。今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵、河田豊前守以調略。越後より長尾喜平次を呼越、大将として催一揆。佐々内蔵助成政人数入置候小井手之城、三月九日に取詰候」[175]。また曰く、「三月廿四日佐々内蔵佐神通川六渡寺川打越、中郡之内中田と云所へ被懸付候処上方之御人数参陣之由承及。三月廿四日卯尅、御敵長尾喜平次、河田豊前致陣払、小井手表引払火之手を間三里程に見懸。常願寺川、小井手川打越人数被付候へども、早諸手引取候間、不及是非併籠城運を開」[175]
    • 4月 - 『雲龍山勝興寺系譜』によると、この頃勝興寺、顕幸留守中を期した石黒成綱の夜討ちに遭い焼亡したという[176]
    • 5月24日 - 『信長公記』によると松倉城に據る河田長親が病死したといわれる[174]。曰く、「五月廿四日、越中国松倉と申所に楯籠候、御敵河田豊前守病死仕候」[175]
  • 1582年(天正10年)
    • 2月9日 - この日より信長の軍兵越中に入り、上杉景勝方の須賀盛能・秋山定綱はこれを警戒して報告せしにより、景勝は援軍を送りこれを援助させる[176]
    • 3月11日 - 信長方であった小島職鎮唐人親広、景勝に内通し協働して富山城を占拠するが、柴田、佐々、前田の兵によってこれを奪還される[176]。また信長方は進んで魚津、松倉の両城を囲む(魚津城の戦い[176]。『信長公記』曰く、「去程越中国富山之城に、神保越中守居城候然而、今度信長御父子信州表に至而御動座候之処、武田四郎節所を拘、遂一戦悉討果候之間、此競に越中国も一揆令蜂起其国存分に申付候へと有〳〵と越中へ偽申遣候事実に心得、小野六郎左衛門、加老戸式部両人一揆大将に罷成、神保越中を城内へ押籠、三月十一日、富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時、柴田修理亮、佐々内蔵介、前田又左衛門、佐久間玄番頭、此等之衆として富山之一揆城取巻候間落去不可有幾程之旨注進被申上候」[175]
    • 5月23日 - 景勝、魚津・松倉の危殆を聞き、これが救援のため天神山城に布陣し、信長方と黒部に戦う[177]。時に滝川一益森長可越後へ侵入するあり、よって同年同月27日、景勝越後へ撤退する[177]。『三州志』曰く、「二十三日瀧川一益三国嶺ニ到リ森長一大田切ヨリ芋川城ヲ陥シ越後二本木ニ入リ春日山ヲ襲ハント各甲兵ヲ進ムル注進アリ景勝越中ニ在リ之ヲ聞テ驚キ二十七日越後ヘ却ソク」[177]
    • 6月2日 - 景勝の撤退に乗じて、柴田勝家、佐々成政、前田利家等攻城を開始し、この日遂に魚津落城する[177]。『三州志』曰く、「勝家等此機ニ乗シテ火急ニ松倉ヲ攻ム魚津城ハ河田豊前吉江織部ハ固ク之ヲ守リ容易ニ抜クヘカラサルヲ知リテ詭計ヲ以テ柴田専齋佐佐新右衛門二人ヲ質トシ城ヲ挙ケテ開領セハ講和ヲ為ント城将ヘ言送ル河田等吾ヲ欺ムカストオモヒ即チ諾シ成政ヲ内城ニ延キ河田吉江ハ外羅城ニ出ツ即城ノ内外ヨリ河田芳江ヲ挟撃ス二将曁ヒ中條越前寺島六蔵寺血戦苦撃力ヲ窮テ斃レ城遂ニ陥ツ実ニ六月二日ノ平旦也(中略)松倉ノ守兵城上ニ旌槍ヲ羅列シ守禦ノ形勢ヲ伴リナシテ夜越後ヘ走ル織田方ノ諸将之ヲ知ラス妄リニ近ツカズト云フ我公然ラストシ単騎ニテ城下ニ到テ見量ヒ給フニ果シテ空城也因テ斯城弓箭ノ費ナクシテ城ヲ得タリ」[177]。但し、『北越太平記』はこの誘殺のことを載せず、矢尽き糧なくして城中に皆自害したといい、「諸大将いつれも評定し、寄手へ降参を乞、城を渡し、引除ん事、永き弓箭の瑕なり。たとへ主君の命なりとも難受所なりと、衆議一同に決しけり。城内掃除以下二三の内に沙汰し六月二日に隙明しかは中城越前の守景資、川田豊前の守長親、石口采女の正實秀、山本寺庄蔵孝長、吉江喜四郎俊長、安部右衛門の尉仲盛、竹の股参河の守朝綱大将物頭十三人広間に居並候て、切腹の用意にて候(中略)寄手の輩、城落て乗入十三人の自害の有様を見て、柴田勝家、佐々成政、前田利家以下舌を振誉ぬ者もなし。皆感涙を流す。是即六月二日の未明なり。此日京都本能寺にて信長公御生害なり。五六日こらへ候はゞ、運を可開者と皆残念に思ける」と伝える[178].
    • 6月8日 - 柴田勝家等再び兵を率いて越中を進撃するも、本能寺の変の報至って軍を返す[179]。景勝、これを受けて属将色部長実に越中への出馬を命ずる[179]
    • 6月24日 - 須田満親、松倉城に入って景勝の出兵を請う[179]
    • 6月27日 - 有沢図書助、弓庄城に據る土肥政繁に説諭してこれを景勝方に属せしめる[179]
  • 1583年(天正11年)
    • 2月8日 - 土肥政繁、成政の属城安城下を放火し、また太田新城を攻撃する[180]
    • 4月5日 - この日より土肥政繁、弓庄城において佐々成政の手勢に包囲される[180]。政繁は奮戦よくこれを守るも、同年4月28日、秀吉が成政に景勝と和すべきの由を通達し、よって成政景勝は媾和の運びとなる[181]。故に政繁は妻子郎党を率いて越後に移り、景勝の庇護の下に入る[177]
  • 1584年(天正12年)
    • 8月28日 - この日より徳川家康織田信雄小牧・長久手の戦に呼応して佐々成政挙兵し、先ず前田利家支配下の加賀朝日山を襲撃する[182]。されども同年9月11日、末森城の戦いに敗北して、倶利伽羅方面に退却し兵を越中に収める[182]
    • 9月18日 - 上杉景勝、前田利家に提携し須田満親に命じて宮崎城を攻めさせ、激戦六日に渉ったのちこれを開城させる[183]
    • 11月8日 - 阿尾城の菊池武勝、前田利家に降伏し開城する[184]
    • 11月25日 - 徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉に和せるを愁い、佐々成政越中を出発して遠江浜松城の家康を訪わんがため、厳寒の立山連峰を越える[184]。いわゆる「さらさら越え」というは、このことである[185]。『太閤記』(巻八)曰く、「天正十二年霜月下旬、深雪をもいとはす、さら〳〵こえとて嶮難無雙之山路に行迷ひぬ、是ハ何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問いしかは、遠州へこえ行、家康へ相看申(中略〉雪になつまぬわかきはらを百人はかりめしつれ、大山之嶺わきに攀上り、南をみれハ山下に里有とおほしくて、柴折くぶる煙たへ〳〵也、いさ煙を心あてに下りみむと、かんじきと云ものに乗ておとしけれハ、真忠の心さしを天感し給ふにや、思ひの外やす〳〵と麓の里に着にけり民のかまどに立入ん事のうれしさに、あんなひをもせす入しかハ、老たる樵夫膽を消し、是ハ変化の物そかし、今此雪中に人間のわさにハあらしと不審しあへりぬ(中略)雪中之労苦を忘れつゝ、十二月四日遠州浜松之城に至り、家康卿へ対面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被達ニ御本意一候様に相議し、翌朝打立清洲之城に至て御礼申上、これかれ評議を尽し、則令ニ請暇一又深雪に山路をたどり〳〵、越中に立帰りにけり」[186]
  • 1585年(天正13年)
    • 4月8日 - 成政、加賀国鳥越城を攻撃するも反撃に遭って撤退する[187]
    • 5月 - 成政の手勢なる佐々平左衛門今石動城を襲撃するも前田秀継等によって撃退される[188]
    • 8月8日 - 秀吉、佐々成政征討のため京師を発する[189]
    • 8月26日 - 秀吉、越中に至り富山城に逼迫するに及び、成政衆寡敵せずとて剃髪し、織田信雄を仲介して秀吉に降を請う(富山の役[189]。一連の越中平定の功により、秀吉は礪波郡、射水郡、婦負郡の三郡を前田利家に与え、成政の所領は越中においては新川郡のみとなり、また妻子共々大坂蟄居を命ぜらる[189][190]。また富山城が破却される[189]。射水郡に太閤山の地名残るは、このとき秀吉の一夜宿陣した故事によるという[191]。ここにおいて成政、〽何事もかはり果たる世の中に知らでや雪の白く降るらんと歌を詠じたと伝えられる[171]
    • 11月29日 - 天正地震起って越中国内においても被害あり[192]。この地震によって礪波郡木舟城が崩壊し、前田秀継及びその妻が圧死する[192]
  • 1587年(天正15年)5月30日 - 秀吉、佐々成政をして肥後国へ封ぜしめ、爾後隈本城に據ってその地を治める[193]。よって当面、新川郡は前田利家の領分となる[190]
  • 1595年(文禄4年)
    • 秋 - 利家、秀吉の召喚によって登城し、割腹せし豊臣秀次の館と新川郡を賜り、また豊臣秀頼の守護を依頼される[190]。『三州志』曰く、「今秋越中新川一郡曁ヒ秀次君ノ遺館ヲ豊主ヨリ国祖ヘ賜ハリ秀頼君ノ守護ヲ頼マセラル」[194]
    • この年越中国においても太閤検地あり、38万3百石であったという[193]
  • 1597年(慶長2年)10月 - 前田利長、居城たる越中守山城が風威猛烈であるため富山城へ遷る[190]
  • 1598年(慶長3年)4月20日 - 前田利家、致仕を利長に告げて家督を譲り、氷見一帯をその養老領とする[193][190]
  • 1600年(慶長5年) - この年、前田利長より土方雄久へ新川郡布市以南1万石を分与する(布市藩[190]

江戸時代

  • 1601年(慶長6年) - この年、主要なる街道に松並木を植えさせたが、富山県天然紀念物たる浜黒崎の松並木はこの時植樹されたものであるといわれる[195][190]
  • 1604年(慶長9年) - この年、幕府、北陸等の諸街道に一里塚の築造を命ずる[196]。またこの年、前田利長、初めて十村の制度を定める[196]
  • 1605年(慶長10年)6月28日 - 前田利長、隠居により富山城を修理してこれに遷り、新川郡20万石を以て自らの養老領となし、家督を前田利常に委譲する[197]
  • 1606年(慶長11年) - この年、土方雄久治下の布市藩を加賀藩治下となし、代って能登国羽咋郡、鹿島郡、鳳至郡、珠洲郡に散在する地を与える[198]
  • 1607年(慶長12年)3月2日 - この日、越中五箇山より税として塩硝を徴収する[198]
  • 1608年(慶長13年) - 礪波郡に初めて菅笠製造の業を興す[193]。これは2009年(平成21年)3月11日指定の重要無形民俗文化財である「越中福岡の菅笠製作技術」の濫觴である[199]
  • 1609年(慶長14年)3月18日 - 前田利長の居所としていた富山城に失火あり、城のみならず侍屋敷までも全く焼失するに至る[200]。ここにおいて利長、一時魚津城に遷り、これを期に礪波郡関野にその居所を遷さんと欲し、徳川秀忠の許可を受ける[200]。同年8月16日、新城全く成ったのを以て、魚津より遷り、関野の名を高岡と改める[200]。これが即ち高岡城の濫觴である[201]
  • 1610年(慶長15年)
    • 3月15日 - 利長、高岡城内に稲荷神社を勧請する[193][202]
    • 3月17日 - 高岡城内に関野神社の神輿渡御し、氏子の山車またこれに追随する[193]。これすなわち高岡御車山祭の濫觴であるといわれる[193]
  • 1612年(慶長17年)5月8日 - 新川郡亀ヶ谷鉱山より産出せる銀を、徳川秀忠に献上する[203]。『駿府記』(慶長十七年五月八日条)曰く、「羽柴筑前守以使者銀子千枚(彼領内土産銀也)染絹百匹白絹百匹[204]
  • 1613年(慶長18年) - この年、広山恕陽を高岡に招聘して当地に法圓寺を創建する[198]。翌年、前田利長卒去するを以て、瑞龍寺と寺号を改めたという[198]
  • 1614年(慶長19年)5月20日 - 高岡城に前田利長卒す[198]
  • 慶長年間 - 越中越後国界に境関所を設置する[193]。『三州地理志稿』曰く、「在三位郷堺駅、郡山南峙、巨海北逼、堺一水前奔、地勢最為険要、距境川百七十間、設編石於左右為固、関門南有関府及邏所(曰小人番所)、北設塕城尋築編於直西、中間附子門通海浜、又海浜樹柵中間設子門、置邏所」[205]
  • 1616年(元和2年) - この年、新川郡小川温泉を発見する[193]
  • 1630年(寛永7年)5月20日 - 高岡瑞龍寺に前田利長の十七回忌法会を催行する[198]
  • 1633年(寛永10年) - この年、新川郡黒薙温泉を発見する[193]。またこの年、1624年(寛永元年)に開鑿の出願あって以来、工事の行われていた用水路が完成する(牛ヶ首用水)[206]
  • 1634年(寛永11年)8月4日 - 前田利常徳川家光より加賀越中能登三ヶ国総計119万2千7百石の所領を安堵される[198]
  • 1638年(寛永15年) - この年、一国一城令によって金沢、小松、富山以外の城郭を破却する[193]。『三州志』曰く、「今年日本中一国一城タルヘキノ旨諸侯ヘ官命アリ(中略)故ニ三州ノ諸旧城ヲ廃シ是ヨリ金沢小松富山ノ三城ノミ封内ニ存ス」[207]
  • 1639年(寛永16年)6月20日 - 前田利常致仕により小松22万石を領してその養老領とし、前田光高に80万石(いわゆる加賀藩)を与えてこれを継承せしめ、また前田利次に10万石(いわゆる富山藩)を、前田利治に大聖寺7万石(いわゆる大聖寺藩)を与えてその支藩となす[198][193]。いわゆる富山藩の領地は越中国婦負郡のうち6万石、越中国新川郡浦山一帯の1万6千8百石、越中国新川郡富山町周辺の3千2百石、加賀国能美郡のうち2万石であったが、浦山周辺を除く新川郡一帯は前田利常領であり、礪波郡及び射水郡は前田光高の領であった[23]
  • 1640年(寛永17年)10月 - 前田利次、初めて富山城に入る[198]
  • 1641年(寛永18年) - この年、前田利常が立山の本社を再興する[198]
  • 1642年(寛永19年)夏 - 越中に飢饉あり[193]、『三州志』曰く「今夏米価騰踊道路饑荸多シ」[207]
  • 1645年(正保元年) - この年、高岡瑞龍寺に前田利長の墓を築く(前田利長墓所[208]
  • 1718年(享保3年)- 将軍徳川吉宗に、鮎の鮨と鱒の鮨(鱒寿司)を献上する。
  • 1816年(文化13年)- 富山藩が売薬業統轄の役所として「反魂丹役所」を設置する。
  • 1858年4月9日(安政5年2月26日)- 安政飛越地震が立山地域で発生する。

明治時代(置県以前)

明治時代(置県以後)

大正 - 第二次世界大戦中

ファイル:Firebombing leaflet.jpg
1945年8月1日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲予告の伝単。左下3番目に「富山」の文字が書かれている。

第二次世界大戦後

ファイル:Kurobe Dam survey 2.jpg
1963年に完成した黒部ダム

平成

ファイル:Tower 111.JPG
1990年代初頭に整備が進んだ富山駅北地区のランドマーク「タワー111

人口

ファイル:Growth rate map of municipalities of Toyama prefecture, Japan.svg
富山県市町村人口増減率分布図(2005年度と2015年度国勢調査から算出)
増加
  10.0 % 以上
  7.5 - 9.99 %
  5.0 - 7.49 %
  2.5 - 4.99 %
  0.0 - 2.49 %
減少
  0.0 - 2.5 %
  2.5 - 5.0 %
  5.0 - 7.5 %
富山県(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

都市

富山県内 市別人口ランキング
県内順位 都市 地域区分 人口 県内順位 都市 地域区分 人口
1 富山市 呉東地方 416,498人 6 氷見市 呉西地方 46,169人
2 高岡市 呉西地方 169,683人 7 魚津市 呉東地方 41,932人
3 射水市 呉西地方 91,293人 8 黒部市 呉東地方 40,468人
4 南砺市 呉西地方 49,490人 9 滑川市 呉東地方 32,532人
5 砺波市 呉西地方 48,353人 10 小矢部市 呉西地方 29,557人
2017年12月 現在


富山県内市別人口密度ランキング(2016年(平成28年)現在)
  1. 射水市(1,990人/km2
  2. 高岡市(1,940人/km2
  3. 滑川市(1,650人/km2
  4. 砺波市(1,250人/km2
  5. 富山市(337人/km2

政治・行政

行政機構

歴代知事(公選)

  • 初代 館哲二(1947年4月19日〜1947年11月15日、1期)
  • 2代 高辻武邦(1948年11月23日〜1956年9月30日、2期)
  • 3代 吉田実(1956年9月30日〜1969年12月1日、4期)
  • 4代 中田幸吉(1969年12月30日〜1980年9月18日、3期)
  • 5代 中沖豊(1980年11月11日〜2004年11月8日、6期)
  • 6代 石井隆一(2004年11月9日〜、4期目)

県議会

財政

平成24年度

平成23年度

  • 財政力指数 0.44

平成22年度

  • 財政力指数 0.46

平成21年度

  • 財政力指数 0.48

平成20年度

  • 財政力指数 0.48

平成19年度

  • 財政力指数 0.45

平成18年度

  • 財政力指数 0.4159
  • 標準財政規模 2647億円
  • 普通会計歳入 5206億円
  • 経常収支比率 94.5%
  • 人口一人当たり地方債残高 89万6267円 普通会計分のみ
  • 実質公債費比率 16.3%
  • ラスパイレス指数 96.3

地方債等の残高

  • 1普通会計分の地方債 9954億円
  • 2上記以外の特別会計分の地方債 902億円
  • 3第3セクター等の債務保証等にかかわる債務 264億円

地方債等の合計 1兆1120億円 (連結会計)

平成17年度

  • 財政力指数 0.37

広域行政

富山県内における広域行政の主な形態は以下の通り。

東部
  • 富山地区広域圏事務組合(富山市・滑川市・上市町・立山町・舟橋村) - ごみ処理
  • 中新川広域行政事務組合(上市町・立山町・舟橋村) - 下水道・介護保険
  • 新川広域圏事務組合(魚津市・黒部市・入善町・朝日町) - ごみ処理・し尿処理・斎場
西部
  • 砺波広域圏事務組合(砺波市・南砺市) - ごみ処理・救急医療・上水道・ケーブルテレビ事業(ケーブルテレビ事業に限り小矢部市も含む)
  • 砺波地区消防組合(砺波市・南砺市・小矢部市) - 広域消防
  • 高岡地区広域圏事務組合(高岡市・小矢部市・氷見市) - ごみ処理・ソフト事業(広域観光等)

姉妹州省・提携州省・姉妹都道府県

経済・産業

産業

富山県は古来より米所であった。特筆すべき資源として、豊富な水資源とそれを利用した水力発電がある。富山県は明治から昭和にかけてこの電力を生かして第一次産業から第二次産業、つまり日本海側屈指の工業地域(北陸工業地域)へと産業転換を果たした。第三次産業の情報処理業はインテックなど企業向けが中心である。一方で美術アートデザイン)への関心が比較的高く、多くの美術館や地方としては珍しいアニメ制作会社P.A.WORKS)がある。

一次産業

農地は減少傾向にあるが、耕作地における水田率は全国1位 (95.9%)。明治時代から続く砺波地区やその後に発展した入善地区おいてはチューリップの栽培が盛んであり、異彩を放っている。北部に占める富山湾の恩恵により、漁業も盛んであったが、近年定置網漁を除く、その他の漁業は衰退の傾向にある。しかし、国民のグルメ指向と輸送時間の短縮化により、従来は移送が不可能であったシロエビなど、今まで売れなかった商品が注目されている。

  • 農業:米、砺波のチューリップ、福光の干し柿、入善のジャンボ西瓜(黒部西瓜)
  • 漁業 - 豊かな漁場である富山湾を有し発達している。他県に無い特色としては伝統的なブリ定置網漁、日本唯一の群泳海域を持つホタルイカ漁、保存技術の発達で可能になったシロエビ漁など。また、元々は捨てられていたゲンゲ(幻魚)は網に掛かったものが食用とされている。カニ籠は魚津が発祥である。
  • 林業 - 山の大半が国立公園のため、あまり盛んではない。

二次産業


富山県は日本海側最大の工業集積地であり、北陸工業地域の中核である。ライフラインや銀行の本店があり、北陸経済の重要な拠点となっている。

立山連峰の豊富な水資源と水力発電を利用して産業が発達している。特に電気料金は北陸電力が日本で最も安い電気料金を実現しており[213]、多量の電気を必要とするアルミ精錬とその関連産業が栄えてきた。臨海部を中心として石油精製、重化学工業、各種電気製造が発達している。特定重要港湾伏木富山港では大量の原料の輸入と製品の輸出が行われている。

越中の薬売り」の伝統から医薬品の製造・販売が盛んである。製薬業は景気後退や高齢化の進行に強い。ジェネリックブームの恩恵もあり、平成不況の中でも安定している。

三次産業

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商業
ファイル:Starbucks Toyama Canal Park.jpg
スターバックス富山環水公園店

県外への輸出は伝統的に富山の売薬やブリ街道が有名である。古くから北前船で知られる日本海側貿易の中継拠点であったが、現代ではさらに環日本海貿易の拠点として発達し、中古車などの取引拠点となっている。

県内商業としては伝統的には富山市の総曲輪などの中心市街地が栄えていた。近年では車社会化が進行し、幹線道路沿いの郊外店が主流となっている。それに伴い大型店舗化が進行している[214]。富山市と高岡市の商圏は県内のみならず岐阜県飛騨地方や新潟県上越地方をも収めるが、隣県の石川県金沢市の商圏と競合関係にある。

その他産業

生活・交通

警察

消防

単独設置
組合設置

交通

空港

道路

道路整備率は75.7%(2006年)と全国で最高水準にある[215]。その一方で混雑率は大都市圏よりずっと低く(1,079台/124時間)[215]、全国で最も快適に自動車生活を送れる地域の一つである。

鉄道

全国の都道府県で唯一、県内全ての市町村に鉄道駅が存在するなど、地方としては鉄道網が発達しているが、モータリゼーションの進行で在来線が衰退傾向にある。その一方で、ライトレール専用路線が新設されるなど先進的な試みもなされている。なお、北陸本線がJRからあいの風とやま鉄道に経営分離されて以降は、元々JR路線のない沖縄県を除く46都道府県で唯一、JR在来線の幹線が存在しない県となった[216]

ファイル:Ainokaze Toyama Railway toyama station train.jpg
あいの風とやま鉄道 富山駅ホーム
ファイル:ALPS EXPRESS montage 001.png
富山地方鉄道 観光列車「ALPS EXPRESS」

港湾

富山湾に設けられた湾港群。古くより沿岸貿易路の中継拠点であった。現代では環日本海貿易の中経路として、そして北陸工業地帯と世界をアクセスする。

富山湾は黒潮親潮潮境が生み出す豊穣な漁場であるため、漁港としても重要である。

医療・福祉

災害拠点病院
保育所

教育

専修学校
特別支援学校
高等学校
中学校
小学校
幼稚園

メディア・芸能

新聞社

補足

富山県は全国紙の発行本社が東京本社・大阪本社とそれぞれ別になっている。

放送局

テレビ
補足

県にはANN及びTXN系列局は無いが、ANNに関しては、取材拠点としてテレビ朝日富山支局を置いている。

ラジオ
ケーブルテレビ
補足

上記全局で県内世帯カバー率100%を達成している。上婦負を除き富山県ケーブルテレビ協議会加盟局である。また、全局で石川県の北陸朝日放送(ANN系)が区域外再放送により視聴可能だが、TXN系列局は再放送が行われていない。

映像

雑誌

文化・スポーツ

県民性

ファイル:下山芸術の森 発電所美術館.png
下山芸術の森 発電所美術館
県内には美術館が多く、芸術活動が盛んである。

貯蓄率は高く、「越中の一つ残し」と言われるほどである。自分の家を持って一人前という風潮があり持ち家率は全国最高である[218]。さらに家の大きさ(延べ床面積)も全国一大きい[219]

子弟の教育にも熱心な傾向があり全国学力調査など教育関係の統計で、上位に位置することが多い[220]

大家族傾向がある[221]ため、世帯収入が全国最高水準である[222]。逆に生活保護家庭の割合は極端に低く、全国最低である[223]

乳幼児を祖父母等に預けることが比較的容易なこともあって共働き率が全国最高水準である[224]。石川の「嫁は越中から貰え」という格言は、富山の女性は働き者とされるところからきている。コロッケの消費が多いのも共働きが多いからとされる。

「サラリーマン小説」を得意にした富山市出身の源氏鶏太は「富山県人である宿命」(『わが文壇的自叙伝』集英社)に同窓会に出てみんな泥くさいとし「私自身、極めて泥くさい人間であることを知っているし、それが富山県人の特性であると信じている。ただし、あえて弁解すれば、泥くさいということは、軽薄でないということだ」と書いている。

富山で過ごしたことがある宮本輝天の夜曲 流転の海・第四部』には主人公の友人・久保敏松が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、という。

この勤倹克己を地で行くような県民性は、安田財閥安田講堂に名を残す安田善次郎浅野財閥浅野総一郎ホテルニューオータニ大谷米太郎のような経済的成功者を多く生み出してきた。

海産物を好む食文化を持っており魚介類の消費額が全国一大きい[225]。特にコンブブリイカの消費額が群を抜いて大きい[226]

北陸地方は一向一揆で知られる浄土真宗が盛んで、富山県民の価値観にも強い影響を与えてきた。たとえば堕胎・間引きを忌んだことから、江戸時代から人口増加率が特に高く、全国に移住者を出していた[227]。関東での銭湯経営者も新潟県と共に富山県出身者が多いが、これは厳しい仕事だからとされる。北海道開拓においても、富山県出身者が有意に多く[228]北方領土からの引揚者も北海道に次ぎ2番目に多い。北陸銀行も北海道各地に支店が存在する。

県内の広範囲から見られる立山連峰は、山岳信仰の舞台になっていて立山は富士山・白山と共に日本三霊山の一つである。

プロ野球の父と呼ばれる正力松太郎の出身地であることや読売新聞の発行部数が多いことなどから読売ジャイアンツ(巨人)のファンと北陸中日新聞の発行エリアであることから中部地方唯一のNPB所属球団である中日ドラゴンズのファンが多いと言われる。ちなみに、フジテレビアナウンサーの石本沙織は巨人ファン、千葉ロッテマリーンズの石川歩は中日ファン、元鹿島アントラーズの柳沢敦は阪神タイガースファンを公言している。これは、富山県民は人と違うことをしたがらないとされる県民性があるからである。

ファイル:Toyamasogo3.jpg
富山県総合運動公園
ファイル:Toyama Alpen Stadium 001.jpg
富山市民球場アルペンスタジアム

県民性に関する本の多くは浄土真宗信者の勤勉さと家族の絆、富山の売薬によるパイオニア精神などを通して、勤勉でありながら、結婚式などでお金を蕩尽する部分に焦点を当てている。NHKなどの県民調査では石川県とのライバル意識が強いとされる。

食文化

郷土料理

方言

伝統工芸

経済産業大臣指定伝統的工芸品
伝統工芸品

スポーツ

観光

国宝
  • 瑞龍寺 仏殿、法堂、山門(高岡市)
重要伝統的建造物群保存地区

マスコットキャラクター

富山県を舞台とした作品

太字は映画化またはテレビドラマ化された作品。

文学

映画

ファイル:Hananoie montage 001.png
「おおかみこどもの雨と雪」に登場する家のモデル(上市町にあり、基本的に日中は見学可能)

テレビドラマ

漫画

アニメ

ゲーム

音楽

富山県出身の人物

脚注

  1. 富山県の生みの親米沢紋三郎
  2. 北アルプス立山連峰で発見の氷の塊が日本初の氷河の可能性高いと、立山カルデラ砂防博物館学芸員。 2010/11/30 17:05 共同通信配信
  3. 飛越協議会「飛越地方とは」
  4. 全国都道府県市区町村別面積調 国土地理院 2016年05月19日閲覧
  5. 豪雪地帯の地域指定図 - 富山県(地域指定状況) - 国土交通省(2011年8月3日閲覧)
  6. 気象庁の地域区分でもこの名称である
  7. 富山県立図書館 富山県ふるさと人物地図 全体図
  8. 富山県旅行業協会
  9. 『日本書紀』崇神天皇10年秋7月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  10. 『国史大系第七巻』所収「古事記中巻」垂仁天皇条、1898年(明治31年)7月、経済雑誌社
  11. 『古事記伝』二十五巻にこれを「越中国婦負郡白鳥神社」、「新川郡鳥取郷」に比定する説あり(本居宣長、『古事記伝三』、1930年(昭和5年)5月、日本名著刊行会)
  12. 12.00 12.01 12.02 12.03 12.04 12.05 12.06 12.07 12.08 12.09 12.10 12.11 12.12 12.13 12.14 12.15 12.16 12.17 12.18 12.19 12.20 12.21 12.22 富山県編、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  13. 『日本書紀』景行天皇25年7月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  14. 『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」より(『国史大系第七巻』、1898年(明治31年)8月、経済雑誌社)
  15. 15.0 15.1 『日本書紀』仲哀天皇元年閏11月4日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  16. 『日本書紀』敏達天皇2年5月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  17. 『日本書紀』敏達天皇3年5月5日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  18. 『日本書紀』崇峻天皇2年7月1日(壬辰)条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  19. 『日本書紀』皇極天皇元年9月21日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  20. 大屋愷敆編、『富山県史談』、1894年(明治27年)12月、大橋書店
  21. 『日本書紀』斉明天皇4年4月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  22. 『日本書紀』斉明天皇6年2月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  23. 23.00 23.01 23.02 23.03 23.04 23.05 23.06 23.07 23.08 23.09 23.10 23.11 23.12 23.13 23.14 23.15 23.16 23.17 23.18 23.19 23.20 23.21 23.22 23.23 23.24 23.25 23.26 23.27 23.28 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社
  24. 野崎雅明、『肯構泉達録』、1892年(明治25年)1月、富山日報社
  25. 25.00 25.01 25.02 25.03 25.04 25.05 25.06 25.07 25.08 25.09 25.10 25.11 25.12 富山県、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  26. 『続群書類従第三輯上神祇部』所収「類聚既験抄」、1924年(大正13年)2月、続群書類従完成会
  27. 『古事類苑地部二』、1913年(大正2年)7月、神宮司庁
  28. 佐伯有義編、『富山県神社祭神御事歴』、1924年(大正13年)5月、富山県神職会
  29. 寺島良安、『和漢三才図会第三冊』、1901年(明治34年)11月、中外出版社
  30. 神道大系編纂会編、『神道大系神社編三十四 越中・越後・佐渡国』、1986年(昭和61年)7月、神道大系編纂会
  31. 神道大系編纂会編、『神道大系文学編一 神道集』、1988年(昭和63年)2月、神道大系編纂会
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  33. 『続日本紀』大宝2年3月甲申条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 34.5 日本歴史地理学会校訂、『大日本地誌大系 諸国叢書北陸之壱』、1917年(大正6年)4月、大日本地誌大系刊行会
  35. 『続日本紀』慶雲3年2月26日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  36. 『続日本紀』和銅2年3月壬戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  37. 『続日本紀』養老3年7月9日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  38. 『続日本紀』養老3年7月13日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  39. 文部省編、『史蹟調査報告第六輯』、1932年(昭和7年)2月、文部省
  40. 『続日本紀』天平4年5月乙巳条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  41. 『類聚三代格』巻三(仏事下)(『国史大系』第十二巻、1900年(明治33年)9月、経済雑誌社)
  42. 『国史大辞典第二巻』、1980年(昭和55年)1月、吉川弘文館
  43. 『続日本紀』天平13年12月丙戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  44. 『続日本紀』天平16年9月甲戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  45. 『続日本紀』天平18年4月丙戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  46. 『続日本紀』天平18年6月壬寅条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  47. 高岡市万葉歴史館ホームページ
  48. 48.0 48.1 48.2 48.3 48.4 48.5 48.6 48.7 48.8 48.9 佐伯昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校註、『萬葉集四』、2003年(平成15年)10月、岩波書店
  49. 神道大系編纂会編、「越中国神社由来」、『神道大系 神社編三十四 越中・越後・佐渡国』所収、1986年(昭和61年)7月、神道大系編纂会
  50. 鹿持雅澄、『万葉集古義 七』、1932年(昭和7年)6月、精文館
  51. あいの風とやま鉄道株式会社ホームページ
  52. 森斌、「家持天平二十年出挙の諸郡巡行歌の特質」、『広島女学院大学日本文学』第12号、2002年(平成14年)7月、広島女学院大学
  53. 『続日本紀』天平宝宇元年5月8日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  54. 『続日本紀』天平宝字2年9月28日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  55. 東京大学史料編纂所編、『大日本古文書 家わけ第十八(東大寺文書之十八)』、2002年(平成14年)6月、東京大学出版会
  56. 『続日本紀』宝亀6年3月2日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  57. 『続日本紀』宝亀10年12月14日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  58. 58.0 58.1 神道大系編纂会編、『神道大系首編一 神道集成』、1981年(昭和56年)3月、神道大系編纂会
  59. 『日本逸史』延暦14年8月18日条(『国史大系第六巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
  60. 『日本後紀』延暦23年6月10日条(『国史大系第三巻』、昭和41年8月、吉川弘文館)
  61. 『日本逸史』大同3年5月24日条(『国史大系第六巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
  62. 『公卿補任』(第一篇)大同元年条(『国史大系第五十三巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
  63. 『日本紀略』弘仁元年5月27日条(『国史大系第五巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社
  64. 64.0 64.1 『日本後紀』弘仁6年2月9日条(『国史大系第三巻』、昭和41年8月、吉川弘文館)
  65. 『続日本後紀』承和7年9月29日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  66. 『続日本後紀』承和12年9月1日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  67. 『日本文徳天皇実録』斉衡元年3月7日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  68. 『日本文徳天皇実録』斉衡元年12月27日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  69. 『日本文徳天皇実録』貞観元年1月27日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  70. 『日本文徳天皇実録』貞観2年5月29日条(『国史大系第三巻』、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
  71. 『日本三代実録』貞観4年10月9日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  72. 『日本三代実録』貞観5年6月17日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  73. 『日本三代実録』貞観5年8月15日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  74. 『日本三代実録』貞観5年9月25日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  75. 『日本三代実録』貞観6年3月23日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  76. 『日本三代実録』貞観9年2月27日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  77. 『日本三代実録』貞観9年10月5日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  78. 『日本三代実録』貞観15年12月15日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  79. 『日本三代実録』貞観16年7月11日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  80. 『日本三代実録』元慶2年5月8日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  81. 『日本三代実録』元慶3年2月8日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  82. 『日本三代実録』元慶3年10月29日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  83. 『日本三代実録』元慶7年1月26日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  84. 『日本三代実録』仁和2年12月18日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
  85. 『日本紀略』寛平元年8月22日条(『国史大系第五巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
  86. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第一編之二』、1928年(昭和3年)3月、東京大学出版会
  87. 87.0 87.1 87.2 87.3 87.4 87.5 87.6 87.7 蘆田伊人編、『大日本地誌大系 三州地理誌稿』、1931年(昭和6年)、雄山閣
  88. 神道大系編纂会編、『神道大系古典編十二 延喜式(下)』、1993年(平成5年)8月、神道大系編纂会
  89. 皇典講究所・全国神職会校訂、『校訂延喜式 上巻』、1929年(昭和4年)9月、大岡山書店
  90. 馬渕和夫・国東文麿・今野達校註、『今昔物語集一』、1971年(昭和46年)7月10日、小学館
  91. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第二篇之十二』、1971年(昭和46年)12月、東京大学出版会
  92. 『朝野群載』巻22諸国雑事上(『国史大系第二十九巻上』、1964年(昭和39年)11月、吉川弘文館)
  93. 『扶桑略記』巻29(『国史大系第六巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
  94. 94.0 94.1 『朝野群載』巻6(『国史大系第二十九巻上』、1964年(昭和39年)11月、吉川弘文館)
  95. 藤原宗友編、『本朝新修往生伝』、1882年(明治15年)1月、永田文昌堂
  96. 源光圀編、『大日本史二百五十九巻』、1907年(明治40年)、徳川総子(出版)
  97. 『百錬抄』巻9(『国史大系第十四巻』、1901年(明治34年)5月、経済雑誌社)
  98. 98.0 98.1 藤原兼実、『玉葉第二巻』(巻第三十八)、1906年(明治39年)6月、国書刊行会
  99. 99.0 99.1 市古貞次校註、『平家物語ニ(日本古典文学全集30』、1975年(昭和50年)6月、小学館
  100. 100.0 100.1 吉田東伍編、『大日本地名辞書中巻』(二版)、1907年(明治40年)10月、冨山房
  101. 町田嘉章・浅野建二編、『日本民謡集』、1960年(昭和35年)9月、岩波書店
  102. 『国史大辞典』第十二巻、1991年(平成3年)6月、吉川弘文館
  103. 東京帝国大学編、『大日本史料第五編之五』、1926年(大正15年)3月、東京帝国大学
  104. 『吾妻鏡』巻六、文治2年6月21日条(『国史大系第三十二巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
  105. 『愚管抄』巻5(『国史大系第十九巻』、1964年(昭和39年)12月、吉川弘文館
  106. 106.0 106.1 106.2 106.3 梶原正昭校註、『義経記』、2000年(平成12年)1月、小学館
  107. 『吾妻鏡』巻七、文治3年3月2日条(『国史大系第三十二巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
  108. 東京帝国大学編、『大日本史料第四編之一』、1902年(明治35年)8月、東京帝国大学
  109. 東京帝国大学文学部史料編纂掛編、『大日本史料第四編補遺別冊一』、1920年(大正9年)1月、東京帝国大学
  110. 東京帝国大学編、『大日本史料第四編之八』、1908年(明治41年)12月、東京帝国大学
  111. 佐々木月樵編、『親鸞伝叢書』、1908年(明治41年)7月、無我山房
  112. 妻木直良編、『真宗全書33』、1913年(大正2年)1月、蔵経書院
  113. 113.0 113.1 東京帝国大学編、『大日本史料第四編之十六』、1918年(大正7年)3月、東京帝国大学
  114. 『吾妻鏡』巻廿五、承久3年5月25日条(『国史大系第三十二巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
  115. 『吾妻鏡』巻廿五、承久3年6月8日条(『国史大系第三十二巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
  116. 古活字本承久記上巻より(栃木孝雄、日下力、益田宗、久保田淳校註、『保元物語 平治物語 承久記(新日本古典文学大系 43)』、1992年(平成4年)7月、岩波書店)
  117. 117.0 117.1 望月信亨、『望月仏教大辞典第二巻』、1932年(昭和7年)9月、世界聖典刊行協会
  118. 『続愚史抄』十九、正慶2年2月19日条(『国史大系第十三巻』、1966年(昭和41年)3月、吉川弘文館)
  119. 119.0 119.1 後藤丹治・釜田喜三郎校註、『太平記一(日本古典文学大系34)』、1960年(昭和35年)8月、岩波書店
  120. 120.0 120.1 120.2 東京帝国大学編、『大日本史料第六編之二』、1901年(明治34年)10月、東京帝国大学
  121. 富田景周編、『三州志 故墟考 図譜村籍』、1884年(明治17年)6月、益智館
  122. 東京帝国大学編、『大日本史料第六編之六』、1907年(明治40年)3月、東京帝国大学
  123. 塙保己一編、『群書類従第九輯』(巻二百三十一)、1894年(明治27年)3月、経済雑誌社
  124. 124.0 124.1 東京帝国大学編、『大日本史料第六編之八』、1908年(明治41年)12月、東京帝国大学
  125. 125.0 125.1 125.2 125.3 東京帝国大学編、『大日本史料第六編之九』、1910年(明治43年)3月、東京帝国大学
  126. 126.0 126.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之十三』、1972年(昭和42年)5月、東京大学出版会
  127. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之十五』、1972年(昭和42年)10月、東京大学出版会
  128. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之十六』、1972年(昭和42年)12月、東京大学出版会
  129. 129.0 129.1 129.2 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之二十四』、1973年(昭和48年)12月、東京大学出版会
  130. 130.0 130.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之二十九』、1974年(昭和49年)4月、東京大学出版会
  131. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之三十二』、1974年(昭和49年)6月、東京大学出版会
  132. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第六編之三十四』、1975年(昭和50年)3月、東京大学出版会
  133. 望月信亨編、『望月佛教大辞典』第三巻、1933年(昭和8年)12月、世界聖典刊行協会
  134. 寺嶋良安、『和漢三才図会』、1906年(明治39年)11月、吉川弘文館
  135. 東京大学史料編纂所、『大日本史料第七編之二』、1968年(昭和43年)10月、東京大学出版会
  136. 136.0 136.1 坂井誠一、『富山県の歴史』、1960年(昭和35年)2月、山川出版社
  137. 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典』第十一巻(畠山持国項)、1990年(平成2年)9月、吉川弘文館
  138. 東京大学史料編纂所編、『史料綜覧巻七』、1965年(昭和40年)6月、東京大学出版会
  139. 増補「史料大成」刊行会編、『増補史料大成第三十九巻 康富記三』、1965年(昭和40年)9月、臨川書店
  140. 140.0 140.1 東京帝国大学編、『大日本史料第九編之七』、1944年(昭和19年)2月、東京帝国大学文学部史料編纂所
  141. 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社
  142. 142.0 142.1 深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦、『富山県の歴史』、1997年(平成9年)8月、山川出版社
  143. 東京大学史料編纂所編、『大日本古文書家わけ第十八 東大寺文書之二十二』、「下長カ直宗書状」(文書番号一七二三)、2014年(平成26年)3月、東京大学出版会
  144. 竹内理三編、『増補続史料大成 第六巻(後法興院記二)』、1967年(昭和42年)4月、臨川書店
  145. 145.0 145.1 笠原一男・井上鋭夫校註、「朝倉始末記一(賀越闘諍記一)」、『蓮如 一向一揆(日本思想大系17)』、1972年(昭和47年)9月、岩波書店
  146. 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典第一巻』(足利義稙条)、1979年(昭和54年)3月、吉川弘文館
  147. 147.0 147.1 竹内理三編、『増補続史料大成第七巻(後法興院記三)』、1967年(昭和42年)4月、臨川書店
  148. 増補「史料大成」刊行会編、『増補史料大成第四十三巻(親長卿記二)』、1965年(昭和40年)9月、臨川書店
  149. 井上鋭夫校訂、『日本海文化叢書第一巻 加越能寺社由来上巻』、昭和49年4月、石川県図書館協会
  150. 文化遺産オンライン
  151. 東京帝国大学編、『大日本史料第九編之一』、1928年(昭和3年)1月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
  152. 東京帝国大学編、『大日本史料第九編之六』、1939年(昭和14年)9月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
  153. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第九編之九』、1954年(昭和29年)3月、東京大学出版会
  154. 154.0 154.1 154.2 154.3 東京大学史料編纂所、『大日本史料第九編之十一』、1956年(昭和31年)3月、東京大学出版会
  155. 高橋義彦編、『越佐史料巻三』、1927年(昭和2年)11月、三秀舎
  156. 富田景周編、『三州志 来因概覧 仝附録』、1884年(明治17年)5月、益智館
  157. 黒坂勝美編、『国史大系第五十五巻 公卿補任第三篇』(天文14年条)、1965年(昭和40年)7月、吉川弘文館
  158. 早川純三郎編、『言継卿記第二』、1914年(大正3年)9月、国書刊行会
  159. 高橋義彦編、『越佐史料巻四』、1928年(昭和3年)9月、三秀舎
  160. 160.0 160.1 富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1883年(明治16年)2月、益智館
  161. 161.0 161.1 萩原頼平編、『甲斐志料集成九 歴史部三』、1934年(昭和9年)9月、甲斐志料刊行会
  162. 162.0 162.1 サイト名:「新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡ライブラリー」。『北越軍記』デジタル画像を閲覧し得る
  163. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之一』、1968年(昭和43年)7月、東京大学出版会
  164. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之三』、1969年(昭和49年)3月、東京大学出版会
  165. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之五』、1969年(昭和44年)11月、東京大学出版会
  166. 166.0 166.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之六』、1970年(昭和45年)3月、東京大学出版会
  167. 167.0 167.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之九』、1971年(昭和46年)3月、東京大学出版会
  168. 東京大学史料編纂所、『大日本史料第十編之十』、1971年(昭和46年)7月、東京大学出版会
  169. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十編之二十三』、2000年(平成12年)5月、東京大学出版会
  170. 170.0 170.1 近藤瓶城編、『改定史籍集覧第十九冊』、1901年(明治34年)4月、近藤出版部
  171. 171.0 171.1 171.2 171.3 171.4 171.5 富山市役所編、『富山市史』、1909年(明治42年)9月、富山市役所
  172. 富田景周編、『三州志 来因概覧 仝附録』、1884年(明治17年)5月、益智館
  173. 遠藤和子、「戦国の遺産・佐々堤」、『土と基礎』第39巻3号所収、1991年(平成3年)3月、公益社団法人地盤工学会
  174. 174.0 174.1 富山県編、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  175. 175.0 175.1 175.2 175.3 近藤瓶城編、『改定史籍集覧第十九冊』、1901年(明治34年)4月、近藤出版部
  176. 176.0 176.1 176.2 176.3 富山県、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  177. 177.0 177.1 177.2 177.3 177.4 177.5 富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1883年(明治16年)2月、益智館
  178. 越後史料叢書編輯部編、『越後史料叢書第壱編 北越太平記全』、1914年(大正3年)9月、文港堂及び笹谷書店
  179. 179.0 179.1 179.2 179.3 東京帝国大学編、『大日本史料第十一編之一』、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
  180. 180.0 180.1 東京帝国大学編、『大日本史料第十一編之三』、1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
  181. 東京帝国大学編、『大日本史料第十一編之四』、1932年(昭和7年)4月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
  182. 182.0 182.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之八』、1952年(昭和27年)3月、東京大学出版会
  183. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之九』、1952年(昭和27年)3月、東京大学出版会
  184. 184.0 184.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之十』、1956年(昭和31年)11月、東京大学出版会
  185. 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典第六巻』、1985年(昭和60年)9月、吉川弘文館
  186. 近藤瓶城編、『改定史籍集覧第六冊』、1900年(明治33年)11月、近藤出版部
  187. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之十四』、1972年(昭和47年)3月、東京大学出版会
  188. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之十六』、1978年(昭和53年)3月、東京大学出版会
  189. 189.0 189.1 189.2 189.3 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之十八』、2000年(平成12年)8月、東京大学出版会
  190. 190.0 190.1 190.2 190.3 190.4 190.5 190.6 侯爵前田家編輯部編、『加賀藩史料第壱編』、1929年(昭和4年)4月、石黒文吉
  191. 富田景周編、『三州志 故墟考 図譜村籍』、1884年(明治17年)6月、益智館
  192. 192.0 192.1 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之二十三』、2002年(平成14年)3月、東京大学出版会
  193. 193.00 193.01 193.02 193.03 193.04 193.05 193.06 193.07 193.08 193.09 193.10 193.11 193.12 富山県編、『越中史料』第2巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  194. 富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1884年(明治17年)4月、益智館
  195. 浜黒崎郷土編纂委員会編、『浜黒崎の近現代史』、2000年(平成12年)9月、富山市浜黒崎自治振興会
  196. 196.0 196.1 東京帝国大学編、『大日本史料第十二編之二』、1901年(明治34年)11月、東京帝国大学
  197. 東京帝国大学編、『大日本史料第十二編之三』、1902年(明治35年)11月、東京帝国大学
  198. 198.0 198.1 198.2 198.3 198.4 198.5 198.6 198.7 198.8 198.9 侯爵前田家編輯部編、『加賀藩史料』第2巻、1930年(昭和5年)2月、石黒文吉
  199. 高岡市ホームページ
  200. 200.0 200.1 200.2 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十二編之六』、1970年(昭和45年)3月、東京大学出版会
  201. 高岡古城公園ホームページ
  202. 明治神社誌料編纂所編、『府県郷社明治神社誌料中巻』、1912年(明治45年)1月、明治神社誌料編纂所
  203. 東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十二編之九』、1971年(昭和46年)3月、東京大学出版会
  204. 国書刊行会編、『史籍雑纂 第二』、1911年(明治44年)11月、国書刊行会
  205. 蘆田伊人編、『大日本地誌大系 三州地理誌稿』、1931年(昭和6年)、雄山閣
  206. 富山県射水郡本江村役場編、『本江村史』、1929年(昭和4年)、富山県射水郡本江村役場
  207. 207.0 207.1 富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1884年(明治17年)4月、益智館
  208. 侯爵前田家編輯部編、『加賀藩史料』第3編、1930年(昭和5年)7月、石黒文吉
  209. 海底資源開発で連携 日本海沿岸の10府県:産経新聞2012年9月8日
  210. メタンハイドレート活用研究10府県が会議設立:神戸新聞2012年9月8日
  211. 日本海の資源開発で連携、連合設立。本県など日本海側10府県:新潟日報2012年9月10日
  212. メタンハイドレート、日本海でも調査を 10府県が連合:朝日新聞2012年9月9日
  213. 電気料金(一般電気事業者間比較) (PDF) 電気事業便覧
  214. 経済産業省 商業統計
  215. 215.0 215.1 国土交通省 道路統計年報
  216. 残るJR在来線はすべて地方交通線で、非電化・単線となっている。
  217. “TJとやま休刊 創刊38年、県内タウン誌の草分け”. 北日本新聞. (2017年12月12日). http://webun.jp/item/7421955 . 2018閲覧. 
  218. 富山県83.9%、全国平均64.3%、東京都47.2%(2005年)統計局国勢調査調査開始以来全国1位
  219. 富山県156.9m2、全国平均95.2m2、東京都65.9m2(2005年) 統計局国勢調査
  220. 教育関係の統計一覧
  221. 富山県3.01人、全国平均2.60人、東京都2.17人(2005年)統計局国勢調査 福井山形に次ぐ全国3位
  222. 全国3位(2004年)消費実態調査結果より引用かつては1位であったが、低下傾向にある
  223. 富山県0.59世帯、全国平均2.14世帯、大阪府4.35世帯(2005年)社会福祉行政業務報告の引用 100世帯あたりの生活保護世帯数
  224. 富山県56.57%、全国平均44.43%、奈良県36.30%(2005年)統計局国勢調査の引用福井山形に次ぐ全国3位
  225. 統計局家計調査
  226. 統計局家計調査
  227. 中川正「関東における北陸人集落の繁栄」『とやま経済月報』平成14年3月号
  228. 明治25年至同29年府県別北海道移住者人員 道庁殖民部拓殖課『明治29年来住戸口表』富山県出身者が全体の1割以上を占めていたことが分かる
  229. 229.0 229.1 229.2 229.3 229.4 229.5 伝統的工芸品指定品目一覧・業種別 (PDF)”. 伝統的工芸品産業振興協会. . 2018閲覧.
  230. 230.0 230.1 230.2 230.3 230.4 富山県商工労働部経営支援課地域産業係 (2016年7月5日). “とやまの伝統工芸品”. 富山県. . 2018閲覧.
  231. 「奥会津昭和からむし織」、「千葉工匠具」、「東京無地染」、「越中福岡の菅笠」及び「三州鬼瓦工芸品」を伝統的工芸品として指定しました”. 経済産業省 (2017年11月30日). . 2018閲覧.

関連項目

外部リンク

行政

観光

先代:
富山藩
行政区の変遷
1871年 (第1次富山県)
次代:
新川県
先代:
石川県の一部
越中国
行政区の変遷
1883年 - (第2次富山県)
次代:
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